前編
あの日、あの時。私があの男に声をかけていなければ、私の人生はいたって普通だっただろう。平凡な人生が、地平線の向こうにまで広がっていたに違いない。
私は、テラス席で平凡な人生と別れを告げることになる。
大学の授業が無い日の始まりは、とてもゆったりとしている。社会人や、一限目から授業のある友人たちが出かけてからたっぷりに時間は眠る。でも、目覚めてからの行動は早い。まず私はやかんにたっぷりのお湯を沸かす。紅茶を飲んでから私の一日が始まるのだ。たっぷりのお湯を沸かしたほうが美味しい紅茶が淹れられると聞いてからは、いつもそうしている。お湯を沸かしている間に歯を磨き、髪を簡単にまとめ、ティーバッグを仕舞っているビンを取り出す。軽い。――あ。
ビンの中は空っぽだった。昨日で最後だったのだ。新しいのを買いに行こうとしていたことを、すっかり忘れていた。これは駄目だ。私は紅茶を飲まないと、一日のスイッチが入らない。その日一日が機嫌が悪くなるのは、これまでの経験から知っていた。
春の陽気は窓を飛び越え部屋の中にまで届いていた。こんなすばらしい天気だ。機嫌を悪くするのはもったいない。何か、特別な一日が始まりそうな、素敵なことをしよう。
少しだけ考えて、思いつく。そうだ、前から気になっていた素敵なカフェに行こう。名を知らないカフェは大通りを一本入ったところにあり、小さな庭園にテラス席もあった。そのテラス席に座ってブランチでもすれば、ティーバッグの紅茶で始める一日よりも、もっと素敵になるはずだ。
私は火を切った。
私は下ろしたての白いスニーカーを履いてアパートの鍵を閉める。あの店に駐輪できる場所があったか思い出せなくて、そう遠くない距離だからと歩き始めた。
アパートの前の大通りを山側に向かって歩き、異国の人形が並んで窓の外を見ている家を左に曲がる。そしたらすぐに庭園が見えて、やはり素敵なカフェだった。店名は見事な筆記体で綴られていて、ところどころ読めない。私はTから始まるカフェのドアを開けた。
店内にはお客さんが数人。入ってきた私をちらりと見る。私はテラス席に座って、紅茶とフレンチトーストを頼む。庭園はもちろん、奥に見える並木道も綺麗だ。ただ、私の席からは庭園の外側ある、数メートル先の赤い自動販売機が見えていて、それだけが残念だった。
その男はとても目についた。山高帽に杖といった、初老の紳士と聞いて私の安易なイメージそのままの格好をしていたが、真っ黒なサングラスだけがそのイメージに反していた。リズミカルに杖を突いて自動販売機の前まで来た彼は財布を取り出す。彼の左手を支えていた杖がぶれて、そのまま小銭が数枚落ちる。その中で一枚、一際重そうに落ちたそれだけが男の後ろまで転がった。彼はそれだけ拾わないまま何か飲み物を買う。何も言わずにたった今来た紅茶とフレンチトーストを、銀色に輝くそれを気にしながら食べるのはもったいない。幸い、私の声はよく通るらしい。
「あの、お金まだ残ってます」
男はどこから声がしたのかと辺りを見回し私を見つけた。
「ちょうど二歩くらい後ろです」
ありがとうと言って彼は、後ろを向きながら腰を曲げて難なくそれを拾い上げた。
「あった。これは大事だ」
服装から想像した年齢より若い声をしていたから、初老というのは間違いかもしれなかった。
男がひょいと柵をまたいでこちらに近付いてきているのを見て、うわ、という叫びを飲み込む私に彼は少し申し訳なさそうな顔をした。
「ああごめん。君が紅茶好きなら嬉しいと思ってね」
彼は内ポケットから手のひらより小さい紙をいくつか取り出し、そのうち一枚を私に差し出した。一度話しかけているため無視もできない。庭園の柵はあってないような高さだが、テラスの柵はそうではない。もし彼が不審者で、危害を加えようとするならば、とりあえず店内に駆け込んで、それから考えよう。受け取った紙を見ると、それは名刺で、「紅茶屋」という何の捻りもない店名と、この辺りの住所が印字されていた。中央の名前だけが万年筆で書かれていて、「夜野都張」と書かれていた。夜色のインクだった。
「ヨルノトバリって書いてあるんだ」
なんと返していいのかわからず、紅茶を飲むことで返事をしないことにした。
「並木と川の向こうに店がある。猫のアスタリスクが窓から出て扉から入るを延々ぐるぐる繰り返している店だから、すぐわかると思うよ」
興味があったら是非、と彼はまたひょいと道に戻り、リズミカルに杖をつきながら去っていった。
話しかけなくても同じだった。視界の端に忘れられた小銭があったら罪悪感が残ると思って話しかけたが、これではあの男と名刺が気になって仕方ない。
落ち着いて飲んだ紅茶は、朝飲んでいる紅茶とは別物のように美味しかったし、フレンチトーストもシナモンの香りがするのが好きた。それでもテーブルに置いた名刺に気をとられる。
そういや、あの人は何も買わずに去っていった。よかったのだろうか。
いつものところでティーバッグを買ったまではずっとあの男について考えていたが、変な夢のような現実感の無さにだろうか。次にその男を思い出したのは土曜日だった。春の陽気からか、出かける直前に今日が休みだと気付いた私は筆箱やノートを置いてそのまま外へ出た。昨日、好きな小説のシリーズの最新刊が出たのだ。その本を買った帰り道、下駄箱の上に置かれたままの名刺と男の事を思い出した。並木と川の向こうに店があるならば、今通ろうとしている道の先にあるはずだ。気にせず通ってしまえばいいのだが、ややこしい目に合いそうな気がして一本離れた道を通ることにした。
「ああ、来ないかと思った」
自転車を遮るように杖を出されては、止まらざるを得ない。ブレーキを握ろうとしてから止まるまでにいくらかは進んでしまう。男にぶつかると思ったところで相手は杖を下げた。
「やあ、こんにちは」
何事も無かったかのように、向こうは挨拶をした。この前と同じくサングラスをしている。服装は前と違っていたが、やはり、紳士という印象は変わらない。
「・・・・・・どうも」
「遠くに君を見つけてね。店を通り過ぎようとしていたから思わず止めてしまったよ」
「店、川原に面しているって言ってませんでしたか?」
「そうだよ、表は向こうだ。よく覚えているね。まあ、こっちからも入れるんだけど」
男の後ろにある建物は扉が開いたまま固定されていて、なるほど、モダンな雰囲気の店があり、さらに向こう側の景色が四角く切り取られていた。
「・・・・・・細長い店ですね」
奥にあるドアから猫が入ってきて、見えないところへと消えた。猫の・・・・・・なんとかだろう。
「そこが気に入っていてね」
「そうですか」
もう2本ほど川から離れた道にすればよかった。
「時間があるならよってく? 面白い店だよ。自分で言うのもなんだけど」
「え、そうですねえ」
断り文句がとっさに出てこない。入ってもいいのだけど、この人の相手をしなきゃならないのは面倒だ。
店の奥から声がした。
「都張さん、また変な名刺の渡し方したでしょ? そんなんじゃあ来る人も来ないよ。変な人だもん」




