666号室の前で
花崎さんは留守だった。ちょうどいい。
だが。
「ミサキ、さん……」
「……やあ、少年。間に合ったようでなによりだ」
古アパートの666号室。その扉の前に座り込むミサキさんは、血だらけだった。
それもそのはず、竜二の呪い、『理返し』。それを共有している彼女だ。こうなるのはわかっていたことだった。
そんなリスクを背負ってまで、彼女はぼくを止めようとしてくれた。それがどれだけ難しいことか、ぼくなんかには想像すらできない。
「実を言うと、もう立てそうもなくてね。むろん、君を止めるなんて、できっこない」
瀬戸際で呪いを食い止めているが、それもいつまで保つか――ミサキさんは、この状況でなお笑顔を忘れない。
「だからさ、話をしよう。ああ、これだけやって間に合わなかった女の悪あがきだ、聞いてくれたまえよ」
ぼくは無言で、ゆっくり彼女の隣に座った。罠だとは微塵も思わなかった。ぼくは彼女を信じていた。
「ああ、心配はいらない――もうこれ以上の追っ手は来ない。あとの連中はみんな放任主義でね。本人たちの好きにさせろ、という意見が大部分を占めていたよ」
「…………」
「バンピーは自分じゃ鯨から降りられないし、鯨も地面に降りることはない。茜ちゃんもしばらくは飛べないだろうし、竜二も動けるような状態じゃない」
まったく、完璧にやられたよ。ミサキさんは肩をすくめる。それすら辛そうに。
「負けた。君には負けた。完全敗北だ。だから聞かせてくれ」
ミサキさんはぼくの目を見る。ぼくもミサキさんの目を見返す。逸らしたくない。嘘は言いたくない。彼女の行動に答えるために、正面から向き合って言葉を交わすべきだ。
「君、本当はあそこで何をするつもりなんだい?」
「……は」
はは。本当に。
本当に、この人には敵わない――。
「……『命譲り』ですよ。ただ、人間相当の寿命をあげるつもりはなかったですけど」
「と、言うと?」
「ヴィヨンドにぼくを咬ませて、ぼくが彼女の眷属になるつもりでした」
「……やっぱりか。やっぱり、君はその道を選ぶんだね」
「はい」
吸血鬼の眷属となれば、その寿命は主人の命が尽きるまで――つまり永遠だ。しかも眷属が死んだところで、親である吸血鬼の寿命には何ら影響はない。
だが、人狼やハーピィなどの亜人が眷属になるならまだしも、脆弱な人間が眷属になっても、むしろデメリットの方が多い。
太陽の下を二度と歩けないし、十字架を見るだけで目が焼け、銀に触れると肌が爛れる。高位の吸血鬼でさえも完全には無視できないデメリットの数々を、もろに受けることになる。
そうなれば、もうぼくは普通には戻れない。危険な夜の世界でしか生きられなくなる。
「だけど、この方法なら――ぼくは人間の寿命をはるかに超えた長い時間、ヴィヨンドと共にあれる。これだけの長い時間ならば、いつか彼女を解放してやれる。そう思ったんですけど」
「悪くないアイデアかもね。永遠の時の中なら、いつかは本当にあいつを元に戻してやれるかも知れない」
だけど、とミサキさんは続ける。
「そもそも、どうやってヴィヨンドに咬ませる気だった? きっとあいつ、正直に言っても君のことは咬まないと思うけど」
「……それは……」
「ははは。ノーアイデアかい。君らしい……」
そこで、ミサキさんの頭はがくっと揺れた。
「ああ、駄目だ……血が足りない。こりゃ死ぬかもね、私……」
「ミサキさん……」
「大丈夫だよ。救急車はすでに呼んである。私の分、竜二の分、万一に備えて君の分まで。だから大丈夫さ。日本の救急車は優秀だ、きっと私が死ぬ前に来てくれる……」
「……知ってますよ」
救急車なんて、この人は呼んでない。いくら最先端の医療を受けたところで、根本的な呪い……『理返し』をどうにかしない限りは何もかもが無意味だ。
そしてこの人は、この呪いをこれ以上拡散させないために、死ぬときは一人を選ぶだろう。下手に手を加えて誰かが呪い返しを受けるよりかは、一人で死ぬのを選ぶ。呪いを抱えた人間が死ねば、死後に発動するものでもない限りそのまま呪いも消滅する。
そういう人だってこと、知ってますよ。
「ミサキさん」
「……うん……?」
もはや瞼を開ける力すらないのか。少し微笑んだまま、彼女は目をつむっている。
「大丈夫です。あなたは太陽系の外でも生きられる人です」
「……そうだ、そうだ……私は、簡単にゃあ、死なない……」
「ええ、死にません。だって――」
このぼくが、死なせません。




