九月十四日(火) 4
午後九時四十八分。段々道を進むにつれ、街灯の間隔が広がってきた。人工の光の気配は薄れ、代わりに月明かりや星明りが照らしている。そりゃそうだ。俺が向かってるのは、今や誰も近寄らない不気味な路地裏なんだから。
春原は言っていた。猫がいっぱいいる路地裏で寝泊まりしていた、と。その場所には心当たりがある。
小さい頃に一度、迷子になったことがある。一人で公園まで遊びに行って、帰り道が分からなくなった。心細くて、泣きべそかいていたのを誰にも見られたくなくて、小さい歩幅で人のいない道を選んで歩いていた。
そしたら俺はいつの間にか、引き寄せられるようにそこにいた。雑草の生い茂る斜面の突き当たりで、猫たちが俺を出迎えるように見つめていた。にゃあ。
だから知ってる。春原もきっとそこに向かう。半ば確信的に、俺は足を動かしていた。
「春原!」
「光くん……?」春原は信じられない、という顔でいた。「どうしてここが……」
春原は壁にもたれて、一匹の黒猫を撫でていた。月明かりも入らないここに、小さな目玉がいくつも浮いていた。彼らはまるで俺が来るのが分かっていたように、鳴き声一つせず落ち着き払っていた。
「悪かった」
俺は春原の言葉を遮り、まずは謝った。
「母さんがあんなにひどいことを言って、ごめん。傷つけてごめん。その上で聞きたいことがある」
「?」
春原は少し首を傾げる。俺は一つ息を吸って、
「……お前、母さんに何をした?」
「…………っ」
春原が俯く。ごめんな。この質問もお前にとっては辛いものかもしれないけど。だけど俺は聞かなきゃならないんだ。
そもそも不良を撃退した時でさえ、不可解だったんだ。あの変わりようは普通じゃない。その後に聞いた春原の人間関係も不審だ。誰からも疎まれ、好かれない。その方程式に当てはめれば、不良の恐怖も母さんの嫌悪も等しく『拒絶』だ。じゃあなぜ俺だけが例外だ?
その答えを、俺はたぶん持っている。だからこれはただの答え合わせだ。
「……ごめんなさい」
春原は謝罪から始めた。伏せたままだったから、その表情は読み取れなかった。
「調子乗ってたんだと、思います」
春原はぽつりぽつりと語り出す。
これまで会う人全てに怖がられて、嫌がられてきたのに、光くんだけは普通に接してくれたから。やっと友達できたから。これでみんなとも普通におしゃべりできると思ったの。私でもみんなのようにできるって思ったの。でも違った。私は私のままだった。自分の異常さを分かってなくて、光くんのお母さんも、光くんも傷つけちゃった。
ごめんなさい。
……たぶんこいつは、自分でも自分をよく分かってないんだ。自分への理解は、他人との会話の中で培われていくものだ。だから人の百文字以上の会話をしたことがない春原には、自己理解が圧倒的に足りてない。自分が及ぼす〝被害〟を正しく理解していない。そう言いたいのだろう。
違う、とは言えない。正しいんだ、春原は。それは正しい勘違いだ。生まれて初めてのことだったから、調子に乗ったってしょうがない。前例がないことに正しい対処なんてできるはずもない。
特に、春原のような特殊な事例に対しては。
特殊には事情がある。ただその言葉で片付けられない何かがある。
撫でることをやめた春原の手を、黒猫がちろちろ舐めている。わざわざ人のいない場所を選んで暮らしている猫たちが、春原だけは受け入れている。俺はそれを見て、春原に尋ねた。
「春原、猫は好きか?」
「え……うん」
「逆に、嫌いな動物はいるか?」
「いないけど……どうして?」
「本当にそうか? 小さい頃噛まれたとかフン引っ掛けられたとか、そういう経験はないのか?」
「ないよ? なんで? なんで急にそんなこと聞くの?」
「何でだ?」
「え?」
「何でお前は動物が好きなんだ? 俺は正直そんなに好きじゃない。人間よりかは好感が持てるけど、それでも何考えてるのか分からなくて怖い。お前はそうは思わないのか?」
「お、思わないよ。だって、みんな優しくしてくれるし、かわいいし」
春原が言うと、黒猫が嬉しそうににゃあと鳴いた。やっぱりか。やっぱりそうか。俺はそこで確信した。春原の正体を見破った。
人に嫌われる。動物に……いや、人以外と言うべきか、に好かれる。人か、それ以外。境目はそこだ。
だから春原が普通に戻ったんじゃない。俺が異常だったんだ。俺こそ春原を正しく見れてない可能性だってある。猫が人間の顔なんていちいち判別してないみたいに。宇宙人が人間二人解剖したって違いを見分けられないみたいに。俺が一番春原の体質に影響を受けている。
よく考えてもみろ。なんで初めて孤独を共有できたとは言え、数分前に会ったばかりの他人を探そうだなんて思える? こんな夜中に、古い思い出引っ張り出してまで走れる? 俺はそんなお人好しじゃない。だからそれこそ異常だったんだ。
俺は宇宙人だ。人間じゃない。
宇宙船地球号に紛れ込んだ――裏切り者のスパイ野郎だ。
それが俺が春原を嫌わない、唯一の理由だった。
「…………っ」
俺は、カツアゲされた時より、笑顔をからかわれた時より、母さんが心ない言葉を春原に投げかけた時より、胸が痛んだ。俺のこの好意が、親切心が、システム的に湧き上がったものだと思うと途端に虚しくなった。「そういうものだから」で済んでしまうことに、何よりの苦痛を感じた。もしかしたら、その痛みすらも春原によって引き起こされたものかもしれないが。
俺は失望していた。初めて友達を見つけたと思った。胸の中のわだかまりや不満をぶつけられて、共有できる相手ができたんだと思った。何より、少しだけ自信が持てた。こんな俺でも友達ができるんだぜ、と、世界に向けて自慢できると思っていたのに。それが都合よく用意されたマネキンと同じように思えて、気持ち悪くなった。
調子に乗ってたのは春原だけじゃない。俺もなんだ。俺も初めての経験に浮き足立ち、そしてたぶん間違えた。
地獄の底に降りてきた蜘蛛の糸さえ、偽物だった。だったら後は真っ逆さまに落ちるだけだ。
「じゃ、じゃあ、」
そんな失意の俺に、春原はたどたどしく言った。
「――何で光くんは私に優しくしてくれるの?」
それは、核心を突くような質問だった。今まさに悩んでいることを、春原は的確に突いてきた。
……言ってしまうか? 俺の事情を。俺は人じゃないからお前を助けたんだ、なんて。今の春原に言えるか? 傷ついて繊細になったとこに、とどめを刺すような言葉を突きつけられるか? 俺はこの期に及んで葛藤していた。まだ春原のことを守ろうとしていた。
俺は自分の心に決着がつけられないまま言いよどむ。なのに、春原はやすやすと言葉を続ける。
「ほら、いっぱい質問するから。そのお返し。どうして光くんは他の人たちと違って、私を追いかけてきてくれたの?」
「それは……」
春原の視線が俺を貫く。今度は俺が俯く番だった。早く答えなければ春原に疑念を抱かせてしまう。後ろめたい打算で動いていると誤解されてしまう。それを嫌だと感じるのも春原のせいなのか、俺にはもう分からない。
動けない。
「私も不思議だった。どうして光くんだけ違うんだろうって。光くんのお母さんはみんなと一緒だったのに、何で光くんは私に謝ったんだろう。何か理由があるなら、教えて」
知りたいの、と春原は言った。試すような瞳だった。
俺はこいつに、どんな答えが出せる?
「…………」
「…………」
二人揃って口をつぐんで、猫たちの鳴き声だけが聞こえる。早くしろよ。そう急かすようだ。
俺は目を閉じて大袈裟に深呼吸した。
「……笑わないか?」
「? うん」
「俺、実は宇宙人なんだ」
そう言った途端、春原の顔が胡散臭げに歪んだ。猫すらも黙った。世界に真の静寂が訪れた。
おい、なんだこの信頼が全部地に落ちた感は。
「……なんで嘘言うの」
「うっ、嘘じゃない! 俺は宇宙人なんだ!」
まずい。完全に信用されてない。まあ俺も、こんな事情抱えてなきゃ同じ顔するし今後一切そいつとは関わらないだろうけど。けど事実なんだ、信じてくれ。電波野郎はみんな同じことを言う。
俺は秘密を隠す方法は知っているが、バラす方法は知らない。うまいこと納得させるロジックに心当たりがない。春原の視線が今日イチ冷えている。
「言えないんだ」
「うっ」
「理由言えないから、嘘で騙そうとしてるんだ……」
そう言って、春原は落ち込んだように膝に顔を埋めた。待ってくれ!
最悪の誤解だ。頭では色んな単語が浮かんで消えていく。春原は俺のこのテンパり具合を、図星を突かれたからとでも思っているんだろうか。違うんだ。釈明させてくれ。その言葉が全然思い浮かばないんだけど。
「そ、そうだ! いや違うけど! とにかく聞いてくれ、俺がこんなこと言うのには理由があるんだ!」
「……ほんとのこと言えないから?」
「違う! まず俺の中には、お前の体質についての解釈があってだな……!」
春原は体質、という言葉に反応して、俺の方を見た。不満そうな顔だがとりあえず耳を傾けてくれたようだ。
「……って俺は思ってるんだけど、どうだ?」
俺の中にある見解を話すと、春原はなにか得心のいった顔をした。
「……私が小学生の頃、校庭に犬が入ってきたことがあったの。迷子になったのか、落ち着かないみたいでずっと吠えたり、追い出そうとする先生に噛み付いたりしてた。体育の授業だったから私もグラウンドにいて、みんなどうしようどうしようって困ってたの」
春原は思い出しながら語る。
「そこで同じクラスの子が何か思いついちゃったみたいで、私をその犬の前に突き飛ばしたの。誰も近づけなくて、というか、誰も助けようとしなかったから、私はその犬と目が合っちゃったの。すぐ近くで。でも怖くなかった。息がすごく荒くて、背中が震えてて、ああ、この子は怖がってるだけなんだ、って思ったの」
よくそんな冷静でいられる。俺ならみっともなく騒いで噛まれるな。
「だから、大丈夫だよ。怖がらなくていいよ、って言ってみたの。当たり前だけど、動物は人間の言葉なんてわからないから、無駄なことだったのかもしれないけど」
でも、と春原は続ける。
「そしたら落ち着いてくれたみたいで、校門まで案内してあげたら、たたたーって逃げてったの。その後で飼い主さんが謝りにきたんだけど、なぜかその時には私が悪いみたいになってて……」
待て。そっから先は話すな。というか思い出すな。辛いだけだろ。
「そっか。そういうことなんだ。私、動物に好かれるんだ」
そして人間に嫌われる。極端だな、お前は。本人がそう望んだわけではないだろうけど。
春原がふむふむと頷いているのを見て、俺はほっと一息ついた。どうやら納得してくれたらしい。
しかし、と俺は嘆息する。誤解を解くというのにはこんなにエネルギーを使うのか。普段俺の百倍くらいくっちゃべってる連中は、こういうコミュニケーションの問題も平気な顔で解決するんだろうか? だとしたら俺は、あいつらに対する認識を改めなければいけないな。
「で、それでなんで光くんは嘘ついたの?」
……全然解けてなかった。
「え、いや、宇宙人って人間じゃないだろ? で、動物も人間じゃない。つまり、俺とその犬は同じってこと」
犬と同程度。自分で言っててなんか悲しくなるな。
「……でも、宇宙人だって人でしょ?」
「へ?」
「だって、じん、って。じんって人って意味でしょ? だから人じゃん」
「いやでも、厳密には違うっていうか……」
「光くんは人じゃないの?」
「人そのものというより、人に似せて作られた生体ロボットみたいな感じかな」
「よくわかんない……」
「あ、えっと、外側は人間だけど、中身はロボット的な?」
「光くんってロボットなの?」
「いや、違うけど……」
「じゃあ人じゃないの?」
「それも違くて……」
ああ、なんて説明すりゃいいんだ! 俺の肌は銀色じゃないし変な触角もないし血も緑色じゃない! 外見は完全に人間と同じで、だからこそ説明に困る! ひと目見てすぐこいつ「宇宙人だ」なんて分からせる便利な証拠なんて、俺は一つも持ってない!
ん? 証拠?
俺ははっとした。あるじゃないか、証拠。
「そうだ春原、UFOだ! この街にUFOが来るぞ!」
「ゆーふぉー……?」
「そう、UFOだ! 円盤型で丸いコクピットがあって、宇宙人が地球に来る時に使う乗り物だよ!」
「えー! それ教科書で見たよ! すごい! 光くんそれに乗るの!?」
春原の目が再び輝いたのを見て、俺は内心安堵する。気持ちが楽になると、今度は別の感情が湧いてき始めた。すなわち、俺は自慢げにこう言ったのだ。
「ああ! 俺は一週間後に母星に帰るからな!」
一週間後にUFOが見られるぞ、春原! そう叫んだあと、春原はなぜか黙ってしまった。
何でだ? いや待て。そもそも俺、今なんて言った?
「……光くん、帰っちゃうの?」
「……そうだ俺、帰るんじゃん……」
ついこぼして口を押さえた。春原が不安げにこっちを見ている。忘れてた。今日一日で色々りすぎて忘れかけてたが、俺の滞在期限はもう一週間を切っているんだった。
待てよ、そうなると、つまり俺は、考えたくないが、もしかしてそうなのか?
「(俺、は……)」
一週間後、春原に会えなくなる?
おい。
聞いてねえぞ、宇宙人。
そんな当たり前のことに今さら気づいて、俺は顔を青くした。
「光くん、大丈夫?」
「えっ、」
いつの間にか春原が接近していた。それほど俺は憔悴していたのだろう。しかしなんだこれ。普通こんなにこう、クるものなのか? 俺が感じやすいだけか?
くそ、なんだって俺はこんなに春原に肩入れしてるんだ。自分でも驚くくらいだ。春原の〝体質〟のせいか? だとしたら……だとしても、こう感じるのは事実だ! ごまかしようがない!
「あ……」
ふと春原の方を見ると、本気で心配しているような顔だった。それにとんでもない罪悪感を感じる。ええい、もはやこの感情の出どころとか原因とか、小難しいことはもうどうでもいい。とにかく春原を安心させたい。そんな欲求で心が満たされる。
「嘘だ」
「え?」
「なんつってな! 全部嘘だよ! 騙されたな!」
はっはっは! 嘘くさくても笑え! 俺はこう言う以外なかったんだ!
顔は笑ってるのに心は泣きそうになりながら、俺は必死で意地悪なやつを演じた。
「全く、人がいいのも考えものだな。あんまり隙だらけだとこうやって足元すくわれるぞ?」
おお、本当に悪役みたいだ。こんなこと人生で言う機会がくるなんて。冷や汗まみれだけど。
「今回は俺だからよかったものを、これがもし詐欺師とかだったら、春原、お前はもう一文無しだったぜ。これから気をつけろよ? お前は騙されやすそうな見た目してるからな」
おい、なんか説教始めちゃったけど大丈夫かこれ?
「優しい俺からアドバイスだ。その一、ドアに足突っ込んでくるやつには注意すること。そういうやつは全員悪人だからな。決して入れるんじゃないぞ」
何言ってんだ俺は。悪人っていうか、春の新生活セミナーやってる講師だろこれ!
これ以上喋ってるとボロが出る。すでに出まくってる。だがここまで何の反応もない春原が怖くなり、横目でちらっと見てみた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
俺を睨みつけながら赤い顔をしていた。めちゃくちゃ怒ってる。せ、成功したか?
とか呑気に思っていたら、殴りかかってきた。
「なんでそういうこと言うのっ!」
「いたっ!」
「心配したのに! すごく悲しかったのに!」
ぽかぽかぽかっ! という感じのフォームなのに、なぜか威力はある拳が俺を襲う。フィジカルで女子(しかも年下)に負けてる。悲しい。
「痛え! 馬鹿、そこ殴られたとこ……!」
「あっ、ご、ごめんなさい……」
今日やられたとこにパンチが入って、俺は悶絶した。いや、非力な方とは自覚してたけど、まさかこの前まで中学生だった女子にまで劣るとは思ってなかった。俺はダブルでダメージを負った。
「で、でも嘘はいけないと思う! だって、なんか嫌だし!」
「ああ、俺もそう思うよ……」
倒れたまま同意する。殴られるしな。猫がなにやってんだみたいな顔で見てる。俺もそう思うよ。何やってんだろ。
だけど俺の茶番も多少は役に立ったらしく、春原はすっかり自分の質問を忘れているようだった。正直に言えなかったのは心苦しいけど、しょうがないとも言える。
問題を後回しにした感はある。でもそれは、今の俺に解決できる問題じゃなかったってことだろう。言い訳がましく聞こえるのが切ないが。
「(それにしても、一週間か……)」
改めて考えると、短い。短すぎる。宇宙人め、こういう大事なことは前々から通知するべきだろ。ほう・れん・そうは社会では大事だぞ。知らんけど。
そのおかげで、これまで地球に何の未練もなかったのに、できてしまった。もうちょっと話していたいと思う相手を見つけた。全く、俺は間が悪いな。大事なものを見つけるのが遅すぎる。
「あ」
「あ」
そんなことを考えていたら、ぽつりと脳天に雫が滴った。咄嗟に思い出すのは今朝の水たまり。本格的に降り出すにはまだちょっとありそうだが、この屋根もないところではびしょ濡れになるのは避けられない。
そもそも春原が俺に助けを求めたのは、雨をしのげる場所が欲しかったからだ。本目的を思い出して、俺たちは互いに顔を見合わせた。
「俺の家……は、母さんいるし、ここからじゃ遠いし、行く前に濡れちまう……」
「私の家には帰りたくないし……でもここじゃ濡れちゃう……」
どうしよう? 春原の眉が八の字を描いた。打つ手がない。二滴目が額に着地した。
にゃお。その時鳴き声が足元から聞こえた。なーご。
「え、なに? ついてこいって?」
「にゃ」
さっきまで春原に撫でられて気持ちよさそうにしていた黒猫が、俺たちを先導するように尻尾を振って歩き出した。春原は何の疑問もなくそいつについて歩き出したが、いやいや。三大欲求しか頭にない畜生だぞ。道案内なんて高尚な真似できると思うか?
そんな感じで否定的だった俺だが、他に行くあてもないのでついていくことにした。これで落ちてる雀の死骸とか食い始めたら蹴飛ばすぞ。
俺の疑心とは裏腹に、黒猫は迷いなく先を行く。いつしかコンクリートの道路が山道に変わった。街の光から遠く離れて、薄気味悪い雰囲気だ。
黒猫はうまい具合に木を傘にして、石畳の階段を登っていく。俺も春原も、こんな道があるとは知らなかった。野良猫たちだけの秘密の道だろうか?
「にゃむ」
何分か歩き通して、ついたぞ、とでも言うように黒猫が喉を鳴らす。石段を登り終えた先は、木々に覆われた広場のようになっていた。
その広場の奥に、月明かりに照らされた神社があった。
「わあ……」
「おお……」
自然に覆われた森の中なのに、木や植物がまるでそこだけを避けるかのようにぽっかりと空白を作っている。その中央に神社はあって、その光景はどこか神秘的にも見えた。
鳥居も片足しかないし賽銭箱はつたに覆われ放題になっているが、ぱっと見俺の一人部屋より大きい。放置される前は大事にされていたらしく、中で人が生活するには十分の大きさだった。
しかしさすがの社とはいえ時の流れには勝てなかったようで、あちこち腐り落ちて穴が開いており、ギリギリ立っているような危うい雰囲気を感じる。崩落一歩手前、という見た目だ。
だけど、屋根までは崩れ落ちていなかった。
「行ってみよう!」
「あっ、おい!」
春原が俺の手を引いた。体勢を崩しかけて、よろけながらも春原の後を追う。春原は躊躇もせずガタガタの扉を強引に開け放ち、社の中へと踏み込んだ。
中は意外と綺麗だった。外から見れば今にも崩れそうなオンボロが、入ってみれば案外普通に暮らせそうにも見える。雨漏りもしていない。
すごいな野生動物。こんな優良物件を知っているとは。そんな風に油断していたら床が抜けた。
「おわぁ!」
「わー! 大丈夫!?」
腰まで埋まって春原に救出され事なきを得る。情けねえな俺。助け出された後も俺はしばらく同じ場所でじっとしていた。考えなしに動けばまた壊しそうだ。
でも、ここなら床も畳だし、雨もしのげる。春原もようやく安心して眠れるだろう。なーご。俺たちをここまで連れてきてくれた黒猫が、いつの間にか部屋の中央でのんびりくつろいでいた。
「……ありがとよ」
「しゃっ」
かわいくねえ! 威嚇しやがった! せっかくデレてやったってのに、やっぱ畜生は畜生だな!
「さて、じゃ俺は帰るよ」
俺はそう言って立ち上がる。そろそろ帰らなきゃまずい。
「え? で、でも、雨降ってるよ?」
「母さんが心配してるから。それに、帰ってすぐシャワー浴びれば風邪も引かねえよ。たぶん」
あんな別れ方したんだ。きっとまだ心配してるはずだし。ここじゃ携帯通じないから、連絡入れるためにも一旦降りなきゃいけない。
「そっか……」
春原が寂しそうな顔をした。そんな顔してくれるのは嬉しい。ああ、誰かに必要とされる快感ってこういうことかな。全宇宙の支配者になった気分だ。
こういう時には何て言うんだったかな。久しぶりすぎて覚えてない。そうそう、こうだ。
「また来るよ」
「! うん、絶対来てね!」
じゃあね。またね。そんな挨拶交わしたのっていつぶりだろう。もしくは、初めてなのかもしれない。俺は手を振った。春原も手を振った。今までみんながやってたことの真似を、お互いにやってみた。
……結構いいもんなんだな、これ。
「じゃ」
立て付けの悪い扉を何とか閉めて、完全に俺と春原は分断された。そのことに寂しさを感じるのも新しい感覚だ。俺はそれを胸に秘めて、雨を切り裂きながら帰り道を走り出した。走り出さずにはいられなかった。
びしょ濡れでも、俺は満たされていた。無敵の気分でいた。俺がこんな感情になるなんて、一日前じゃ考えられなかったことだ。これまで無意識に馬鹿にしてきたことが、実は馬鹿にならないことだと知った。
そう。俺はテンションが上がっていたのだ。俺にしては珍しく。意識してなければわーっと叫んでしまいそうになる。
街灯のない夜道はむしろ普段よりキラキラしていた。そんな詩的な感想が沸き起こるくらいに、俺の心は躍っていた。
次の日、その反動のように俺は熱を出して寝込んだ。あと母さんにめっちゃ怒られた。




