第6話
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あなたは気がつくと真っ暗闇の中にいた。
意識が覚醒へと向かう中、身じろいだ際に手の中にあったものを取り落としてしまったようだ。感触からして小瓶に類する容器だと思うのだが、明瞭でない意識では手元の暗がりにまで注意が向かない。
ここは何処だろうか。
次第に意識がはっきりしていくにつれ、深刻な不安感に襲われることになった。それは自制しがたい恐怖心にすぐさま取って代わる。それでも、なんとかして現状に至った経緯を思い出すために自身の記憶を辿ることにした。
蘭子を自宅まで送り届け、それからいつもとは違う道を通ってみようとして、人気のない路地裏に足を踏み入れたのだ。そこで、
「ぁっく、」
恐怖に身の毛がよだつ。
記憶はそこで途切れており、その直後に何か恐ろしい目に遭ったことだけは朧気に覚えていた。
やたらとかび臭い背もたれから身を起こすと、べったりとした冷や汗の感触が背中に残った。少しでも楽な姿勢をとろうと、無意識に足を広げる。すると、何かが足先に触れた。夜目が利いてきた視界に入ったそれは、一目で火のそれとわかる光源を伴っていた。次いで何かが焼けるような臭いを感じ取ると、それが意味することを察してぞっとした。
火の点けられた七輪だ。
あなたは最悪の想像が現実になろうとしていたことを知った。暗闇の中を手探りしながら、自分を閉じ込めるこの密室がどんなものであるかを確認しようとする。そうして脱出の糸口を探る最中も一酸化炭素は周囲に満ちていくのだ。あなたを死に至らしめるために。
次第に目が暗闇に慣れてくると、自分が乗用車の後部座席にいるらしいと判断できた。恐らくはミニバンサイズの車で、自分が一酸化炭素中毒に陥ってしまうまでにそう長い時間を必要としないであろうことも察せられた。
あなたは慌ててドアハンドルがあると思しき場所に手を伸ばすが、そこには破壊痕らしきギザギザとした剥き出しの金属の感触があるばかりだった。
思わず叫びたくなるのを堪えながら、窓があるはずの場所へ腕を突き出す。すると、手のひらからは思いのほか柔らかな感触が伝わってきた。そのことに迷いを振り切られ、腕に力を込める。直後、ビリビリとテープが剥がされる音と一緒にあなたの上半身が窓から飛び出した。どうやら窓枠に嵌っていたのはガラスではなく、目張りに使われていた段ボールか何かだったらしい。
あなたは咳き込みながら、慌てて肺の中身を新鮮な空気で満たそうとした。息を整えてから、必死の思いで窓枠を乗り越えたあなたは自分を捕らえていたものの正体を知る。それは予想通りというべきか、不法に投棄された乗用車のようだった。
周囲を見渡せば、目の前の自動車と同様に捨てられた粗大ごみの群れが山を成し、星の明かりに照らされていた。外はすっかり暗くなっている。
ごみ山の上で尻餅をついたきり足腰に力が入らず、あなたはすぐには立ち上がれずにいた。その場に座り込んだまま、極度の緊張で荒くなった息と動悸を抑えつけようとする。
徐々に落ち着きを取り戻すと、自分が置かれている状況を頭の中で整理しようとした。そして、危うく命を落とすところだったことを思い知って大きく身震いする。
幸い七輪に火を点けられて間もないうちに目が目が覚めたおかげで助かったようだが、それなら自分を車に押し込んだ張本人はまだ近くにいるかもしれない。そう思い立った途端、路地裏での記憶が鮮明に蘇った。怖気に身をよじりながら周囲を見やる。そうしてしばらくは動けずにいたが、結局誰も現れなかった。
路地裏で自分は何者かに襲われた。その後、気を失った自分はここへ連れてこられたのだろう。
よろよろと立ち上がると、足元を確かめながら慎重にその場を後にした。ここは人里離れた山中らしく、辺りは木々に囲まれて鬱蒼としている。
ここまで大量のごみを運んだ車が生んだであろう轍があるものの、そこを唯一の道と考えると犯人とばったり出くわすのではと不安になった。しかし、夜に野山を彷徨い歩くのも危険に違いない。意を決したあなたは轍の上を進むことにした。
耐え難い恐怖に苛まれながら、足を動かし続ける。できる限り物音を立てないように、慎重な足取りに努めて進むこともあなたの神経を徐々に擦り減らしていく。体力の限界は間近に迫っていた。
どれだけの間歩き続けていたのか、あなたには時間の感覚も定かでなくなってしまう。無心に足を動かそうとするも、こんなときに限って過去の暗い記憶が頭をよぎる。紛れもないフラッシュバックの予兆だった。
そして、その瞬間は訪れた。
悲鳴は声にならず、息を詰まらせたあなたはその場に蹲ってしまう。呼吸を忘れてしまう程の、強烈なフラッシュバック―――過去の悪夢に襲われていた。視界が滲みだすと、這いつくばった状態でがむしゃらに手足を動かした。少しでも前に進もうとする意識が僅かに残っていたのだろう。しかしそれも長くは続かず、胎児のように背を丸めた姿であなたは逃れられない苦痛から自分を守ろうと必死に耐えた。
それからやっとの思いで立ち上がると、急な吐き気に見舞われた。そのまま足元に胃の中身を吐き出すと、震える膝に手をついた。ほうほうの体でなんとか立っていられたが、手の支えがなければ今にも倒れてしまいそうだ。
しばらく荒い息を整えることに専念していると、なんとか歩く気力を取り戻せた。あなたは再び進み始める。何もかも意識の外に追いやって、暗がりを歩き続けた。
すると、気がつけば開けた車道に出ている。ようやく道らしい道を歩けることに安堵しながら、一方であのまま山道の半ばで死ねた方が過去に囚われ続ける人生を送るよりましと思う自分もいた。
不意にハイビームで照らされた自分の影が伸びていくのを目にして、次に近づいてくるエンジンの音を意識した。緊張に身体が強張り、思わず足が止まる。
犯人が帰ってきたのだろうか。隠れてやり過ごすことも考えたが、既に逃げる気力も失せてしまっていた。諦め半分でその場に立ち尽くしていると、迫ってきた軽トラックはこちらを通り過ぎることなく目の前で停車した。次いで、助手席のドアが開かれる音。
「あれ、秋山さんじゃないっすか。何してるんすかこんなとこで」
唐突に掛けられた声に、あなたは自分の耳を疑った。トラックから降りてきた人物の正体をすぐさま悟ったが、それが現実なのかにわかに信じることができないでいる。
何故なら、それはクラスメイトの浅野深雪の声だったからだ。