扉の向こう
「…………ん」
ミサキは目を覚ますとすぐ、自らの体を覆う奇妙な感覚に気づいた。
「ん?」
裂けた皮膚はまだ痛むが、それ以上がないのだ。裂けていく皮膚の感触が、まるでしない。
初めはそれを感覚が麻痺しているのだと思ったミサキだが、違うと気づく。
呪い、『理返し』がない。綺麗さっぱり、嘘のように消失している。この体を覆う違和感の正体はそれだ。
「な……?」
ミサキは困惑した。竜二の時でさえあんなに手こずったこの呪いが、なぜ?
そして理解する。
「もしかして……あの少年……」
呪いは、死ねば消える。だからミサキは、一度死んだのだ。
一度死んで、寿命を分けてもらって生き返った。
「ばかやろう……」
今ここに、あの少年はいない。
ということは、あのドアの向こう――愛らしき隣人に、彼は会いに行ったのだろう。
「ほんとに、君は……」
それだけ呟くと、再び彼女は眠りについた。
がんばれよ、少年。
立て付けの悪い扉の向こう、世界を区切る歪んだ空間。放っておけば異界と現世を繋ぎかねないほど不安定な代物。それが古アパートの一室にある。
冒涜的なまでに真っ黒な、これを作った人間の憎悪を表すような十字架と、それに縛り付けられた幼吸血鬼。ヴィヨンド。
彼女はすでに、言葉も発することができないほど衰弱していた。
ぼくは彼女の首を大事に抱えて、十字架の前に座った。彼女の頭と体の両方、そのどちらにも声が届くように。
「……昨日話してた時、ずいぶん無理してたよね。きみ」
答えはない。おそらく、もう聞こえていない。
眷属を作る力なんて、当然残っていない。
「そうそう、ぼくさ、元々きみに寿命をあげるつもりで来たんだ。だけど実はもう魔力切れで、『命譲り』の術式も書けないんだよ。困ったね」
返事はない。
「なあ、ヴィヨンド。ぼくもう、きみにしてあげられることがないんだ。犬笛も、ポーションも全部使っちゃった。ぼくにはもう、何もないんだ」
返事はない。
「なあ、ヴィヨンド。返事をしてくれよ。もう一度話がしたいよ。全部諦めたら、その時はきみと話をしようって決めてたんだよ。話させてくれよ」
返事はない。
「なあ、ヴィヨンド……」
ああ。
ああ、だめだ。
せっかくなにか話そうって決めてたのに、ぼくが何も言えないんじゃどうしようもない。だけど、言葉が出ないんだよ。なんだか胸のあたりがすごく苦しいんだよ。
どうすればいい? ぼくは、なにをすればいい? 百年も生きたきみならわかるかな。ぼくよりずっと長く生きたきみなら知ってるかな。
「知らないよ……ぼくは、何も知らない……きみを助ける方法も、この心の痛みも……なんなのか、全然わかんないんだよ……」
歪んだ空間にヒビが入り始めた。役目を終えた牢獄が閉じようとしている。つまり、封じた吸血鬼の力が失われているという証拠だ。
ヴァンパイア・ハンターの残した執念が、ヴィヨンドを連れて行こうとしている。
いやだ。
そんなのは、いやだ。
一緒にいたい。生きていたい。置いていかないで。
歪んだ空間はどんどん収束する。閉じていく。終わりが近づく。十字架が崩れていく。
ぼくは最後にキスをした。抱えたヴィヨンドの首にキスをした。
お姫様の呪いを解くのはいつだってキスだから。一縷の望みを賭けて、ぼくはそっと口づけをした。だけど何も変わらなかった。十字架が完全に崩れ落ちた。
世界が、閉じる――。
『――――――――――――――――――――――――――――――――――――』
その直前で、ぼくは声を聞いた。
大口を開いた鯨が、閉じかけていた空間ごとぼくらを飲み込んだ。




