空を泳ぐ
次の日。ぼくは学校を休んだ。
「どこ行くんだい?」
「ミサキさん……」
親に体調が悪いと伝え、実際体調は悪く、病院に連れて行ってもらったあと両親を見送って、こっそり家から抜け出そうとしたら、ミサキさんとばったり会った。
というか、家の前で待機されていた。
「うん、時間もぴったりだ。世界は私を中心に回っている、いよいよ確信したね」
「……あなたなら、何だか太陽系の外でも生きていけそうですよ」
「かも知れないな。この街に飽きたら、試してみるさ」
「行かせてくれませんか」
「どこへ?」
「……ヴィヨンドの部屋へ」
「駄目だ」
「というかミサキさん、仕事じゃないんですか」
「きみと同じさ。サボりだよ」
「だめですよ、大人は子供の見本にならないと」
「そうだな。だから私は死にに行く君を止める」
「…………」
やっぱり、この人には敵わない。
やることなすこと全て一歩先を行かれるようだ。まあ、生意気盛りの中坊が、この人に勝てるはずもないんだけど。
ぼくはもう一度だけ、尋ねてみた。
「どうしても、行かせてくれませんか」
「ヴィヨンドは諦めろ」
彼女はきっぱりと言う。
「今朝、『人払い』の結界が消えた。あいつはいよいよ長くない。もって……今夜が峠だろう」
「なら!」
「なおさら君は行かせられない、だろ?」
彼女の意思は固い。ぼく程度じゃ押し通れないくらいに。
「だって君、死ぬつもりだろう。君の寿命を全部彼女に与えるつもりだろう。私は知っているよ、あの老人に君が何を頼んだのか。あの魔術王が君に何を教えたのか」
「……っ」
「『命譲り』の魔術だ。『世界渡り』を二ヶ月で習得した君なら、そろそろこの技も覚えたんじゃないかとね。つまり二ヶ月前、ヴィヨンドがあの状態になったその時から――君はこうなることまで想定していた。想定していて、魔術王からこの技を受け継いだんだ。違うかい?」
「……違いません」
「だろう? だから、通せない」
ミサキさんは笑っている。ぼくにはそれが面白くない。頭ごなしに押さえつけられて、中学生の子供が納得できるわけがない。
いい加減、ぼくも反抗期だ――ぼくは、こんなこともあろうかと用意していた策を実行した。
「! 待て、少年!」
「行かせてください……!」
『空泳ぎ』の術式ポーション。魔術王から譲ってもらった秘策。靴底に仕込んでおいたそれを、ぼくは叩き割った。
途端、上昇――初めて、ぼくはミサキさんの焦った顔を見た。
『――――――――――――――――』
鯨がぼくの足下で鳴いている。今日も機嫌が良いのか、彼は比較的低空を飛んでいた。
雲より高く飛ぶぼくは、街の隅々までを見下ろした。鯨が普段そうするように、ぼくも空を泳いだ。
「ヴィヨンド……!」
呟いた口が渇く。限界速度に体が軋む。それでも進む。
雲を裂く。空を泳ぐ。その不可能に、ぼくは挑んで、勝利してみせた。
だからきっと、他の不可能も覆せるはず。ぼくの期待は、怒鳴り声と共に失墜する。
「頭ァ、冷やせッ!」
ぼくの頭に衝撃が走り、ぼくは鯨の上に落ちた。違う、落とされた。
その犯人は、銀色の獣は、しかし無様に落ちたぼくとは違い華麗に着地した。ぼくはその名を口にする。
「……バン、ピー……っ」
「いいか、俺たちはお前に救われた。だからお前を死なせはしない。たとえお前が死を望んだとしてもだ。命を無駄にすることは許さない」
「無駄になんか、しない……」
「無駄だ。人間ごときの短い命を分け与えたところで、あいつの苦しみが続くだけだ。それをお前は望むのか」
「違う……!」
「では、何を!」
「一緒に、生きるんだ!」
「その方法すら知らぬ小僧が、ほざくなァ!」
バンピーの言葉をぼくは待たない。『炎吐き』のポーション。火の花が一面に咲く。鯨が熱さを嫌がるように身をよじる。
けれど、人狼であるバンピーはそんな角度の変化をものともしない。斜めの床を、時には壁すら駆けてぼくに肉薄する。火の壁も、彼の前では役に立たない。
「看取るくらいなら、させてやる! だから今は、寝ていろ!」
「いやだ……!」
下手な攻撃では、彼には通じない。それがわかっているから、ぼくは彼に攻撃しなかった。
かわりにぼくを攻撃した。
「な……!」
『衝撃』のポーションは、ぼくを鯨の体の外まで弾き飛ばした。消えかけた意識を必死に留め、未だ効果の残る『空泳ぎ』を実行する。
「なぜ、死に急ぐ!」
バンピーは翼を持たない。だからぼくに追いつけない。鯨の上から苦々しく顔を歪める彼に、ぼくはこう答えた。
「知らない! ぼくが、知るか!」
わけのわからない言葉だった。だけど、そう言いたい気分だった。
でもぼくは忘れていた。翼を持たないバンピーがなぜ鯨の上にまで来れたのか。
「!」
ぼくの体をかすめるように、何かが通過した。エメラルドグリーンに輝く翼。半人半鳥の亜人。ハーピィ。ぼくもよく知っている、彼女は。
「白坂さん……!」
「だけじゃない。俺もだ、佐々木」
ミサキさんの弟、竜二。彼を背中に乗せて飛ぶ、竜二の彼女でありハーピィである、白坂茜さん。ぼくの友人たち。
「姉さんから久しぶりに電話が来た。お前を止めろと」
「竜二くんだけじゃ追いつけないだろうからって、わたしも一緒に。二人で、あなたを止めに来たの」
「……っ!」
ぼくは思わず唇を噛んだ。ミサキさんの対策の早さも、彼ら二人の対応の早さも。
きっと準備済みだったんだ。ぼくはそれほどまでに、みんなに心配されていたんだ。
「聞いたぞ、お前がやろうとしていること」
「聞いて、止めようって?」
「当たり前だ。みすみす友を殺す真似ができるか」
「じゃあ、ヴィヨンドはいいのか!? 人じゃないから! この街を襲ったから! 殺されていいってのか!?」
「その理屈が、まさか俺たちに通じるとでも?」
人と、亜人。種族を超えた愛の結果を、ぼくは知っている。目の前の二人のことを、ぼくは。
「……通してくれないか」
「駄目だ」
「じゃあ、無理矢理にでも行く!」
『吹き荒び』のポーションを砕く。魔術ではなく翼で飛んでいる白坂さんは、空気を乱せば飛べなくなるはずだ。
だけど。
「魔術か」
竜二が拳を振り上げる。
「だが、それでは足りない」
それを勢い良く振り抜いたと思えば、ぼくの風は逆にかき消された。たったの一振りで、魔術が完全に死んだ。どころか、ぼくがその風でコントロールを失った。
「竜二、まさかきみ!」
「ああ、俺の呪いだ」
『理返し』。竜二がその身に刻まれた、太古の時代の呪い。あらゆる現象が仇をなす死の呪術。
それが幼い竜二を殺してしまう前に、かつてミサキさんは死力を賭して防いだ。しかしその結果、ミサキさんは呪い返しを受け竜二に接触することができなくなった。もし二人が電話越しにでも接触すれば、呪いがまた発動するどころか、呪い返しを受けたミサキさんにまで牙を剝く。
「だが俺はあれから強くなった。だから、この呪いを逆に利用することさえできる」
例えば、魔術を拳で散らしたり――だが、呪いというものはそこまで都合のいいものではない。現に、竜二の肌はすでに薄く切り裂かれている。世界の性質が逆転し、大気すら彼に害をなしているのだ。
ここが空気の薄い上空でなければ、とっくに彼の体はズタズタに引き裂かれているに違いなかった。
「やめろよ!」僕は叫ぶ。「どの道、きみの『理返し』でもヴィヨンドは救えない!」
『理返し』は、物事の特性を反転させる呪い。心地いいそよ風を刃に、身を焦がす灼熱を吹雪に変える、まさに世界の理に反する能力だ。
だけどヴィヨンドに掛けられた呪いは、吸血鬼の不老不死性を利用したもの。元の性質に由来する呪いのため、それを反転しても出来上がるのは『死ぬ吸血鬼』だ。そんなものに何の意味がある?
「だから、やめろよ! なんできみはこんなこと……っ!」
「お前と同じ理由だよ」
友人だから、大切だから――死ぬなんて、許せるか。竜二は、まっすぐぼくを見据えて言った。
じゃあ、わかってくれるよな? ぼくのやりたいこと。ぼくがやらなきゃいけないこと。
「どけ……」
「どかない」
「どけよ! ぼくは、行くんだ!」
ぼくは突然反転し、まっすぐ竜二と白坂さんに向かって突進した。破れかぶれの吶喊ではない。ぼくは勝たなきゃいけない。
ぼくは、虎の子を取り出した。
「魔術、いや、これは――!」
「そうだ、呪いだ! 人狼の犬笛だ!」
人狼が満月を見て姿を変えるのは、一種の呪いだ。人狼の犬笛は、戦いのためにこの呪いを強制的に引き起こすためのもの。だがこれが一族秘伝である理由は、それではない。
戦いを終えた人狼たちの体を休めるために――人狼の体から強制的に人間の体に引き戻す、いわば解呪の道具!
甲高い音が鳴り、一瞬竜二の体から呪いが失われる。効力を失った犬笛が砕けて消える。解呪の道具とは言え、元は人狼のためのもの。竜二のような強力な呪いを永久に消し去るものではないが、今この瞬間だけなら、ぼくの攻撃は竜二に届く。
「ごめん――」
竜二の驚く顔が眼に映る。
「でも、ぼくは行くよ」
『吹き荒び』。
吹き荒れる風に白坂さんの体は制御を失い、背負った竜二ごと地面に落ちて行く――それを見届けることはしないで、ぼくは先を急いだ。




