九月十九日(日) 1
「光!?」
目覚めて一番に聞こえたのは、慣れ親しんだ母さんの声だった。だけどその声には今までにない緊迫感が宿っていて、状況の深刻さを知らせてくれる。
「看護師さん、光が! 光が目を覚ましました!」
「分かりました、すぐに先生を呼んできます。藍川さんは息子さんに付き添いを」
会話から察するに、ここは病院か。言われてみれば薬の匂いがする。というか顔中に包帯が巻いてある。どうも俺は本当にヤバかったらしい。入院なんて初めての経験だ。しかも個室でなんて。
などと呑気に考えられる状況でもない。全身がバキバキに痛い。大風邪引いた水曜日よりもひどく、指一本動かすのにもいちいち体中が悲鳴を上げる。
「動かない方がいいわよ。あんた、ひどい状態だったんだから。手術までしたのよ」
手術。ほお、そんなイベントを寝てる間に過ごすとは、ちょっともったいない気もするな。まあ意識がある状態でやられても嫌だけど。
でも、手術か。ということは、また母さんに余計な金を払わせてしまったな。入院代だって馬鹿にならないだろうし。つくづく金を食うやつだな、俺は。
「昨日手術して、ずっと付き添ってたけど、それでもあんた目覚まさなくて。今日もそうだと思ってたから、目を覚ましてくれて本当によかった……」
母さんは少し鼻声だった。泣いてる姿なんて久しぶりに見たな。
外はまだ明るいが、日が傾きかけている。午後四時三分。普段なら母さんが家を出るくらいの時間だ。
「あれ、母さん……仕事は?」
口の中が切れてて喋りにくい。もごもごしてて聞きづらかっただろうが、さすが母親と言うべきか、一発で判読してくれた。
「休んだわよ。そうに決まってるでしょ。仕事なんて行けるわけないじゃない」
「……ごめん」
「なに謝ってんの。悪いのはあんたじゃないわ」
母さんはそう言ってくれるが、責任は感じる。俺のせいで余計な時間を使わせてしまった。
最後の最後まで、迷惑をかけ通しだった。
そのうち医者がやってきて、俺の体を軽く診た。診察後二ヶ月は絶対安静とのご用命を言い渡すと、バタバタと忙しそうに去っていった。俺だけに時間を割けるはずがないのも分かっちゃいるが、ちょっと塩対応なんじゃねえの?
「もうちょっと時間かけてくれてもいいのに……」
母さんも同じことを思っていたようで、不安げにそう言う。
「…………」
「…………」
医者が出ていった後、俺と母さんの間には沈黙が訪れた。と言っても話す話題がないわけではなく、どう切り出そうかと悩んでいる風だった。
「……光、聞いて」
やがて、母さんがぽつりと話し始めた。その口調は重く、ともすれば俺よりも喋りにくそうだった。俺は意識的に耳を傾ける。
「母さんね、知ってたの。あんたが虐められてたこと」
「…………、」
……バレてたのか。
「いっつも生傷つけて帰ってきて、下手な嘘でごまかそうとして、そんなの、誰だって分かるわよ……私に心配かけないように無理して笑ってるの、自分の息子のことくらい分からなくてどうするの」
俺は月曜日のことを思い出す。仕事に向かう母さんと鉢合わせして、殴られた顔を見られた時のこと。あの時も俺は笑って嘘を吐いた。
だけど、春原にだって下手と言われた笑顔だ。母さんが気づかないなんて、ありえなかった。
「あんた昔っから大人しかったから、教室で喧嘩なんかするわけないでしょ。担任の先生に聞いてみても、やっぱりずっと一人でいるって。だからおかしいとは思ってたの」
「…………」
初めから、見透かされていたのか。俺の嘘は無駄だったわけだ。それもそうだよな。普段から会話しないやつが嘘だけ上手いなんて、そんな馬鹿な話はない。馬鹿は俺だった。昔から、母さんに余計なもん背負わせてばっかだ。
「でも……」
母さんは少し言い淀んでいるようだった。俺はただ次の言葉を待つ。母さんの顔が俺から逸れて下を向いた。
「……でもね、私も悪いのよ」
その声は、弱々しかった。今にも消え入りそうな声だった。あるいは俺が先生に当てられた時のものより、ずっと。それが母さんの口から出たものとは思えなかった。
「私も知ってて、放置してた。あんたと話し合いする時間を取らなかった。仕事が忙しいとか色々言い訳にして、あんたの気持ちなんて全然考えてなかった」
母さんは自分の負い目を話す。見過ごしてしまったことへの罪悪感。母さんの顔は俯いたままで上がりそうにない。
「きちんと最初から私が動いていれば、止められたかもしれないのに。あんたを助けてやれたかもしれないのに。私はあんたを無視してしまった。あんたを徒に傷つけさせてしまったの」
……俺は、そうは思わない。もし母さんが学校に俺のことを話したとしても、状況は変わらなかったと思う。無気力な先生。無関心な生徒。事なかれ主義の巣窟。表面上は解決しても、きっと現場が変わっただけだ。
俺はあいつらに食われ続けていた。
そう思う。
「……あんた、最近学校サボってるでしょ」
それもバレてたのか。敵わないな。
「担任の先生がこの前私に電話してきたの。『光くん来てないけどまだ風邪ですか』って。体調が悪いって書き置きをしてた割には、ずっと外に出てたでしょ。ねえ、あんたどこ行ってたの? まさか、そこでも虐められてたんじゃないでしょうね?」
「……違うよ」
それに関しては否定させてもらう。俺は春原に会いに行ってたんだ。
「そう、ならいいんだけど……でもごめんなさい。先に謝っとくわね。母さん、あんたの部屋に勝手に入っちゃった」
母さんは申し訳なさそうに言うが、別に見られて困るものはないから構わない。いや、待て。
ある。
机の引き出しの中に、あの手紙がある。
「ねえ」
母さんが問う。その声は変わらず細かったが、何か強い感情が込められていた。それを覚悟と呼べるのかもしれない――辛い現実を受け止める覚悟。
「あの手紙って、あんたの遺書?」
「…………っ」
直接伝えるにはこっ恥ずかしい感謝の数々を無遠慮に書き殴った置き手紙。別れを告げる代わりに用意した思いの丈。それを見られた。まだ俺が地球から去る前に見られた。
だけど問題はそこじゃない。読まれて恥ずかしいってことじゃない。
問題は、誤解をされたことだ。
もちろん、俺に自殺するつもりなんて毛頭ない。確かに悠々自適とは言えない生活を送ってきたが、死ぬほど追い詰められているわけではなかった。
だが時期が最悪だった。成人式や結婚式で読まれれば感涙の一つや二つあっておかしくない手紙が、息子が毎日生傷作って帰ってくるような時に見つかれば、そりゃそんな誤解も受ける。
しかもそいつが「これまでありがとう」だなんて意味深に始まれば、そんなの遺書以外の何ものでもないだろう。事実、俺はお別れのつもりで書いた手紙だったから、余計にだ。
「もしそうなら…………そんなに追い詰められるまであんたを放置してた私の責任。今回のことだって、電話をもらった時心臓が止まるかと思った。あんたが、その、死んじゃったのかと思った」
そうじゃないと分かった後でも、母さんはしばらく気が気でなかったらしい。俺も同じ状況ならそうなるだろうな。焦って取り乱して失敗するだろう。
……しかし、どうやって説明すればいいんだ? 俺が宇宙人で、一週間後……というかもう二時間後には帰ってしまうことを、誰もが納得いくように説明するなんて可能なのか?
この期に及んで嘘でごまかすのも馬鹿らしいが、真実がそれ以上に馬鹿らしい。こんなことで悩んでいるやつなんて、世界で俺だけなんじゃないか?
俺が半分寝ている脳味噌を回転させていると、不意に母さんが俺の手を握った。それが優しく包み込むようで、指一本も動かせないはずなのに痛くない。
温かい。
「……辛い思いさせて、ごめんね。母親失格だね」
違う。そんなわけがあるか。反射的にそう言いたくなった。
親失格なんてのは、春原の両親みたいなやつに向かって言うことだ。自分の子供を大事にしない、ろくでなし共に突きつける言葉だ。間違っても、俺の母さんが自分に向かって使う言葉じゃない!
そう叫びたいのに、喉が干上がったように一言も発せない。小さく震える母さんの背中は、俺にとってそれほどの衝撃だった。母さんの存在がどんどん縮んでいくような錯覚さえする。
「何もしてあげられなくて、ごめん。見過ごしてごめん。あんたの気持ちに気づいてあげられなくてごめん。普通の母親みたいにできなくて、ごめんなさい」
まるで懺悔でもするように母さんは謝罪を繰り返す。違う。違うんだ母さん。騙していたのは俺の方なんだ。
宇宙人が子供のいない家庭にやってきて、彼らの記憶をいじって赤ん坊を授けた。そいつは人間と同じように成長して、同じように死んでいくよくできた偽物だった。
俺は母さんの本当の子供じゃない。それだけが、嘘の下手な俺が母さんを騙し続けてきた唯一の嘘。
でもそんな俺を、嘘つきを、母さんは確かに愛してくれた。息子と思って接してくれた。それが〝親〟じゃなかったらなんなんだ。それを否定することは俺にはできない。
俺は自信を持って言える。俺みたいな偽物にこれまで愛情を注いできたあんたは、俺にとっては間違いなく、誰よりも立派な「母親」なんだ!! って。
「っ――」
だけど、それをどう伝える? どう伝えられる?
荒唐無稽だ。嘘にしたってもうちょっとまともだ。
俺は何も言えない。言えるわけがない。今事実を伝えても無駄に混乱させるだけだ。まず信じてもらえない。
「母さん」
信じてもらえない――なら。
「俺、好きな人できたんだ」
俺の嘘では母さんは騙せない。だから事実だけを言おう。事実で事実を覆い隠そう。
「好きな、人?」
「ああ」母さんが「急に何を言い出すんだ」という顔をしたが、俺は構わず続ける。「そいつとは学校の外で出会ったんだけど、一緒にいた時間はもう学校のやつらより長いよ。出会ったのはつい数日前なんだけど、俺はたぶん――たぶん一目惚れだった」
目をつむれば思い出す。バイト帰りの夜道。猫の鳴き声。フードで覆った春原の表情。それを脱いだ時。
思えば、あの瞬間から――俺は春原に恋をしていたのだ。
俺は口の傷を押してまで、必死に伝えようと努力した。
「あの手紙、あれは確かにさよならの代わりだった」
「じゃ、じゃあやっぱり……」
「俺ね、母さんの言う通り、辛い思いはたくさんした。カツアゲされたし、殴られたし、誰も助けてくれなかった。誰も助けてくれないだろうって勝手に諦めた。クラスに友達なんて一人もいなかった。一人でご飯食べるのが当たり前だった。学校から家に帰るのも一人だった。バイトじゃ何度も怒られるし、何度も理不尽に怒鳴られた…………同級生が家族の話をする中で、俺だけ父さんの声も知らない」
あの日々が苦しくないと言えば、それは嘘だ。
一人が寂しくないと言えば、それも嘘だ。嘘は母さんには通用しない。だから嘘は言わない。
「なんで俺だけがこうなんだろう、ってずっと思ってた。俺じゃなくてよかったのに、って。俺だって幸せになりたかったし、俺だって愛されたかった」
でもね、母さん。俺は続ける。
「俺好きな人できたんだ。そいつといると楽しいんだ。幸せなんだ。辛いこと全部忘れられるんだ。これまで失ってきたもの全部、そいつとなら取り返せるって思ったんだ」
母さんはぽかんとしていた。そうだ。これはのろけ話だ。春原愛奈がいかに俺に幸福をもたらしてくれたか、って自慢してるだけなんだ。
「……ここからいなくなれるならいなくなりたい、って俺は思ってた。こんな世界に未練はない、って。全部どうでもよかった。いいことなんて一つもない。嬉しいのも楽しいのも全部嘘。だけど違った。夢でも理想でもなかった。ちゃんと俺の分まで神様は用意してくれてた。俺はそいつにそう教えられた」
地球は、人間は、まだ捨てたもんじゃないらしい。愛も希望も、あながちでたらめじゃないらしい。そんな当たり前のことを、ようやく知った。
「そいつといると全部キラキラして見える。何やってても楽しくて、ずっと一緒にいたいって思うんだ。だから――」
俺は。
もうここから消えたいだなんて、思わないよ。
「――……っ」
俺は俺の本心を語った。そこに一片も嘘や虚偽はない。包み隠さない、歯に衣着せない藍川光の本音。コード1234でもない、俺自身の言葉だ。
「……そう」
放心からゆっくりと覚めて、母さんはそう呟いた。
「あんたももう、大人になったのね……」
「十八年も生きてるからね。そろそろ子供のままじゃマズいでしょ」
俺の冗談に母さんはふっと笑った。よかった。やっと母さんの笑顔が見れた。
「……俺の方こそごめんね、母さん。色々心配かけた」
「いいのよ。子供は親に心配かけるものなの」
その言葉で、俺は心底勝てないと思った。ノータイムでそんな返答が来たら、もう返す言葉なんてない。
今日もまた敗北宣言。だけど、いつになく心地いい。
「さっきのあんたの笑った顔、父さんにそっくりだった。やっぱり親子なのね」
「…………!」
ずるい。
親って、ずるい。
ここに来てそんなの、泣かせる気満々じゃん。
「……今まで頑張ったね。お疲れ様」
「っか、母さんこそ……! いつも頑張り過ぎなんだよ、ちょっとは休めよ……っ!」
「ありがとね。心配してくれて」
「子供は親を心配するもんなの……っ!」
俺は泣いた。みっともなく泣いた。わんわん声を上げた。
でもこんなに泣いたのって、もう何年ぶりなんだろう?
「……父さんの話、聞かせて。どんな人だったの?」
「いいよ。いっぱい聞かせたげる」
俺は目を潤ませながら、父さんの話を聞いていた。母さんも待ってましたと言わんばかりにたくさん聞かせてくれた。
外はもう、赤く染まり始めていた。




