九月十五日(水) 2
午後二時。俺はふっと目を覚ました。睡眠時間約四時間。気分は、まあ多少はいい。
やはり睡眠は偉大だな。起き抜けの喉に水を流し込んだ。喉の痛みも緩和されているようだ。この分だと、あまり長引くタイプの風邪じゃないらしい。それに対しては素直に喜んでおく。
だが今すぐ外に出ていける、という体調でもない。ゲームやるのも何か違うし、読書する気分でもない。さっき寝たばかりだから目も中途半端に冴えているし、俺は時間を持て余していた。
「…………」
ふと、机の上のノートが目に入った。そうだ、手紙でも書くかな。
先週の日曜日、夢の中で宇宙人はこう言った。
①地球への滞在期間は残り一週間である。
②期限になるとUFOで迎えに来る。
③その時に俺が地球にいた痕跡は全て消される。
方法は知らないが、俺の痕跡は全部消えてなくなるらしい。痕跡というのはつまり、俺に関するみんなの記憶、物品、足跡だ。母さんも俺を育てていたこと自体を忘れるし、たぶん春原もそうだ。
そうだとは知っている。だけど、何かを残したいという気持ちもあった。そのための手紙だ。
たとえ俺が去ったあと手紙が消えずに残ったとしても、母さんは何のことか分からないだろう。覚えておいて欲しいわけじゃない。でも、感謝を伝える機会を逸したまま消えたくはない。
それでも口で伝えるのは照れくさいから、手紙だ。手紙なら後で読み返せるし。いやそもそも残るかどうかも分からんけど。
もしかしたらこれも無駄なことかもしれない。だからと言って、伝える努力を放棄する、なんてことはしたくない。俺はそこまで落ちぶれたくない。
ありがとうが言える人間になりなさい。そんなのは小学生でも習う基本的なことだ。
「うーむ……」
ということで筆を執ってみたのだが、まったくと言っていいほど文章が思いつかない。
ネットで色々「手紙の書き方」など調べてみたものの、どれもピンと来ない。拝啓に始まって敬具に終わるとか、そういうのじゃない気がする。
「ん」
さんざん悩んで、俺はある言葉を検索エンジンに打ち込んだ。感謝の伝え方。
「お」
そこには、「これまでしてもらってきたことをリストアップしてみて、それに対する感謝の言葉を書き出そう!」と書いてあった。なるほど、エピソードを絡めるのか。俺はさっそくノートに、思い出せるだけ色々書き出してみた。
幼稚園の頃。小学生の頃。中学生の頃。高校生の頃。最古の記憶から最新の記憶まで。なるだけ多く、詳細に思い起こした。
こうやって思い返せば、俺はずっと一人だったな。
父親の顔を知らないことは、世間一般では異常らしい。だから俺は異常者みたいに扱われていた。学年が上がると周りが父親がうざいとかそんな話をするようになったが、俺にはちっとも分からなかった。そう言うと決まってこう言われた。
『藍川は父さんいないからいいよな』
『怒られないし、好きなだけ遊べるから』
俺は毎回疑問だった。そうか? 本当にそうなのか?
お前らの母さんは授業参観に毎回来てるけど、俺の母さんは仕事で来れない。お前らがレクリエーションで母親と一緒に遊んでる時、俺は先生と組まされながら、ずっとはしゃいでるお前らを見てた。それが本当に羨ましいのか? と。
家に帰っても大概一人で、寝るのだって一人。お前らの母さんがお前らと一緒に夕飯を食えるのは、父さんが働いているからじゃないのか? お前らが疎む父親のおかげなんじゃねえのか? と。
俺にとっては、父親なんていない方が〝普通〟だ。だから俺の思い出は、全て母さんに由来する。寂しさも嬉しさも、母さんからもらったものだ。たまに一緒に食べる夕飯のおいしさを蔑ろにすることは、俺にはできない。
「…………」
昔を思い出して、懐かしむ気はない。そっから段々擦れて元々少ない友達も全員いなくなったしな。俺にとっての「過去」とは灰色で、大抵暗い思い出しかない。
それでもここまで大事なく育ったのは、間違いなく母さんのおかげだろう。そういうとこにいち早く気づけるのは、まあ片親の特権だな。
しかし、「ありがとう」、か。これほど簡単で、難しい言葉もないな。
「……よし、」
俺は最初の一文を書いた。
いわく、「これまでありがとう」。
あえて難しい言葉を文頭に配置することで、全体のハードルを下げる作戦だ。どうせ俺がいる前で読まれることなんかありゃしねえんだ。好き勝手に感謝の念なんて伝えりゃいい。そう開き直れば、手紙を書くのなんて簡単だった。書き終えた手紙はクリアファイルに入れて、机の引き出しに保管した。
俺はこうして別れに備えて、準備を始めた。




