九月十七日(金) 1
九月十七日、金曜日。午前十時。やや睡眠不足気味。原因、間違いなく昨日のこと。
「…………顔、洗うか」
だが、さっぱりしてもその考えが頭から抜けることはなかった。顔の脂と一緒に落ちてくれればこんなにやきもきしないでいいのに、と女々しいことを思う。
昨日、春原と別れた後。バイト帰りの夜道にて、俺は自分の恋心を自覚した。自分で言うのも恥ずかしいが、そういうことらしい。
俺は春原愛奈が好きだ。春原に恋してる。好き好き大好きめっちゃ好き。軽く死にたくなった。
「……ま、愛奈」
試しに下の名前で呼んでみたところ、これもまた死にたくなった。恥ずかしすぎる。なんだこれ。こんな感情のままずっといたら、そのうち冗談抜きで心臓が破裂するんじゃないか? ただ呼び名を変えただけでこれだけ顔が熱いのだから、究極のエコとはこれなのかもしれなかった。馬鹿か。
「す、好きだ」
あああああああああああああああああああああああああああああ!! アホか! いやアホだ! 死ね! 誰に言ってんだ! 俺にか!? もうよく分からん! とにかく死んでくれ馬鹿野郎! ああくそ! 俺はこの上なく悶絶した!
おいおいおいおい冗談だろ。この、す、好き、だとかもずっと抱えてたら爆発しそうなほど強烈なのに、その上告白だと? 無理だ。普通に考えて無理だろ。
漫画とかアニメ見てきて、断れたらどうしようとかうじうじしてる主人公に「はよ告れや」と思ってはイライラしていたものだが、いざ自分がその立場に立つと、やっぱりうじうじしてしまう。今分かった。これはそういうものだ。
むしろ世のカップル共が異常だ。なんであんなポンポン告白できるんだ? こういう気持ちを抱えてじめじめ過ごすより、告白して発散させた方が早いというあいつらなりのライフハックなのか?
なんてこった。俺は何個新しいことに気づけばいいんだ。春原と出会っただけで、自分の中に新しい概念がバンバン増えていくようだ。俺が頭スカスカと称したあいつらも、実はめちゃくちゃすごいことをやってのけていたのかもしれない。
今の俺にとっては、この壁が何よりも高く、険しいものに思えた。恋愛。告白。彼女。全部自分には無縁のものだと思っていた。
「(でも、そうか……)」
俺は春原のことが好きなのか。
それに対して身悶えするくらいの感覚に全身を突き刺されるのと同時、しっくりくるのも事実だった。
好きな子のためなら、そりゃ街中駆け回ったっておかしくはないよな。好きな子の裸を見たら、あんなにドキドキもするだろうし。好きな子と一緒に遊べば楽しい。好きな子とお別れするのは寂しい。
そして好きな子の彼氏になりたいなんて思うのは、そんなもん当然のことだったんだ。
「…………」
ヒントはそこら中にあった。俺が見逃していただけ。あるいは、目を逸らしていただけ。人に恋するなんて重労働を、ずっと避けてきただけ。
人を好きになる努力。好きになってもらう努力。めんどくさいのは当たり前だ。しかもどれだけ努力したって報われないこともある。上手く行かない方が常だ。
でもどいつもこいつも、そんなことやってきたんだな。めんどくさがらず、それに向き合ってきたんだな。
そうなると人間ってのは、中々すごい連中なのかもしれない。
宇宙人はそんなやつらに憧れて、俺みたいのを派遣したんだろうか?
俺は鏡に映る自分の顔を眺めた。頬を上気させて、苦しげに眉根を寄せて、それでもどこか嬉しそうにニヤけた男の顔。
多分に気味が悪かったが、これが恋する人間の顔なんだろうというのは、容易く想像がついたのだった。
「(だけど、忘れちゃいけない)」
この時間は無限じゃない。終わりは近いんだ。今日は金曜日。今日と明日が終われば、そこが俺の終着点。九月十九日が、俺と春原の関係が終わる時。
最初から俺がまともに終われるとは思ってなかった。他人よりかは何倍も数奇な運命を背負ってる自覚はある。宇宙人の手駒なんて肩書き、普通に生きてちゃつかないもんだ。
だからどこかで、変な終わり方を迎えると思っていた。キャトルシュミレーションなんて、真っ先に想像した終わりの一つだ。予告してくれるだけマシとも言える。
それでもやっぱり、惜しい。
帰りたくない。
まだ春原と一緒にいたい。
あいつは俺に色んなことを気づかせてくれた。愛だの恋だの、俺が俺のまま生きてりゃ永遠に縁遠いものだったろう。教室で騒ぐあいつらをすごいと思える機会なんて、きっと一生訪れなかった。
世界がちょっとはマシに見えたんだ。二十年近く生きてきて、ようやく人並みの幸せってのに手が届くと思った。幸せ。
愛し愛され、認め合うこと。補い合うこと。互いを知ること。そういう関係を作ること。
これまで陳腐だと見下してたものを欲するようになったのは、アイデンティティーの崩壊かそれとも、俺が大人になったってことなのか。
全く、自分でも驚くほどの変貌ぶりだ。いや、元々その素質はあったのか。
母親が忙しくて夕飯を一人で食べなきゃならなかった時。周りが友人とつるむ中、一人ぼっちで帰る通学路。誰も助けてくれやしない教室。寂しいと思うことすら苦痛になって、やがて感情を閉じ込めた。使わないまま錆びつかせた。
なんだ、俺は俺を全然分かっちゃいなかったんじゃないか。そりゃこうも鈍感になる。恋心に気づけないのも無理はない。
でも一度認めてしまえば、案外楽だ。昨日あれだけ悩んだ自分が馬鹿らしく思える。
俺は春原が好きだ。
どうやら、そうらしい。
「……よし」
俺は鏡の俺と向かい合った。冴えなくて、自信なさげで、童顔で、男らしくない顔だ。十八年連れ添ってきた自分だ。
こんな俺でも春原に愛してもらえるように、精一杯努力しよう。
「行くか!」
約束したもんな。
また明日って。




