頼れる隣人、ミサキさん
ヴィヨンドの部屋の扉を閉めて、ゆっくりと背面の手すりに寄りかかった。そのままぼくは陰鬱にため息を吐く。
「……はぁ……」
不気味に軋む手すりに体重を預け、夕暮れの空を仰ぐ。ヴィヨンドのことを思う。
彼女には死んでほしくない。死んでほしい人間なんていない。亜人ですら。少なくともぼくには、そんなに憎いと思える相手はいない。
でも、ヴィヨンドは違う――彼女は憎んでいる。彼女を呪った両親を、彼女を封じて首を刎ねたヴァンパイア・ハンターを。
二ヶ月前。彼はこの街でヴィヨンドと交戦し、歪めた空間に彼女の体を封印した。その上、首を刎ねて傷口に呪いを掛けた。
その結果、ヴィヨンドはああなった。気高く美しい友人が、あそこまで衰弱してしまった。
さらに悪いことに、その術者、ヴァンパイア・ハンター本人はとっくに死んでいる。ヴィヨンドが殺してしまっている。
だから誰も彼女の封印を解く方法を知らない。歪んだ空間に横たわる白骨死体以外に、この状況を打破できるものはない。
この二ヶ月、ぼくはありとあらゆる手を尽くした。知り合いのハーピィに手伝ってもらって、機械仕掛けの鯨にまで飛んでいったこともある。
ヴィヨンドより長い時を生きる大岩に相談した。半分イルカで半分人間の博士に助けを請うた。異世界の扉を開いて魔術王の老人に頼んだ。彼らの誰もが無理だと言った。
そうこうする間に二ヶ月――もうヴィヨンドは限界だ。ぼくから見ても弱りきっている。
ぼくは自分が情けなくなる。これだけいい人たちに恵まれていて、友人一人救えないぼくが。
ぼくは人狼族に伝わる秘伝の犬笛の製法を知っている。田村のお母さんに教わった。異世界の扉の開き方を知っている。こっちの世界に観光にきた魔術王に教わった。古代の魔女の暗号を知っている。空飛ぶ鯨に記してあった。
それでさえ、彼女を救う手立てにならない。じゃあぼくは、あと何をすればいいんだ?
ぼくが二ヶ月を共にした無力感に苛まれていると、誰かが階段を上がってくる音がした。
「おお、少年。なんだ、またヴィヨンドに会ってたのか?」
ミサキさん。花崎さんの古アパートの住人で、ヴィヨンドの数少ない人間の友人。彼女は向かいにいるぼくに気づくと、軽く手を挙げた。ぼくはそれに会釈で返す。
「……ええ、そうですよ。ミサキさんは今お帰りで?」
「おおとも。スーパーで今夜の食材を買ってきたところだ。君がいいならだが、どうだ、上がってくかい?」
彼女はいとも簡単にぼくを誘ってきた。それ自体はとても魅力的な提案なのだが(ミサキさんの料理は絶品なのだ)、あいにくとぼくには行かなければならない場所があった。
「いえ、遠慮しときますよ。これから用事がありますので」
「そうか、用事か。それは仕方ないな」
「ええ、すみません」
それでは、とぼくは彼女の脇をすり抜けようとして――不意に、ポケットの電話が振動する。
「謝る必要はない。だけどね、私の勘が正しければ、その用事はキャンセルになるはずだよ」
果たして、彼女の予言した通り――受け取ったメールの文面には、『今日は行けなくなった』という謝罪の旨が記されていた。
「……あなたには、全く、敵いませんね」
「私は世界の中心に立っているからな」
ぼくが言うと、彼女は「にっ」と強気な笑みを浮かべた。
「だからまあ、失望するな。いずれ君も世界に届くさ。それまで励め、少年」
用事もなくなったぼくは、ミサキさんの部屋にお邪魔した。もちろんここには歪んだ空間など存在せず、十字架も、生首も存在しない。ただ綺麗に整頓された部屋があるだけだ。
その部屋の中心の、古びたこたつにミサキさんは鍋をセットした。今日は水炊き鍋をするらしい。
ミサキさんがいそいそと動き回る姿を見て、ぼくはたまらず声をかけた。
「手伝いますよ。ご馳走になりっぱなしでは申し訳ないです」
「うん? そうか、じゃあクーラーをつけてくれ。目一杯寒くしたいんだ」
「はい、わかりま……え?」
あまりの要求にぼくは困惑した。クーラー? 夏でもないのに?
「ああ、そこのこたつもだ。贅沢をしよう」
「贅沢……ですか?」
「そうだ。冬でもないのに部屋を寒くして、そのくせこたつで丸まっていよう。鍋の究極的で、退廃的な楽しみ方だね」
つまり、電気代を無駄にしてまで鍋を楽しもう、と彼女は言っている。そのへんのこだわりが、彼女をミサキさんたらしめている要因でもある。
ミサキさんはぼくにそれ以上の指示をくれなかったし、事実料理となれば手出しできることは何もないので、ぼくはクーラーを十九度に設定してこたつの電源を入れた。頭皮が突っ張るような寒さが部屋を覆い、足元にじんわり熱が灯る。なるほど。早くもぼくの全身は、鍋をかき込むという欲望に囚われてしまった。
「それだ。まさにその顔だ、少年。そいつが『鍋の顔』ってヤツなのさ」
「でも、いいんですか。わざわざぼくのためにこんな……」
「ふふ。構うものか。そもそも鍋というのは二人以上で囲うものだ。私みたいな寂しがりやには、一人でぐつぐつ煮える鍋を見つめるのは相当に苦痛なのさ。だから君がいてくれて、ありがたいくらいだよ」
ミサキさんは微笑んだ。けど、そう言う彼女はいざ一人になったとしても、最大限鍋を楽しめる人間なのだ。それでもぼくを誘ってくれたという事実に、少しだけ嬉しくなる。
「よいしょ」
かちり、とミサキさんがコンロのスイッチを捻った。鍋に張られた水に火が盛る。
クーラー、ガス、こたつ、外の喧騒。静かに部屋に染みていく音たち。ミサキさんはこれを堪能するように目を閉じた。まるで劇場でオーケストラでも聞いているような満ち足りた顔で、ぼくは息一つすることすら躊躇われる。彼女の世界を壊すのが怖かった。
その荘厳な空気を破ったのは、ミサキさん自身だった。
「今日は、鯨のやつずいぶん低くを飛んでいるな。エンジン音が聞こえる」
「え、ほんとですか」
「ああ。何か楽しいことでもあったのかも知れないな」
機械仕掛けの鯨が楽しいだなんて思うはずもないのに、どうしてだろう。彼女が言うと嘘も真実に成り替わる気がしてならなくて、ぼくは少し鳥肌が立った。季節外れのクーラーのせいに違いなかったけど、ミサキさんの底知れなさに圧倒された。
「そういえば、学校はどうなんだ。竜二のやつはまだ番長をやってるのか?」
「はい。あいつ以外に番長の務まる人間はいません。それくらい、竜二は立派にやってますよ」
「そうか、立派か。姉として鼻が高いな」
「ええ。それに、この前一緒に遊びに行った時オートバイで撥ねられてましたが、まるでぴんぴんしてました。目の前で見たので覚えています」
「なに、撥ねられた? それはそれは、そのオートバイの運転手は大丈夫だったのか?」
「はい。撥ねた衝撃で吹っ飛んだのを、竜二がうまくキャッチしました」
「それはよかった。一般人に怪我をさせるなど以ての外だからな」
「だけど、どうも運転手は竜二に怪我をさせたかったらしいですよ?」
「じゃあボコボコにしてよし。喧嘩を売るのはダメだが買うのはいい」
「してました」
「さすが私の弟だ」
ミサキさんは高らかに笑った。聞いていて気持ちのいい笑い声だった。
「茜ちゃんはどうだ。竜二とうまくやっているのか?」
「茜……ああ、白坂さんですか。はい、今日も一緒に下校してましたよ」
「うむ。あの竜二に付き合える度量の女は珍しいからな。大事にしろと言ってやれ」
「それはもちろん。言われなくても、竜二はちゃんと白坂さんの彼氏をやってますよ」
「恋人を大事にするのは当然のことだ。それをやつは心得ている」
ミサキさんはうんうんと頷く。これは確認のようで、ミサキさんの弟とその彼女の自慢だ。
彼女の家に行くと、ぼくは毎回これを聞かされる。けれど別に苦ではない。学校で一番のお熱いカップルで、学校で一番強くて優しい番長で、ぼくの友人のである竜二の話は、ぼくにとっても誇らしい。
不思議なのは、これだけ自慢に思っているのに、彼女は一向に竜二とコンタクトを取ろうとしないのだ。直接会うのも、電話も、テキスト上ですらミサキさんは竜二と話そうとしない。ただこうしてぼくから聞くだけだ。その理由をぼくは知っているが、他言無用と釘を刺されているからには話せない。
ミサキさんは鍋の火加減を少し見て、少し頷いてからぼくを見た。
「うん。じゃあ、君の話だ。君の抱えている問題の話だ。ヴィヨンドはどうだ?」
「ヴィヨンドは――」
そこでぼくは口をつぐむ。話すべきことはない。
二ヶ月前、ヴィヨンドがあんなになってしまってから、ぼくは知りうる限りの頼れる人たちに片端から声をかけた。その中の一人がミサキさんだ。
だからぼくは、彼女に語る言葉を持たない――現状は、二ヶ月前から何も動いていないからだ。
「なるほど、良くないな」
ぼくが黙っていると、ミサキさんは察してくれた。あるいは、それほどまでにぼくはわかりやすい表情をしていたか。
「死ぬな、あいつは」
ミサキさんは、こんなときでも調子を変えなかった。ただの事実を湿っぽく話すのは、彼女の美学に反する行為だ。
「このままだと、あいつは死ぬ。あの可愛らしい隣人と話す機会が永遠に失われてしまう」
「だが、私ではあの呪いは解けない。そもそも、私はあの部屋には入れない」
「わかるか、少年。君は許されているんだよ。あの愛らしくも高貴なる幼吸血鬼に許されている。かつて殺し合った仇敵を、あいつは慈愛でもってあの部屋に招き入れている。この私でさえ許可されていないのに、だ」
「聡い君ならもう気づいているかも知れないが、あいつは君に恋しているぞ。でなければ今際の際を看取らせようとは思うまい」
「助けられないのであれば、いっそ見届けろ。その方法を、まさか君が知らないわけではあるまい?」
……道理だ。
ミサキさんは正しい。もはや打つ手はない。ヴィヨンドは死ぬ。あのヴァンパイア・ハンターに会った時に、そうなることは決まっていた。
だからこのままだらだら惨めに生き永らえるのは、ヴィヨンドの望むところではないはずだ。あの誇り高き幼吸血鬼は、自らの醜態を晒したままで生きようとはしない。封印が解けないと悟った時点で死を選ぶような、彼女はそういう吸血鬼だ。
その信念を曲げてまで生きようとしてくれているのは、きっとぼくのためなんだろう。
あの夜、間に合わなかったぼくが言った、「必ず助ける」という言葉。「それまで待っていて」という、あまりに残酷な約束。それを、彼女は待ってくれている。磔にされてまで、ぼくとの約束を守ろうとしてくれている。
生まれた瞬間に両親に呪われ、同胞すら信じられず孤独に生きていた彼女が、ぼくに猶予を与えてくれた。ぼくに決断する時間をくれた。それは正しく慈愛だ。痛切なまでの優しさだ。
それを恋と呼ぶのは、決して不自然なことではない――だからこそぼくの心は、焦りと恐れにじりじり焦がされていた。
「あいつは君を待っている。死ぬまでな。壮絶な覚悟だ。生半ではない。あいつの過去を知る者では、想像できないくらい強い覚悟だ」
「…………」
「あいつは君を許しているのだから、君もあいつを許してみてはどうだ。どの道助からんのであれば、いっそ楽にしてやれ。簡単なことだろう。君にとっても、あいつにとっても」
もういい、と一言言えば、それで済む。もう楽になっていい、と。
ぼくの都合で引き止めて悪かった、と。もう、もう――死んでいい、と。
それを、ぼくの口で、言えと。
簡単な、ものかよ。
「悩むのもわかる。私だってあいつに死んでほしくはない。なかなか話の合うやつだったからな」
叶うなら、この命を分けてでさえも。ミサキさんは本気だ。
「だが、どうしようもできない。私より賢いあの大岩が、私より強いあの老人が、私より博愛主義の博士が、全員まとめて匙を投げたんだ。さすがの私も諦めたよ」
「だから、ぼくに諦めろと?」
「そう言っている。正直、見ていて辛い。君があちこち走り回って、その度疲弊していく姿を見るのは。それを愚直に待つ、あの吸血鬼の姿を見るのは」
まあ実際、私はあの部屋には招待されていないわけだがね――ミサキさんは言う。
「だけどわかるわけだ。見なくてもわかるわけだ。君のその落胆した顔を見る度に。ああ、まだあいつは待っているのかと――まだ君が覚悟を決めるのを待っているのだと」
ヴィヨンドは、自らが助からないことを知っている。知ってぼくに時間をくれるということは、ぼくに絶望させようということだ。ぼくにきちんと、自分を諦めさせようとしてくれているのだ。
助けられないなら、背負うことはない。不可能に挑むほど、馬鹿らしいことはない。人は空を飛べはしない。あの鯨のように泳ぐことはできない。それと同じ。
できないのなら、諦めろ。諦めて、楽になれ。彼女はそう伝えたいのだろう。
もしぼくが同じ状況に立って、同じことができるかと言われれば、無理だ。ぼくにはそこまで想える人がいない。ただの中学生に、そんな高尚なことができるはずもない。
だからこそ、諦められるわけがない。ぼくはその想いに答えたい。
その心さえ失ってしまえば、きっとぼくはぼくを許せない。
「ヴィヨンドは、君のその姿を見たくないのだろうさ」
見透かしたように、ミサキさんは言う。それともぼくが、わかりやすいだけか。
「……ミサキさん」
「うん」
「ぼくは、どうすればいいんでしょうか」
「難しい質問だ。それは、君自身で答えを出すことだ」
そう言ってミサキさんは優しく笑う。諦めろという彼女の言葉でさえ、結局はただの助言だ。ぼくは決断しなければならない。
時間は、そう多くない。




