2,喋る猫、影なる獣(2)
第二話、喋る猫、影なる獣(2)
「────────」
十字に切れ込みの入った口腔を大きく開き、全身を余すところなく粘液でテカらせた巨大な化け物────『陰獣』は、躊躇なく鎌を振り下ろす。標的は蠅のように鬱陶しく飛び回る魔法乙女だ。
「フッ」
だが、黒嵜は想像を絶する速度で鎌を避ける。空振りした鎌は、陰獣の感知できないサークルが描かれた地面の側に突き刺さった。ナメクジのような下半身をもった陰獣は、側溝や田畑の段差を気にすることなく黒嵜と戦い始めた。
「ッ……わぁ!?」
飛び散るコンクリート片と田んぼの泥水が、瀬渕とシンを守っていたシールドに当たって小さな波紋が生まれる。陰獣から感知されず、多少の攻撃も防げる性能がこれで証明された。しかし瀬渕は、安全だと分かりながらも腰を抜かしてしまった。
「う……あぁ……」
登下校の田舎道を自動車が走っていても、母親が料理で包丁を手にしても、遠出するために電車に乗車しても、風呂でスマホを弄っていたって、いつだって死ぬ危険性はあった。だが『慣れ』は、日常の光景になれば『死』という危機感をすべて奪い去っていく。
少年は一歩間違えれば殺されていたことに、生まれて初めて『死』を実感した。テレビやネットや漫画を介してみるのとは違う本物の『死』────。
「……」
せめて黒嵜を応援したかった瀬渕だったが、『死』の恐怖を前にして、それすらままならなかった。口を動かそうにも開いた口がふさがらず、握りこぶしで鼓舞しようにも力が入らない。その体は恐怖によって小刻みに震えている。
(────凄い、こんなに変わるなんて)
だがその『死』が日常になっていた乙女からしてみれば、驚くべきは異形の化け物などではなく、自身の体に起こっている変化の方だった。
後方の魔方陣でへたり込んでいるクラスメイトが側にいるだけで、自分たち《魔法乙女》のステータスを上昇させてくれる特異体質だと猫に聞かされた時は、自身が魔法乙女に勧誘された時ぶりに「何を言っているんだコイツは」と訝しみ、また反対もした。
もしもそれが本当だったとして、一般人であるクラスメイトをこちら側に巻き込むのは心が痛んだからだ。しかしそれも周囲に押し切られ、瀬渕の身の安全を絶対的な条件とすることで、瀬渕をこの場に呼び出すことを了承した。
だが、こうして予想をはるかに上回るエネルギーが身体に漲るのを実感すると、周囲が瀬渕を特異体質と名付けたのも納得の肩書だった。
重力から解き放たれたような身軽さを感じ、かつてない高揚感が恐怖心さえも支配する。まるで肩甲骨やヒールに翼が生えたようだ。
(これなら……)
あのヌルヌルテカテカとした陰獣の粘液には、触れた生物の生命力を一時的に奪う力がある。被験者体験者曰く、風邪をひいたかのように頭がボーっとして身体は熱を帯び、糸の切れたマリオネットのように脱力してしまうとのことだった。
それは際限なく地面に滴り落ちる粘液の一滴ですら、すぐに身体が火照るほどだ。なんなら陰獣の傷口から零れる血液のような体液の匂いを、長期的に嗅ぐだけでも危うい。
まるで神経毒か、あるいは媚薬のような液体は未だにどの機関も解明に至っていない。だからこそ、陰獣の体液に触れることは魔法乙女の間では絶対的なタブーとされていた。
「ハアアアァァァッ!!!」
それがどうだ────。
今までの鬱憤を晴らすかのように、ステッキの先から噴出される高エネルギーの刃で、鎌のように湾曲した腕を切り落とす。
「────────ッッッッ!!!!」
痛覚があるのかは分からないが、声にならない声をあげて全身を身震いさせる陰獣。
(────やっぱり!!)
黒嵜は、断面から飛び散る陰獣の体液が纏わりついてすこぶる不愉快なのを除けば、それ以外に体に異常は感じられない。
今までは安全に配慮し、体液が当たらないよう、安全圏からちまちまと魔法のエネルギー弾を放つだけだったが、黒嵜にとって遠距離攻撃は苦手分野だった。
性格的には合っているのだが、彼女の魔法乙女としての素質がそれを拒んだのだ。彼女はその華奢な見た目と小動物を連想させる性格にそぐわない、バチバチの近接系ファイターの素質を秘めていた。
近接を得意とする魔法乙女は、魔法を使役する際にスポーツ選手のようなキレのある動きをする。特にそれが顕著に現れるのは空に浮かぶ瞬間だろう。
近接以外の魔法乙女であれば、手から紐が離された風船のようにふわりと離陸するのに対し、近接の魔法乙女は、思い切り地面に叩きつけられてバウンドしたスーパーボールのように力強く地を蹴り上げるのだ。
黒嵜は後者の発動方法で空を飛ぶ────。
遠距離魔法を使うたびに、近接系魔法乙女の因子が反発して制御が難しく、火力も他の魔法乙女より劣っているため、戦闘が長引くのは日常茶飯事。毎回毎回へとへとになって家に帰る。そのせいで翌日は眠気や疲れが取れず、気怠さ全開で学業に励まなければならない。そうした鬱屈とした態度が表に出てしまい、元来の性格と相まってクラスの中では浮いてしまっていた。
自分を気にかけてくれる友人もいるが、まさか全てを打ち明けるわけにもいかず曖昧に返すばかり。このまま自分は陰獣のせいで、灰色の学校生活を送り続けることになるのか。
そんな全ての悩みを吹き飛ばしてくれる、彼女が求めていた《魔法》のような夢の力────。
「ウリャアアアァァァ!!!!!」
今まで溜まりに溜まったフラストレーションが火山のように爆発していた。
「────ッ!!!!!」
今日何度目かの雄たけびと共に、振りかぶられた陰獣の左鎌をステッキで力任せに弾いて、がら空きとなった陰獣の頭にかかと落としを食らわせた。接地面からは空気を振動させるほどの衝撃が起こり、化け物の頭部はぐしゃりと凹む。
黒嵜のポ〇キーみたいな細い体からは考えられないパワーこそ、近接系の魔法乙女である証拠。瀬渕からすれば、事前に聞かされていた魔法はどこ行ったと突っ込みたくなる戦闘である。今ならデコピン一つで林檎を砕くことなどお茶の子さいさいだろう。
(凄い……凄い、凄い、凄い、凄い凄い凄い凄い凄い!!!!)
黒嵜は自然と鼻息が荒くなる。台風のような暴力は、もはや爽快感に変わっていた。
「すげぇ……」
一方の瀬渕は何とか立ち直ったものの、言葉を失い、幾何学模様のサークルから、地味で大人しいクラスメイトによる一方的な虐殺を眺めていることしかできなかった。時々近くに飛び散ってくる粘液に驚くだけで、他にリアクションの取りようがない。あまりの衝撃に感覚が麻痺してきており、陰獣のグロテスクな断面図も、鼻が曲がりそうな腐敗臭も気にならなくなっている。
「おや、立ち直ったのかい。意外と根性あるじゃないか」
女性の声で飄々とした口調の猫が、瀬渕の隣で手をぺろぺろと舐めて寛いでいる。触発された瀬渕は何を言うべきか口をパクパクさせた後、ようやく喉から声を絞り出した。
「一周回ってもうどうにでもなーれって諦めて……。それより、く、黒嵜さん……大丈夫なの……?」
「ハハハッ」
「……なに笑ってんだよ」
「いや失敬、目と鼻の先で命のやり取りをしてるのに自分より人の心配をするのが珍しくてね」
「だって俺は、ここにいれば安全だってアンタが……さっきだって、魔方陣が破片を防いでたし……。でも、でも黒嵜さん、あ、あんな化け物と戦って……」
瀬渕は震えた指で、カマキリとナメクジを合体させた化け物と戦う黒嵜を指す。
しかし黒嵜は、バフのお陰で化け物を一方的にボコっているため心配など不要なのだが、キャパを超えた情報に緊張と恐怖で軽いパニックになった瀬渕は、素人目なためどっちが優勢か分からないのだ。ただ分かっているのは、か弱く地味なクラスメイトが変身し、命を賭して巨大な化け物と戦っているということだけ。
あれは紛うことない化け物。地面を抉るパワーと鋭さを兼ね備えた鎌を操る化け物だ。一回でも鎌に触れればこの世からオサラバなことくらい一目瞭然。
瀬渕はただ、黒嵜に誘われたことで非日常を味わえるだけでよかったのだ。それがまさかアニメや特撮のような出来事に見舞われるとは思いもせず、話を聞くだけでは得られなかった危機感は実感となり、陰獣との戦いを目の当たりにして徐々に平常心をむしばんでいく。
そんな瀬渕を安心させるように、猫は大きな伸びをした。
「……安心したまえ。そろそろ終わるようだ。討伐開始からたったの2分半……いやはや討伐記録を大幅に更新したな。さすがは特異体質」
「なんで分か────」
不意に、瀬渕の視界はピンク色の煌々とした光で埋め尽くされた。
その光を辿っていくと、両腕を切り落とされて頭部も凹まされ、胴体のあちこちが粘液と共に崩れ落ち、既に原型を留めていない化け物がいる。
その真正面で黒嵜が腰を落とし、ピンク色の光は拳に収束していた────。
「《ペイル・バスター》!!!!」
猫の宣言通りそれは急に終わりを迎えた。光が爆発したかと思えば、化け物の身体が跡形もなくなっていたのだ。後に残されたのは、地面に飛び散った粘液と化け物の破片、そして宙に浮かぶ金色の球体だけだった。