九月十七日(金) 3
どうしてこうなったんだっけな? 俺は懸命に思い出そうとした。
全身が痛い。打ったのか擦ったのか、剥がれたのか折れたのか、その判別すらつかない。とにかく痛い。痛え。ぴくりとも動けない。
アニメとかじゃたまに見るけど、決まってそいつらはピンピンしてた。だけど実際に食らってみりゃ、ただの人間なんかひとたまりもないわな。
車に轢かれるなんざ、俺じゃなくたってこうなるに決まってる。
がちゃりがちゃり、と車の扉を開く音が聞こえる。俺を轢いたやつが俺の安否を確認しに、じゃないだろう。それならもっと慌てて近寄ってくるだろうし、武器なんていらないはずだ。
人がそれを握る時は、誰かを攻撃する時だけなんだから。
「あ、い、か、わ、くぅーん。元気してたかよ?」
俺を轢いたのは、あの金髪とチンピラ連中だった。相も変わらず粘着質で、神経を逆なでするような不快な声だ。そいつが倒れた俺を見下ろしていた。
車のライトが逆光になって、あいつらの顔はよく見えない。それでいいのかもしれない。どうせ見るに耐えない醜悪な表情を貼り付けているだろうから。見ないでいいのならそれに越したことはない。
この期に及んで斜に構える癖は抜けていないみたいだが――俺の体は確かに震えていた。
「今日はあの野郎いねえみてえだな。ちっ。まあいいや、君だけでもボコボコにするか」
痛い。痛い。痛い。痛い。直接的な体の痛みより、こいつらの悪意の方が染みる。痛覚はそのまま恐怖に転じる。歯の根が合わない。逃げようとミミズみたいに這いずる背中を、思い切り踏みつけられた。
「かふっ……」
「なあ、聞いてよ藍川くぅん? 俺ヤクザなんだけどさ、ヤクザって組長に上納金払わなきゃなんだわ。で、今月ヤバいしちょっと協力してよ。ついでにこの前の借りも返すから、さ!」
背中。肩。脇腹。腰。顔。次々に蹴りが飛ぶ。その度に何かが削られていく感覚がする。全身がやけにだるい。これだけやられて痛くないわけがないのに、まるで麻痺してしまったかのように、これがどこか遠くのことのように感じる。意識が朦朧とするって、こういうことを言うんだろうか?
「ははっ、君ってば軽いねー! ちゃんと食ってんの? カワイソーだし、俺の靴食わせたげるよ」
そう軽薄に言って、金髪は靴を俺の口にねじこんできた。むろん、そんなもの入るように俺の口はできていない。途中でえづいてもやめてくれず、むしろさらに押し込んでくる。みちみちと無理矢理内側から押し広げて、異物が喉の奥まで到達しかける。
耐え切れない。
「うわっ! おいおい、なにゲロなんか吐いてくれちゃってんの。これ十万したんですけど? 弁償しろよ!」
金髪の靴が俺の鼻筋にめりこんで、ばきりという音がした。胃から出た吐瀉物に赤い何かが混ざる。どろどろと俺の顔を伝って地面に広がっていく。
「きったねー。あ、そうだ。これ飲めよ、お前」
思いつきのように金髪は俺の髪を掴み、汚物の中央に俺の顔を叩きつけた。折れた鼻がコンクリートにぶつかって粘性の音を立て、俺の顔面は胃液と消化物のスープでぐちゃぐちゃになった。
「ははははは! なあおい、見ろよこれ! 鼻すげー方に曲がってるぞ!」
もっとやったらもっと曲がるか試してみようぜ! 何度も。何度も。俺の頭でドリブルするみたいに、金髪は俺の顔をコンクリートの地面で殴打した。
意識が飛ぶ。
感覚が混濁する。
「あ、これってもしかして、顔面真っ平らの人間できんじゃね!? うっは、俺天才! どんぐらいやりゃ顔って潰れんだろ? ま、やってりゃ分かるか」
ぐちゃ。ぎち。べぎ。ばぎ。ぐちゅ。ごりゅ。めき。べちゃ。
痛い。
「うえ、この白いのって骨? グロっ! おいお前ら見てみろよ! エグいぞ!」
尊厳も、倫理も、道徳観も、正義感も、ご大層なお題目は何一つこの場にはない。ただ目を背けてしまうほどの悪意がある。暴力がある。
人間の、負の集大成。その歴史で積み上げられてきた、害悪の塊。それに俺は押し潰されそうになっている。精神的にも、物理的にも。
どこまで突き詰めたって、この暴力には意味がない。俺を痛めつけて誰かを守れるわけじゃないし、女の子にモテるわけじゃないし、金が手に入るわけじゃない。金髪も言っていたように、これはただの憂さ晴らしなんだ。
あの日春原を前にしっぽを巻いて逃げ出さざるを得なかった、その仕返しを俺にしているだけだ。
俺のせいじゃない。俺が悪いわけじゃない。ただ一緒にいただけだ。巻き込まれただけだ。冤罪だ。俺は悪くない。見逃してくれ。言い訳ならいくつも思いつく。
でも、違う。痛いけど、苦しいけど、逃げ出したいけど、それでも俺はこれを〝最悪〟だなんて思ってない。
なぜなら、春原が傷ついてない。
ここにいるのが春原じゃなくてよかった。傷つくのが俺でよかった。もし男の俺じゃなくて女の春原だったら、きっと痛いよりひどい目に遭わされた。だから俺でよかった。
そう思えることに、俺は何より安堵した。まるで主人公みたいだ。
俺はコンビニで出会ったあの少年を思い出した。颯爽としていて、俺なんかよりよっぽど完璧に近い人間。主人公。
主人公はどんな逆境でも挫けない。たとえ負けても、俺は最後まで格好良く足掻きたい。
ああ、でも。
こんな時に過去の出来事を思い出すのは、走馬灯ってやつなのかもな――。
「あーつまんね。飽きた。疲れるわ」
金髪がようやく俺の髪から手を離した。それまで何発食らったのか俺ももう分からない。だがこの地獄までが終わったわけじゃない、ということくらいは理解していた。
金髪は躊躇なく俺の体に腰を下ろすと、俺のリュックを漁って財布を取り出したようだった。不服そうな声を上げる。
「はぁ? たったの千円しか入ってねえじゃん。おい、お前通帳どこだよ。カードとか持ってねえの?」
「…………」
俺は何も答えない。喋れる状況じゃないというのもあるが、答えて俺の得になるようなことが何もない。
「おい! 無視すんな! どこかって聞いてんだよ!」
金髪は俺の肩を殴りつける。俺は黙ったままでいる。
「ふざけんなよてめえ、調子乗ってんじゃねえ! さっさと言えや!」
立ち上がり、蹴りつける。一撃ごとに骨が軋む。内部まで衝撃が伝わる。それでも俺は無言を貫いた。
「……あ、そっかぁ」
不意に、金髪が蹴るのをやめた。諦めたという様子じゃない。とてつもなく嫌な予感がする。
「教えたくねえんだろ? じゃあ教えなくていいわ」
その先は聞きたくない。やめろ。黙ってくれ。
だけどそんな願いは、叶わない。
「生徒手帳財布に入れとくなんて真面目だねー! ははっ、しっかり住所書いてら。真面目なのにこういう場合は考えてなかったんだな、ウケる」
マズい。
バレた。一番バレちゃいけないやつに、住所を知られた――母さんが危ない!
「通帳も家にあんだろ? なあ、番号なんだよ。教えろよ。言わなきゃ殺すよ?」
俺は俺の迂闊さを呪った。入れておくべきじゃなかった。たとえ緊急時に困ったって、あんなもの持ち歩くべきじゃなかったんだ。今以上の危機なんてきっと存在しないから。
「あー、そういや君んちシングルマザーだっけ?」
ぞくりと。悪寒が全身を駆け巡った。
悪意が突き刺さる。それは。それは。俺が傷つくよりずっとずっと怖いことだ……!
金髪は、愉しげに言う。
「言わないと、お母さんが危険な目に遭っちゃうかもねぇ?」
ちくしょう。ちくしょう、ちくしょう!
なんて俺は無力なんだ。何もできない。一発逆転どころか、一矢報いる手段すらない。
俺はどうなろうと構わない。だけど、俺の大切な人が傷つくのは怖い。俺が死ぬより怖い。
だって、俺を愛してくれた貴重な人だ。俺にとって唯一無二だ。俺のおかげで楽になるようなことはあってもいいけど、俺のせいで苦しむことだけはあっちゃいけない。俺が俺の問題に巻き込むわけにはいかない。
「い、う」
「あん?」
「言う、から。全部話すから。だから、母さんには、何もしないで……」
「…………あぁ、約束してやんよ」
俺は四桁の番号と、通帳の場所を口にした。金髪は笑いが止まらない、という感じで終始吐息を漏らしていた。
俺は屈した。足掻けなかった。主人公にはなれなかった。その上でただ負けた。
金髪たちがどこかに行って、俺は暗い夜道に残された。誰かが倒れた俺を発見したようで、その悲鳴を最後に記憶がない。
おぼろげな意識で聞こえたのは、近づいてくるサイレンの音だけ――。




