九月十九日(日) 2
「じゃあ、何か買ってくるけど、何が欲しい?」
「そうだなあ……お茶でいいよ。ジュースとか炭酸とか、甘いのは飲めそうもないし」
「そ。他なんかある?」
「うーん……あ、あとお菓子も欲しいな。できれば飴とかガムとか、手を使わないで食べれるやつがいい」
「はーい、じゃ適当に買ってくるね」
そう言って母さんは病室から出て行った。ああ、なんか目がごろごろする。こんなに、号泣と言っていいほど泣いたのって人生初かもだ。そのせいで目玉がふやけてる気がする。
それにしても、いい話だった。まだその余韻が残ってる。それにずっと浸っていたいけど、そういうわけにもいかない。
「いるんだろ、黒猫。出てこいよ」
「……私の個体名は〝黒猫〟ではないのだがな。私は……」
「あー、いいよいいよそういうの。どうせ俺にゃ聞き取れねえってオチだろ。つうかやっぱいたんだな。いつから覗いてた?」
「最初からだ。分かっていたんだろう? ともあれ、直接話すのは初めてだな、藍川光」
声を掛けると、黒猫は現れた。まるで初めからそこにいたような――いたらしいけど――自然な存在感で、現れた後も一瞬気づかないくらいだった。
「聞きたいことがある。あの時聞きそびれたからな」
「答えられる範囲でなら、答えよう」
「あの時不良撃退したの春原じゃねえだろ」
俺は直接本題に入った。だが腹立たしいことに、突然の質問にも黒猫は予想していたように冷静だった。
「ああ、私だ。君が襲われているのを目撃して居ても立ってもいられなくなった春原愛奈の身体保護のために、私がリソースを消費した」
「そんなこったろうと思ったよ。もし春原の体質が見境いなしなら、俺の母さんも春原を怖がって当然だ。でもそんなことはなかった」
「案外、頭は回るようだな」
黒猫は諭すように言う。褒めてるつもりか?
「別にあれが初めてではない。これまで春原愛奈は何度か人間の悪意で殺されかけたが、全て同じ対処を取らせてもらった。一度脅せばその後は手を出してこなくなるから、まあ有効な手立てだったよ。そのせいで彼女は、自分のことを人に嫌われて怖がられる化け物と思っていたようだが」
相変わらずしれっとすごいことを言うやつだ。そんな芸当できるならもうちょっと春原を助けてやれよとか、ツッコミどころは多々あるが、今そんな暇はない。早くしないと母さんが帰ってくる。
「で、本当は何が聞きたいのだね? 答え合わせがしたかったわけではあるまい?」
「見透かしてんじゃねえ……その通りだけどよ」
一々ムカつくな、猫のくせに。
だがこいつの言う通りだ。俺は答え合わせなんかのためにこいつを呼んだんじゃない。
「俺を神社まで連れてってくれ。できるだろ、あんたなら」
「できる」
「即答かよ。頼もしいな」
「だが私が連れて行ってやれるのは、石段までだ。そこからは君が、君自身の力で進まなければならない。それでもいいのか?」
「それでいい。今のまんまじゃそこまでも行けないしな」
「即答か。いい返事だ」
……今こいつ、笑った? いや、気のせいか。
「それでは早速行こう。何か忘れ物があるなら諦めろ」
「おい、せめて着替えさせ――ッ!」
あの夢の世界が閉じた時のように、現実がまぜこぜになった。視界が回って気持ち悪い。こっちは怪我人だぞ容赦しろよ!
なんて思っていたら、俺はいつの間にかあの山道で松葉杖をついて立っていた。服装も、俺の普段着だ。一瞬でついちまった。思わず唖然としてしまう。
「私の役目は終わりだな。リソースを使いすぎた」
黒猫が俺の足元で行儀よく座っている。リソースってなんだ。
「松葉杖と服はサービスだ。これで山登りにも支障はないだろう」
「ああ、サンキュな……って痛ぁ!? なんだこれ! 死ぬ!」
「何だも何も、忘れたわけではあるまい。そもそも君は絶対安静の身だぞ? 今立っているだけでも奇跡だと思え」
ぐああ! 全身が熱い。今すぐ病院のベッドで横になりたい。だ、だがこれも必要な痛みだ。俺が神社に行くための。
「では、健闘を祈る」
声がしたと思ったらもう黒猫はいなかった。せっかちなやつめ。しかし、健闘を祈ると来たか。
「最後まで憎たらしいやつだよ、本当に……」
でもまあ、感謝くらいはしてやってもいいか。あいつがいなかったらここにも来れてなかったし。
さて、と。俺は石段を、さらにその上を見上げて、一歩目を踏み出した。足全体が少し痛むが、我慢できないほどでもない。俺は歩みを進める。
この一週間、色んなことがあった。
月曜日はいつも通りで――あの時はこんな一週間になるとは思ってなかった。
火曜日に春原と出会い――初めて友達ができたと思った。
水曜日に風邪を引いて――母さんに手紙を書いた。
木曜日に恋心を自覚して――猛烈に恥ずかしくなった。
金曜日に不良に襲われ――自分の無力さが嫌になった。
土曜日は記憶がなく――母さんに心配をかけた。
そして今日、九月十九日、日曜日。約束の一週間。任務の終わり。
俺は春原に、告白する。
これまでのあいつと一緒の日々は、楽しかった。刺激的だった。幸せだった。でももう終わりだ。もう夢から覚める時間だ。
俺は〝終わる〟ために石段を登る。この日々と、この心に決着をつけるために。
さよならを言うために。
「はっ、はあっ」
相も変わらず長い道のりだ。平坦でもないし、むしろ険しいし。絶対安静の怪我人が登るような場所じゃない。以前の俺なら絶対に諦めていた。今の俺は?
「諦めねえ……!」
何度転んだって、振り出しに戻ったって、両足が折れたって、俺は這ってでも進む。
母さんに誓った。いつまでも守られてばかりの子供じゃ駄目だ。俺は俺から脱却しなければならない。
体中がミシミシと嫌な音を立てる。過負荷に挫けようとしている。それでも俺は前に進む。
汗が噴出する。包帯の裏に溜まる。それが不快で無理矢理剥がして捨てた。前へ。
足がもつれて転んだ。受け身が取れなくて頭を打った。焦らず着実に起き上がる。前へ。
傷口が開いたか、どろりとした感触を頬に感じる。袖で擦って拭う。前へ。
進む。
オレンジ色が次第に濃くなる。太陽が夕方の短時間しか見せない空模様。今は何時だろう。俺はちゃんと間に合うだろうか。いや、間に合わせてみせる。
頂上が見えてきた。石段の果て。揺れる黒いしっぽと、そこに腰掛けた人影。退屈そうに黒猫を撫でる手つき。
春原が、俺を見つけた。
「あっ! 光くんだ!」
嬉しそうに手を振るその姿が変わらず元気そうで、俺はほっとした。その反面、チキンな俺の心臓が音を立てて巡り始める。
……俺、今からこいつに告白すんのか。
覚悟は積み上げてきたはずだ。それでも度胸が足りない。勇気がない。石段を踏み出す決断ができない。中途半端なとこで立ち止まってしまって、春原に疑念を抱かせてしまった。
「どうしたの? っていうかあれ? なんか光くん怪我してない!? なんで!? 大丈夫!?」
「あ、ああ。いや全然大丈夫じゃないけど……」
絶対安静って言われたしな。あれって本当に言われることあるんだ。
「じゃあここに来ちゃだめだよ! お家でゆっくりしてなきゃ! 怪我は痛いよ、死んじゃうよ! うぎゃー! 思ったよりひどい!」
俺が尻込みしているうちにも、春原という女はあまりにも簡単に距離を詰めてくる。石段の一つ先で大騒ぎする姿は、良くも悪くもいつも通りだ。俺がいつも通りじゃないから及び腰なだけで。
「にゃむ」
黒猫が俺を呆れたような目で見ていた。「ここまで来てへっぴり腰とは情けないにゃあ」とでも言いたそうだ。あいつはにゃあとか言わないだろうけど。
「なにがあったの!? ここで転んで落ちちゃった!? それとも車にひかれたとか!? なにがあったらこんなにボロボロになっちゃうのーっ!?」
「う、うーん……」
まさかその通りだとは言えない。しかもその後にボコボコにされたとか、ちょっと春原には刺激の強い話だ。あの通り魔共め、春原に心労をかけるとは重罪だぞ。
「と、とにかくこっちで休んでく? ばんそーこーとかはないけど、ちょっとは楽になるかもだよ?」
「ありがとな」
春原は手を差し伸べてくれたが、松葉杖なので握り返せない。それに春原のペースで手を引かれたら今度こそどっかがブチブチいきそうだったので、悪いが遠慮しておいた。貴重な手を握る機会だったのだが、まあ、いいだろう。
「…………」
「…………」
黒猫と通りすがりざま目が合った。「あまり時間はないぞ」そう聞こえるようだ。
分かってる。
「春原」
「ん?」
短い参道の半ば、少し先を行く春原を振り向かせるように名前を呼ぶ。
「どうしたの? 光くん」
春原の髪が夕焼けを透かして朱に染まる。大きな目が前髪の影に隠れる。
少しすぼんだ唇。何も言わない俺を心配してか八の字になる眉毛。張りがあって透明な肌。まだ幼さを湛えた輪郭。細い腕と足。宝石みたいに輝く両の瞳。体質さえなければ今頃テレビでタレントやってても不自然じゃないような、可憐な少女。
俺の好きな人。
それが俺を見てくれることは、幸せだ。
「な、なに? 体が痛いの? わ、私はどうすれば……」
見当違いに困惑する春原を前に、俺はゆっくり息を吸う。深呼吸。
落ち着け。肝心なとこで噛んだら一生後悔するぞ。鼓動を黙らせるように胸を掴む。吐きそうだ。ここで吐いたら台無しだ。堪えろ、飲み込め。でも思いまでは飲み込むな。
「春原」
「う、うん!」
「俺、実はお前のこと好きなんだ」
春原は、静止した。ぴたりと止まった。春原の周りだけ時間が流れなくなったように。まるで処理落ちしたパソコンみたいだ。
心臓まで一緒に止まったんじゃないかと思うくらい、春原は何の反応も見せない。あまりに動かないもんだから、「は、春原?」と逆に心配してしまった。
風が葉っぱを揺らす音しか聞こえない。何の音沙汰もない。何だこれ。静かすぎて、自分がちゃんと告白できたのかさえ疑ってしまう。
黒猫が見かねたように「にゃう」とわざとらしい鳴き声を上げる。その瞬間、春原は再起動した。
「……………………………………………………………………………………………えう」
何だそれ。
言葉とも言えない反応を残し、春原はまた停止してしまった。その顔がもしかしなくても真っ赤で、見ているこっちも赤くなりそうだ。これは夕焼けのせいだけじゃない。俺のせいだ。
「ひ、光くん」
「な、なんだ?」
春原の目が泳ぎまくっている。指をつんつんさせたり組み替えたりで忙しそうだ。こんなにテンパっている春原を見たのは、最初に「友達になりましょうって言ってるでしょ!」と叫ばれた時以来だ。
春原は俺と目を合わせないまま、か細い声で俺に尋ねる。
「そ、その、す、すき……って言うのは、女の子が男の子に言うみたいな、あ、いや、男の子も言うけど、とにかくそういう、か、彼氏とか彼女みたいな意味の、〝好き〟ですか?」
「そのつもりで言ったんだけど……伝わらなかったか?」
「あう……つ、伝わったよ……たぶん」
それきり、春原は再び黙る。たぶんて。
しかしマズいな。こんなに困惑させてしまうとは思ってなかった。
これまでずっと人に嫌われてきた春原だから、好意には慣れてないだろうと思ってはいたけど……予想以上の恥じらいだった。というか春原が必要以上に恥ずかしがるせいで、俺も必要以上に恥ずかしい。
それでも俺は答えが欲しい。
「なあ」
「はいっ!」
びしっと背筋が伸びてしまう春原。慌ててんなあ。俺はつい笑ってしまう。でもここは笑う場面じゃない。俺はすぐ真面目な顔に戻して言う。
「返事、もらえるか?」
「……………………うう」
ついに春原はしゃがみ込んでしまった。また急に立ち上がって叫び出さないよな。
「あ、あのね。実を言うと私、こんなのはじめてだから、どうすればいいのか分かんないの……なんて言えばいいのか、どうやって答えればいいのか、分かんない……」
「大丈夫だって。俺も初めてだ」
「ひ、光くんもなの……?」
「ああ。するのもされるのも縁がなかったからな」
自分で言ってて悲しいが。
「そ、そうなんだ……私がはじめて……えへ」
春原はどことなく嬉しそうにしていたが、はっとすると照れモードに戻ってしまった。そのぷるぷるした状態のまま、春原はちらっとこっちを見た。
「ち、ちなみになんですが」
春原は変な口調だ。「なに?」
「光くんは私の、どういうとこが好きなんでしょうか……」
「…………、」
レベルの高い質問が来た。それをお前の目の前で言えというのか? 恋愛初心者の俺にはなかなか厳しいものがあるぞ。言うけど。
「え、えっと……まず、俺を助けにきたこと。ただの通りすがりで、助けても嫌われるかもしれないのに、それでも来てくれたこと」
「゛んっ」
「なのに意外と怖がりなとこ。この前森の中で遊んでる時降ってきた毛虫に驚いてたの、正直めちゃくちゃ可愛かった」
「んんっ!」
春原は自分で聞いたくせに照れている……もうちょっとだけ続けようかな。
「あと、反応がいちいちオーバーなとこ。見てて楽しいし、喜ばせがいがある。次は何をしようかなとか、何したら喜んでくれるかなって、家でもバイト先でもお前のことばっか考えてた」
「んぅ……」
「服あげた時もそうだよ。俺のお古なんかにはしゃいで何度も着替えてたの、本当に嬉しかった。何着てても似合ってた。俺が着たら微妙なものあんなに着こなせるなんてすげー、って思ってた」
「んんんん……!」
「てかそもそも顔がかわいいよな。目もくりくりしてるし、ほっぺたももちもちしてそうでさ。お姫様みたいだ。ドレス着て舞踏会にでも行ったらさ、会場のやつらみんなお前に見惚れると思うぜ」
「んぅっ!」
「ほら、今なんか必死に恥ずかしいの我慢して声漏れてるのなんて、もう世界一可愛いよ」
「んやぁああああああああああっ!」
春原が逃走した! でも神社の扉は立て付けが悪いのでスムーズには逃げられず、しばらくがちゃがちゃやっている。可愛い。開けたら閉めるのをしっかり守っているせいで隠れるのにも時間がかかり、これもまた可愛い。
「なご」
言い過ぎだ、ってか? ……まあ、俺も調子に乗っちゃった感はあるけど。
「あ」
しばらくすると、扉がガタガタと揺れ出した。小さく開いた隙間から春原の顔だけが出てくる。可愛い。可愛い物体が声を震わせて言う。
「……いじわる」
「ごめん。でも全部本当だから」
「んんっ! ……ま、まあ気持ちはよく分かりました。分かったのでもう言わなくていいです」
「残念だな。まだまだ言い足りないのに」
「だ、だめって今言った! 言わないで! 変になる!」
お前が変になったって俺は構わないけど。それを言うと二度と顔も出してもらえなさそうなので言わない。
「……それで、返事はもらえるか?」
「…………う」
春原は扉の影に隠れた。が、それでは何も解決しないと悟ったらしく、大人しく扉を開けて出てきた。
俺たちは再び向かい合う。距離は少し、遠いけど。
「一個、聞いていい?」
「ああ、もちろん」
さっきのトンデモ自滅質問を思い出して咄嗟に身構えたけど、春原が知りたいのなら何でも答えてあげたい。俺は二つ返事で快諾した。
「人を好きになるって、どんな感じ?」
……難しい質問だな。でも、俺は答えを持ってるはずだ。
俺が春原を好きと思うのなら、それが答えだ。
「そうだな」
俺は思い出の中を旅するように空を仰ぐ。この一週間、俺はどんな気持ちでいた?
「まず、楽しい。相手がそこにいなくても相手のこと考えて、ニヤニヤしたりドキドキしたりする。一緒にいればもっと楽しい。話したいこと話して、やりたいことやって、同じことに感動したり熱中したりするのは、時間を忘れるほど楽しい」
「……うん」
「でも、楽しいだけじゃない。時々寂しい。一緒に遊んだ後お別れするのは嫌だ。ずっと遊んでたいのにできない。一人の時間がつまらない。これまで一人でできてたことが、急にできなくなってしまう。会えない時間が寂しい」
「……うん」
「だからまた会えたら、その時はすごく嬉しい。どうでもいいことを報告したくなる。話が途切れるのが嫌で長引かせてしまう。自分の話で笑ってくれたら嬉しい。聞いてくれるだけでも嬉しい。もっと喋りたくなる。そんな時間が嬉しくて、幸せでしょうがない」
「……………………」
「……俺は、こういう風にお前が好きだ。だから、これが〝好き〟ってことなんだと思う」
他人がどうだかは知らないが、俺がこう感じるんだ。みんなそうだろ。恋なんてみんな一緒だろ。一人を好きになって、恋い焦がれるのは人類共通のことなんじゃないのか?
「……それが、〝好き〟?」
「これが〝好き〟だ……たぶん俺ら以外、みんな知ってることなんだと思うぜ」
そんな当然のことをようやく知った。母さんは俺が好きな人ができたと言っただけで大人認定してくれたが、残念。最近のガキはませてるんだ。俺が遅かったのさ。
やっと普通になっただけなんだ。
「そっか、そうなんだ……」
春原は嘆息するように呟くと、顔を上げて俺と目を合わせた。その顔はすでにいつもの春原だったけど、どこかすっきりしているように見えた。心のもやが晴れたような顔つきだった。
春原はにこりと微笑んだ。唐突なその笑顔に、俺は胸を高鳴らせる。
なぜなら、その春原は今まで一番魅力的で――綺麗だったから。
「じゃあ、私も。私の光くんのこと、好きだよ」
その顔が何か俺は知っている――恋する顔だ。俺と同じ顔だ。
答えが聞けて満足した。もういい。もう思い残すことはない。
――ギラギラと無粋な光と共に、UFOが音もなく俺の背後に降り立った。
つまりはさよならの時間だった。




