混沌の神
身体を打った所をさすりながら立ち上がると、結界の向こうからもう一つ球体が現れ、先ほどとは別の方向に進んでいた。
その先にはロアックが居て、必死で逃げようとするも暗黒球体の方がスピードが速く、覚悟を決めたロアックは盾をしっかりと構えて直撃に備えた。
しかし、今度は彗星は振ってこず、その代わりにロアックは絶望感の魔法を受けてしまった。
それは魔法使いがしばしば、相手の気分を落ち込ませたい時に使う魔法だった。
さほど強力ではないのだが、この魔法を解く為にはバード達が唱える希望の魔法が必要で、大抵の場合は解除出来ずに魔法の効果がきれるまで放置される。
「……はぁ……お腹空いた……」
どうやらロアックの絶望は、食欲に関する事らしかった。
この暗黒球体は、触れると様々な厄介な魔法をかけてくるらしかった。
見るとセリーナスも避けきれず、なんと即死の魔法を受けていた。
僧侶は大抵、即死防御という即死を免れる呪文を防御用にかけているので、問題は無かったが、慌ててセリーナスは皆にデスワードの呪文をかけ始めていた。
「死の指か、危ないな」
「私で良かったです。他の方だったら即死していたかもしれません」
彫像を壊した事で、結界は解除されたが、問題はこれからだった。
結界のあった所はアーチになっていて、中に入る事が出来たのだが……。
「こいつは……最悪だ……」
この大広間には、無数の暗黒球体が駆け回っていて、それは、正面奥にある、巨大な異世界へのゲートから出てきていた。
ここは、どこか別の異世界と繋がっていて、このフェイルーンへの通り道として使われているのだろう。
「定命の者よ、我々の所まで辿り着いた気分は、どうかな?」
声にならぬ声が俺達の心の中に響いた。
それはそのゲートの向こうから響いてくる声で、強烈な威圧感を持っていた。
この声は間違いなく、神の声だろう。ダークシックスのどの神が語りかけているのかはわからないが、戦意を喪失させるには十分な力を持っていた。
「シェイ、声に惑わされるな」
リヒトが俺にそう語りかけてきたが、今回ばかりはそういう訳にもいかなかった。
「お前は……誰だ?」
ロアックが絞り出す様な声でそう尋ね返す事が出来たのは、彼の心の強さ故だった。
或いは、これこそ無謀な事なのかもしれないが。
「私は旅の神。混沌こそ我が愛する所。秩序よ永遠に消し飛べ」
なるほど、それで混沌の悪魔であるデーモンの彫像があったのだろう。
「お前達がここに来たのは、私に会いに来た訳では無い。私を倒しに来たわけでもない。私を崇めにきたわけでもない……お前達はただの旅人だ」
この声を聞いていると、まともに考えがまとまらなくなる。冷静な判断をしたいと思うのに、頭の中が整理出来なくなる。
今、自分はどうするべきか……それすらも、混沌としていて見えない。
「旅人よ、私はお前達の旅する先を知っている。そう言えば遠見の長がお前達に道を示したな。モディウスめ、私の邪魔ばかりしおって、あれは本当に嫌なクォリだった」
「まあ、そんな事はどうでもいいし、もう興味もない。お前達が追うヴィスカスは遙か昔、一度だけ剣王を負かせた事がある。それがこの旅の始まりなのだ」
「ヴィスカスはいい女だ。あれはまさしく混沌の申し子よ。あれの研究が終わったら、またドラゴンポリスは復活するだろう。世界を混沌に陥れる為にな」
混沌の神がそう言うと、中空に何かの幻が映し出された。
その幻を見た時、俺は心の中が凍てついた。
星空の広がる宇宙。その中空に羽ばたく巨大な赤竜。
このレッドドラゴンは宇宙を飛んでいた。
その背景に、青く綺麗な惑星が見えている。
宇宙には、円状の広い舞台が浮いていた。
そこでヴィスカスは何百年も何かを調べていた。
「私は剣王が嫌いだ。機甲涅槃界のあらゆる存在が嫌いだ。それは規律正しいからだ。しかし、そこにいる天国の剣は、その規律を断ち切る事が出来る。これは面白い」
「そしてその剣を持つエルドリッチナイト。お前だな? 信者達に集団ヒステリーを起こさせた真犯人は」
視線が俺の身体を貫いていた。どこから見られているかなんてわからない。辺りを見回しても、ゲートの奥を見ても、視線の出所は掴めない。
「あれは大変面白かった。だから、そのお前の混沌たる働きに対して、褒美を与えよう。ヴィスカスは死せる砂漠の王、リッチキングの所にいる」
「何百年もの間、そこで滅亡戦争の研究をし続けている。かつて巨人族がデーモン達を支配下におき、竜族を全滅させる為に戦争をしかけてきた」
「竜族は対抗する為に機甲涅槃界のコンストラクト達に助けを求め、そして、ヴィスカスはその時にまんまと剣王を騙して支配下に置いたのだ」
「行ってヴィスカスから剣王の自由を取り戻すがいい。剣王は気にいらないが、それによってお前達の国スラニルがウルゴーを撃退したなら……」
「このミドルサーンは何十年ぶりに、大規模な混沌戦争を始める事だろう。次にこの地を支配するのが誰なのか、という支配権を争って」
「実に楽しみだ。お前達混沌の旅人は、これを聞きに来たのだろう? ここまでよく来たな? そして更に彷徨うが良い」
声が途切れると、俺達は広間の中から外へと追い出された。
見るとデーモンの彫像は元通りに治っていて、目の前には青い結界が張られていた。
「今のが……神か……」
リュージが頭に手をやりながら、そう呟いた。
酷い頭痛がする。吐き気もする。何が起こったのかはわからないが、神の力の前でどうする事も出来なかったのは確かだ。
セリーナスが病を治す呪文を一人ずつかけてくれたおかげで、頭痛と吐き気はなんとか治まったが、絶望感と倦怠感は残ったままだった。
「ここまで来たのは……混沌の神のおかげで……ここから先へ行くのもまた、混沌の神のおかげか……」
「そして、俺達が目的を達成してスラニルを救ったら、その先にはまた混沌があるみたいだな」
混沌の神はリヒトをさして、規律を断つ剣だと言った。
それはその通りかもしれない。
リヒトはウルゴーがこの世に課した、異世界に助力を求めてはならないという規律を破る事で手に入れた剣だ。
その剣の作り手である剣王は、ヴィスカスに騙されて、支配されていると言う。その支配という規律を断ちきる為の剣が、リヒトなのだろう。
「目的は見えた。ヴィスカスを伝説から、現実へと引きずり出してやった……」
「でも、相手はリッチキングだそうだぜ」
「死せる砂漠の王の話は聞いた事がある。ミドルサーンとノースサーンを分け隔てる広大な砂漠が、死の砂漠だ」
「砂漠は……お腹が空きそうだな」
未だに絶望の魔法が溶けていないロアックは、いつもの元気を失って、その場でしょんぼりとしていた。
「もう、ここに用は無い。エル・カシまで戻ろう」
「スラニルではなく?」
「エル・カシが一番砂漠に近い。それにあそこなら旅の準備をするにもいい」
「わかった。じゃあエル・カシに戻るか」