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鯨の空  作者: 藤原(の)コウト
七日間天体観測
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九月十六日(木) 1

 九月十六日、木曜日。午前九時。風邪はすっかり治り、体調も万全。だが母さんにはまだちょっとキツいと言って、学校をサボることにした。と言っても、夜勤明けの母さんが目覚めるのは午後だから、そういう書き置きを残しただけだけど。


「行ってきまーす……」


 まだ寝ている母さんを起こさないように静かに玄関を閉めて、俺はある場所に向かった。

 もちろん、目的地はあの神社だ。春原がいるはずの場所。


 道すがらコンビニでいくつかお菓子を見繕(みつくろ)って、持参したリュックに詰めた。きっと春原(はるはら)はこういうものは口にしたことがないだろうから、今から驚く顔が楽しみだ。


 こんなワクワクした気持ちで外に出るなんて、これまでの俺じゃありえないことだ。最近は学校とバイト以外で外に出ることがなかったから、遊びに出かけるという行為自体に興奮を覚えている。ああ、神社までの道のりが長く思えてしょうがない。


 相変わらず猫がのんびりしてる路地裏を過ぎ、ほぼ獣道の山道に入り、鬱蒼(うっそう)とした自然に囲まれた長い石段を登って、神社についた。周りの木のせいで朝なのに夕方みたいに暗い。俺は短い参道を通って、相変わらず開くのにも閉じるのにも難儀(なんぎ)する扉を開く。

 しかしそこには誰もいなかった。


「あれ」


 おかしいな。春原がここからどっかに出かけるなんて考えにくいんだけど。一応靴を脱いで、畳張りの本殿(ほんでん)にお邪魔する。一昨日俺の開けた穴はそのまま放置されていた。


「あ、猫」

「にゃう」


 声を掛けると不満そうに黒猫は鳴いた。俺で悪かったな。そういやこいつ、春原に名前とかつけられてないのかな。いつまでも黒猫じゃ言いづらい。


「お前、わざわざここまで春原の世話焼きに来てんのか? ははっ、ご苦労さま」

「にに……」


 黒猫は丸まったまましっぽをぺしぺし床に叩きつけている。黙れってことだろうか。つくづく可愛げのないやつだ。


「悪い悪い。なあ、春原どこいるか知ってる?」

「うに」

雲丹(うに)?」


 黒猫はいかにも「しょうがねえな」みたいな目つきで外を見た。ただし今俺が来た方ではなく、その逆だ。神社の裏か。


「ありがとな」

「…………」


 さっさと行け。そんなところだろうか。

 しかし、神社裏か。俺はまた床を踏み抜かないようにおそるおそる対岸まで歩き、埃の積もった障子を開く。こっちも表の景色と変わらず、いやむしろ表より雑草の侵食がひどく、俺が立っている縁側にまでつるが伸びていた。周りの木々に遮られて日の光なんてほとんど当たらないだろうに、雑草魂恐るべし。

だが、まだ春原の姿は見えない。なので俺は呼んでみた。


「春原ぁー?」

「へっ!?」


 変な声が聞こえた。何だ? 俺はそっちの方へ向かう。床がぎしぎし(きし)む。


「春原? いるのか? どこだ?」

「まっ、待って! 今はだめ! ちょっと待って!」


 やけに慌てている声色だ。まさか何かあったのか? 駆け出しかけたその瞬間、ばしゃばしゃと水音が聞こえた。

 ……水音だと? 俺は嫌な予感がして足を止めた。


「いっ、今水浴びしてるから! こないでーっ!」


 な。


「な」


 っっっっっっっっっっるほどな、ああ危ねえ。俺は急いで回れ右した。人生で一番速いターンをかました。よかった。春原の尊厳と俺への信頼に傷をつけずに済んだ。もちろん何も見てない。俺は何も見てないとも。

 ……背中っぽい肌色の影が見えたけど、まあ気のせいだろう。俺は努めて忘れることにした。肌が透き通っていて綺麗だった。ぐぐぐ。意外にもちょっとくびれてた。うぐぐぐ。


 だが、アレだな。ネットで漁ればそれ以上に過激な画像なんて腐るほど見つかるのに、なんでチラッと見えた背中だけでこんな心臓がバクバクするんだろう。いくら科学技術が発展しても覆せないリアルってすげー。


「あ、あのね、昨日神社の周り歩き回ってたら、ここに池があるの見つけてね、お風呂全然入ってなかったから、たぶん臭いと思って、それで……!」

「分かった! 分かったから! それ以上は言わなくていい!」

「だから私、今汚くないよ! 大丈夫だよ! 嫌いにならないで!」

「ならないから! 大丈夫だから!」


 くそっ! 少し向こうで春原が裸になってると思うと、いくら抑えていても不埒(ふらち)な想像がやまない! こんなんでは俺の方が嫌われると、俺は強引に会話を打ち切った。


「すまん! 悪かった! じゃあ俺あっちで待ってるから! あとでな!」

「うん! 待ってて! すぐ行くからー!」

「おう!」


 気まずさを押し殺すように大声で返事して、俺はすごすごと元の部屋に戻った。黒猫が心なしかニヤニヤしているような気がした。


「……図ったな」

「にゃー?」


 小賢しい畜生め! そんな視線で(にら)みつけるも、当の黒猫は全く意に介さずあくびをしていた。

 それから数分、俺は悶々(もんもん)とする意識と激闘を繰り広げつつ春原を待った。いっそのこと、穴にもう一度埋まればよかったのかもしれない。


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