九月十六日(木) 4
あっという間に日が暮れた。午後四時半前。夕焼けが降り注ぎ、ボロボロの神社を茜色に染める時間帯。やべ、バイト間に合うかな。遅れたらあのネチネチ店長に何言われるかわかったもんじゃねえ。俺はずいぶん軽くなったリュックを背負って、外に出た。
「今日はいっぱいありがとね、光くん!」
春原は黒猫を抱きかかえつつ、満面の笑顔で俺を見送ってくれている。一方黒猫は不満そうな顔だ。あの猫、春原に抱かれてることじゃなくて、たぶん俺を見送るのが嫌なんだ。何で俺はこんなに嫌われてんだ。別にいいけど。
春原は人形遣いみたいに黒猫の前足を「バイバイ」と緩く振る。ぶすっとした顔でされるがままになっている黒猫にも、俺は手を振り返した。
「どういたしまして。じゃあ、またな」
「あ……」
「? どうした?」
立ち去る直前、春原の何か言いたそうな吐息が聞こえた。振り返ってみると、春原は何やらもじもじしていた。
「俺、何か忘れ物した?」
「あ、えっとね、そうじゃなくて……」
「?」
春原は言葉を選んでいるようだった。そんなに言いにくいこと……まさかズボンのチャックが開いてたとか?
「今日もし光くんが来たら聞こうと思ってたんだけど、」
それとなくチェックしたが、どうも社会の窓の話ではないらしい。ちなみにしっかり開いていた。なんだよくそ。
「昨日、なんで来なかったのかなーって。べ、別に寂しかったとか、そういうわけじゃないけど……」
「ああ、それか……」
それは単に馬鹿やって案の定風邪引いたという恥ずかしいエピソードがあるわけだが。
そういや、春原は携帯も持ってないしここから動けないしで、俺に何かあったとして知る手段がないのか。俺だってできることなら春原とラインとかやってみたいが、そもそもここ圏外だしな。うーむ、伝書鳩でもいればいいのか? 黒猫が食っちまいそうだな。
「そりゃ悪い。暇だったろ」
「……う、うん」春原は少し歯切れが悪い。「……光くんいないとつまんなかった」
そう言って春原は黒猫の後頭部に顎を乗せた。「にゃぶ」黒猫は目を細めて変な声で鳴いた。
「あー、なんだ……」
すねたような春原に、俺は正直に告白することにした。
「悪い。実は俺、昨日風邪引いちゃってさ」
俺の回答を聞いたとたん、春原はぽかんとした顔になった。理解に時間がかかっているような顔だ。
それが一秒後、
「はぁーーーーーーっ!?」
と爆発した。あれ、もしかしなくても俺、今春原に怒鳴られた?
「なんで!? 引かないって言ったじゃん! シャワー浴びれば大丈夫だって!」
「にぐ」
力んで黒猫が潰れそうになっている。それに気づかないほど、春原は感情を爆発させていた。俺は今まで見たことない春原に少しうろたえて、
「あ、いや、ごめん。大丈夫じゃなかった」
「だから言ったのに! 雨上がるまで待てばって言ったのに!」
「ご、ごめんって……ん? そんなことお前言ったっけ?」
「……言ってないけど!」
「ねえのかよ」
「でも光くんが悪いんだからね!」
「ぐっ!」
それについては異論はない。ございません。全面的に俺が馬鹿だった。
言い返す言葉がなくなると、春原も落ち着いたようで黒猫を抱く力を緩めた。黒猫がほっとしたような顔をする。
「……心配したんだからね……」
春原はぼそりと呟く。ぎゅう、と恥ずかしさを殺すためか再び腕に力がこもって、「にゃぎぎぎぎ」と黒猫がいよいよ苦しそうにしていた。
春原の頬の朱色はきっと夕焼けだけが原因じゃない。心配して本気で叱ってくれる人が、母親以外にいるとは思わなかった。だから俺も本気で謝った。
「……ごめん。次はもうちょっと気をつけるよ」
「そうして」
春原はぷいっとそっぽを向いた。いじけてるつもりなんだろうか?
しかし、自分で言っておいてなんだが、果たしてこの約束を守れるかどうかは分からない。
次、ってのがいつなのか、俺は知らないから。
「あっ」
「あっ」
ついに我慢できなくなったのか、黒猫が春原の腕から脱出し、「にゃご」と社の中へと戻っていった。それが合図となったように緊張の糸がほどけ、俺は改めて春原に別れを告げる。
「じゃ、また明日」
「……明日はこれるの?」
「行くよ。きっと行く」
明日もどうせ学校サボる気満々だしな。俺が寝坊してなきゃ、朝から遊ぼうぜ。
俺は春原の姿が見えなくなることに名残惜しさを感じながら、神社を後にした。




