九月十四日(火) 3
以下、春原愛奈のプロフィール。
性別・女(見りゃ分かる)。
年齢・十五(年下かよ……)。
身長・不明(百五十九の俺より低い)。
スリーサイズ・不明(聞けるかそんなこと)。
家族構成・春原、父、母の三人家族(普通だ)。
家庭環境・両親からのネグレクト(……)。
家出の理由・家に自分の居場所がないから(……)。
頼れる友人の有無・なし(俺と一緒だ)。
天下の回り者・一銭もなし(一枚の小銭すらない)。
それらを踏まえた春原の性格・明るすぎる(たぶん無茶してる)。
こちとら趣味が人間観察の暗いやつなんだ。同じ根暗を見抜くことなんざ簡単だ。そもそも明るい人間は環境が明るいからそうなんだ。環境が暗い人間が明るくなるはずがない。父親を早くに亡くした俺みたいにな。
俺は看破したぞ。だけど春原はあくまで明るく振る舞っていた。
「父さんも母さんも、私のこと生まれる前から嫌いだったみたい。
「だけど途中で殺しちゃうのもよく思われないからー、って、そのまま産んだんだって。
「でも子供っていっぱいお金掛かるよね。よく食べるし、色々物も壊すし、学校だって行かなくちゃならない。親の負担ってものすごいよね。
「だから私は嫌われたの。『この穀潰し!』とか、『疫病神!』とか、『わたしたちの幸せを返して!』とか。私は、お父さんとお母さんの幸せを吸って生まれたんだって」
幸福を奪うモノ。それはまさしく俺が宇宙人に対して抱く感情だ。あいつのせいで、あいつがいなければ、そんな〝もしも〟を考えずにはいられないような存在。いるだけで不満を覚えてしまう存在。
俺の場合、それは手の届かない場所にいた。ずっと遠くの空にいた。だけど春原は? 同じ家にいて、しかもそいつが自分より弱っちかったら? 手が届く。暴力が届く。悪意が届いてしまう。それは幼い春原にとって、一体どれだけの負担だった?
「そんなんなら、最初から産まなきゃよかったのにねー……」
春原が俯く先には猫たちがいる。黒、三毛、ブチ、多様な野良猫を引き連れて春原は歩いていた。
「学校でも、友達はできなかった。
「私だけ貧乏な格好だったから、笑われて虐められた。
「それを助けようとしてくれる人もいなかった」
春原はここでも一人だった。中学になっても状況は同じだった。春原は誰からも平等に嫌われ、生徒からも先生からも疎まれた。もはやどこにも春原の居場所はなかった。
ただ一つ、ある路地裏を除いて。
「暗くて、狭くて、不気味で、じめじめしてて、誰も近寄らなくて、だから野良猫がいっぱい集まってた路地裏。誰もいない道を選んで歩いていたら、いつの間にか私はそこにいたの。
「猫たちは私を嫌わないでいてくれた。むしろ懐いてくれた。やっと私の居場所ができた。
「放課後はいつもそこで時間を潰してた。家には帰りたくないから」
義務教育が終わると、春原の両親は完全に春原を放置した。一切の金を渡さなくなった。高校は通わせてもらえないから授業料も、洋服代も、食費すら。春原は一切の供給を絶たれた。
このままでは死ぬと思った春原はバイトをしようと思い立った。落ちていた雑誌の求人広告から面接会場に向かったものの、そこでも手酷い拒絶を被るだけだった。
春原はいよいよ追い詰められた。
「もうね、正直どうでもいいやって思ったの」
その一言は、むしろ清々しささえあった。危うい清々しさ。
「どうせ誰も愛してくれないし、どころかまともに見てもくれないし。
「私ね、人と百文字以上会話したことないんだよ。誰も私の話なんて聞いてくれないから」
たしかに、春原の会話の運び方は上手いとは言えなかった。今は落ち着いたのかすらすらと喋れているが、初めのちぐはぐな単語選びには俺も翻弄された。
「だから家に帰るのをやめたの。最初の夜はお腹の音を鳴らしながら、猫たちと一緒に路地裏で寝た。
「ご飯は商店街にまで行って、炊き出しとか余り物とか探して食べてた。全然お腹は膨れなかったけど、それはもう慣れてるから平気だった。
「硬い床で寝るのも、暑いのも寒いのも、ひどい臭いがするのも慣れてる。ただ、雨だけはちょっと辛かった。
「だから屋根のある場所探してて、色々歩いてたらあなたを見つけたの」
俺は今朝の濡れていた通学路を思い起こす。今は乾いているが水溜まりもちらほら見かけたし、結構な勢いだったはずだ。それを春原はもろに浴びた。
……そりゃ、寒かっただろう。
「…………」
こんな話を聞かされりゃ否が応でも同情する。そんな顔をされたら情が移る。くそ、だから美人は得なんだ。俺みたいなのが引っ掛かる。
だけど、上から目線の同情以外で、俺は同感した。居場所がないのは俺も同じ。学校に友達はいないし、バイト先じゃ怒られまくるし、家では時間の都合で話せる人がいない。
俺も春原も、人に飢えている。話したい。共感したい。一人はもう嫌だ。そんな連中が二人揃って夜道を歩いていた。
「俺な、春原」
だから俺も腹を割って話すことにした。家族のこと。学校のこと。バイト先のこと。包み隠さず、日頃の鬱憤を晴らすように喋りまくった。
「うん」
春原も嫌な顔一つせず、黙って聞いてくれた。俺がそうしたように、邪魔せず、話したいように話させてくれた。
俺が、俺たちが欲しかったのは、こういう友達だったのかもしれない。愚痴を言えて、互いに聞けて、慰め合える関係。恋人とか親友とか、そんな立派なものはいらない。
たった一人の友達でよかったんだ。そんなことに気づくのに何年掛かったことだろう。
「お疲れさま」
全てを話して、春原はそう言ってくれた。それでどれだけ気が楽になったことか。よくカウンセリングの世界では悩みは相談するだけでいいと言うが、その効果を俺は実感した。
「春原も、今までお疲れ」
えへ、と春原は笑った。俺も笑ってみせた。すると衝撃的な一言が返ってきた。
「あ、変な顔」
「なんだと!? 素敵な笑顔だろ!?」
「笑ってたのそれー!? うっそだぁ!」
こ、こいつ! 今までで一番傷ついた発言かもしれない! 俺は咄嗟に自分の顔に触れてみたが、当然それで何が分かるというわけでもなかった。
「ほら、こうやって笑うんだよ」
春原は口を大きく開いて笑顔を形作った。ぐ、キラキラしてる。俺も真似してみる。
「こう?」
「変!」
「じゃあこうだ」
「もっと変!」
「これならどうだ!」
「あはは! だめだ、笑っちゃう!」
「こうしてやる!」
「暴力はだめーっ!」
くそ、久しく笑える出来事なんてなかったから、すっかり俺の表情筋は錆びついてしまったらしい。小さい頃はちゃんと笑えていたような気がするんだけどな。しかしそんなにひどいのか? 春原の感性がおかしいだけじゃないのか? 俺はスマホを取り出して、人生初の自撮りというものをしてみた。
カシャリ。
「わ!」
「うげ、俺こんな顔してたの……?」
笑えるとかおかしいとかより、まず恥ずかしい。いくら何でも不器用すぎる。人間失格だ。俺の暫定笑顔はそれくらいの破壊力を有していた。
俺がひっそりと撮った写真を削除していると、視界の端で春原が何やらわなわなしているのが見えた。
「な、なに、今の……?」
「何が?」
「かしゃって、ぴかって、四角いのが!」
「……お前もしかして、スマホ知らないの?」
嘘だろ。お前本当に現代人か? だけどさっき聞いたばかりの春原の経歴を思うと、それもあながち不思議ではないのかもしれない。
「写真撮ったんだよ。スマホで」
「写真!」
春原の目が好奇心で満ちた。「聞いたことある!」「でも見たことない!」「だから触ってみたい!」そんな心の声が聞こえるようだ。そのまばゆすぎる瞳の輝きに押されて、俺は春原にこう提案した。
「と、撮ってみるか?」
「いいの!?」
あまりにもストレートな感情に、俺はついスマホを春原に渡してしまった。ま、まあ写真撮るだけならロック解除する必要もないしな。別にいいか。
「黒い!」
「ホームボタン押せ」
「海だ!」
「デフォルト壁紙だ」
「なんか変わった!」
「これがカメラ画面だよ。ほれ、真ん中の丸触ってみ」
「音だ! 光だ!」
「これでおしまい。撮った写真はここで見れるぞ」
「猫だー!」
その猫たちはさっきから不可思議な音と光にビビりまくってるけどな。
「うわっ、なんかいっぱい音が鳴った!」
「馬鹿長押しすんな! そりゃ連写だ!」
「違う音が鳴った!」
「録画だ! もっかい押せば止まる!」
「矢印が出た!」
「パノラマだ! 俺も使ったことないからよく分からんけど!」
春原は未知の技術にすっかり虜になってしまったようだ。初めてスマホ買ってもらった中学生みたいだな。
だが、ここまで喜んでもらえると、貸した甲斐もあったというものだ。別に俺が開発したわけでもないが、俺のことのように誇らしい。悪いな発明王、あんたの手柄横取りしちまってよ。
「光くん、なんか『使用できません』だって」
「お前ぇ! パスワードめちゃくちゃに打ちやがったな!」
「えっ、もしかして壊しちゃった? ご、ごめんなさい!」
「いや壊れてはないけど! ……ないけど」
……こいつにスマホ与える時は監視してないとダメだな。俺はそう誓った。
その時だった。
「うおっ?」
「あれ?」
今まで足元でうろちょろしてた猫たちが、一斉に四方へ駆け出した。すばしこい彼らはすぐに姿が見えなくなり、後には俺と春原の二人が残されてしまった。
その原因はすぐに分かった。
「やっぱ光だ。なにしてんの、こんなとこで」
「母さん?」
母さんが車の窓から顔を出していた。なるほど、このエンジンの振動を感じてあいつらは逃げ出したんだな。
「いや、普通にバイト帰りだよ。母さんこそどうしたの? やけに早いね」
「今日は仕事一個だけやって終わりだったから。ついでにちょこっと買い物してきた」
あんたの好きなシチューも買ってきたから。そう言って母さんはがさりとレジ袋を鳴らした。俺にとってはシチューを買ってきてくれたことよりも、母さんの元気そうな声を聞けた方が嬉しい。いつもは時間が合わず、ロクな会話もできないから。
「…………」
だけど俺と母さんが何気ない会話を交わす裏で、春原が母さんから逃げるように俺の背中に隠れた。それを母さんは見咎め、
「あら、誰かと一緒? こんばんは」
と春原に声を掛けた。
「…………」
「春原?」
だが春原は何も答えない。俺の服の裾を握ったまま、無言を貫いている。その手は少し震えていて、俺は安心させるために「大丈夫だよ」と言った。
「母さんは優しい人だから。嫌われる心配なんかしなくていいって」
春原が裾を握る力を少し増した。
この言葉も、後から思えばまるで見当違いだった。春原が恐れていたのはそれではなかった。
「違うの……」
「違う?」
春原は優しい人間だった。通りすがりの俺を助けたくらい、お人好しだった。そのお人好しが第一に嫌うのは、自分が傷つくことではない。他人を傷つけることだ。そのへんの感覚が、当時の俺にはよく分かってなかった。だから齟齬が発生した。
でも、それも仕方のない誤解だったのかもしれない。避けようのないトラブルだったのかもしれない。なにせ俺は、春原の『人に嫌われる体質』を軽く見ていたのだから。現実的に捉えていたのだから。
自分が宇宙人なんて非現実的な存在のくせして、その他の非現実的な存在を認めていなかったのだから。
「あんた、それ……」
母さんが俺の肩越しに春原を見て、ぽつりと呟いた。春原の体がびくりと跳ねた。
俺の認知が甘かった。それを次の瞬間に思い知った。
「何、そいつ」
「え?」
「気持ち悪い」
――心臓を撃たれたような気分だった。
「何よそいつ。何であんた、そんな気持ち悪いのと一緒にいるの!」
「か、あさん?」
「離れなさい! 今すぐ! 離れて! そいつの近くにいちゃ駄目!」
「まっ、待って! 何で、何でそんなこと言うんだ!?」
「何してるの! 早く離れて!」
何だ。何が起こってる。何で母さんは怒ってるんだ? 何で母さんは、まるで春原を敵みたいに思ってるんだ?
俺はこんな母さんを見たことがない。知らない。こんな、初対面の人間を一方的に弾圧するような、そんなひどいことをする母さんを、俺は知らない。
母さんの金切り声が頭を殴打する。春原への嫌悪が存分に含まれたその雑言の数々は、同時に俺をも苦しめた。車のヘッドライトの眩しさに目がくらむ。脳味噌が揺れて吐き気を催す。ピンボケしたレンズみたいに世界がぼやけて見える。
春原。そうだ、春原は。俺は背後を振り返り、春原の小柄な体躯を視界に収めた。
「ごめんなさい……」
春原は――笑っていた。無理矢理笑っていた。カメラの中の俺の笑顔よりずっとひどい顔で。春原の指はすでに俺の服の裾から離れていた。
「ごめんなさい」
「春原!」
手を伸ばすもむなしく空を切る。俺は春原を捉えきれなかった。ただ離れていく背中を見送るしかなかった。ひどい喪失感で胸が満たされて吐きそうだ。
「はあっ、はっ。ふう、やっと行った……」
母さんが安心した、という風に息を吐いた。その達成感に満ちた声色に、俺は耐え難いくらいの怒りを覚えた。カッとなった。
「なんてことを――なんてことを言うんだよ、母さん!」
俺は生まれて始めて母親に怒鳴った。生まれて始めて怒鳴られて、母さんは驚いた顔をしていた。その、いかにも「何も分かってません」と主張する顔に、俺はさらに頭に血を上らせた。
「なに? 何であんたが怒ってるの」
「何でって、そんなの……」
春原は傷ついていた。傷つけられたんだよ、母さん。あんたに!
……俺は、どうすりゃいいんだ。俺は母さんにも春原にも、どっちにも傷ついて欲しくない。なのに、母さんは春原をこっぴどく非難した。
「何であんなこと言ったんだ! 春原は何もしてないだろ!」
分からない。分からないから、尋ねるしかない。詰問する俺に、母さんは「だって……」と、
「だって、なんか嫌な雰囲気したんだもの。あいつ何なの? どうしてあんたと一緒にいたの?」
「な、んだよそれ……」
理不尽じゃないか。
そんなの、理由なんてないと言ってるのと同じだ。理由なく人を傷つけるのは、あの金髪と同じだ。俺が世界で一番嫌いな連中と同類でしかないのに。母さんはそうだって言うのか?
あの空っぽな目と同じ目で、春原を見るのかよ。
そこまで考えて、俺は思い出した。急激な態度の豹変。嫌悪感。これと似たようなものを俺は見た。バイト帰りのあの夜道で、猫と共に現れた春原が不良を撃退した時のように。
これもまた、同じものなのか?
「ちょっと、どこ行くの!」
母さんが俺を呼び止めた。だけど俺は無視して走り続けた。春原の後を追った。
間に合え。春原には聞かなきゃいけないことがある。俺は野良猫のように夜の街を駆けた。




