ベヒーモス
闇色の鋭利な爪が、僕の頬を浅く掠った。
頬から流れた血は顎へ到達し、地面へと滴り落ちる。冷やりとした感覚が僕の心臓を襲う。
敵は逆手で同じように攻撃しようとしてくるが、僕は追撃が来る前に後ろへ飛び去り、回避する。
僕がいた場所にあった木が、根元から折れ真横へ吹っ飛んでいった。
「スゥー……はっ」
呼吸を整えるために大きく息を吸い、一気に吐き出す。右手に握っている白銀色の剣には魔力を通して、威力と強度を上げてある。
相対している敵は犬のような外見をしている。その体は漆黒の体毛に覆われ、二つの首と尾を持った魔物だ。体内の血液は溶岩のように熱い。燃える様な赤い四つの瞳は僕を捉え、二つの大きな口からは岩をも溶かす地獄の炎が、吐き出した呼吸と共に噴出している。
こいつの名前は『ヘルハウンド』。Aランクに認定されている魔物だ。頑丈で力強い体躯と燃え盛る業火の様な凶暴性を持ち、優れた嗅覚で獲物を捉える。
魔力感知によると、あと少しでベヒーモスのいる場所へ到着できる。そのためにはヘルハウンドを倒さなければならない。こいつはベヒーモスのすぐ傍にいた魔物で、僕がベヒーモスに近づくと『次々』に襲ってきた魔物の残りだ。
そう、次々に、だ。
他にも、岩をも喰らう亀ロックイーター、ウルフ達の王キングウルフ、荒野を駆ける怪鳥ワルダネスバード、オーガの上位種ハイオーガ等、Bランク以上の魔物が多くいた。このヘルハウンドが最後の一体だ。
ヘルハウンドが呼吸をする度にボッと、口から出る地獄の炎の音が聞こえる。
僕は右手に握っている剣を握り直し、右足を前に剣先を下に向け、ヘルハウンドに対して半身に構える。左手には魔力を煉り、いつでも魔法を放てるようにする。
ヘルハウンドも振り抜いた左前脚を地面へと下し、いつでも襲い掛かれるように軽く前体重となり、僕を睨み付ける。
夜の荒野に、僕が凍らせた場所から肌を震わせる冷たい風が吹き、荒野の砂や草木の擦れる音を立てて揺らす。月明かりが薄く照らす中、どちらが先に切り込むか、お互いに動かず構えている。
「グルルル……ッ、ガアアァッ」
痺れを切らしたのか、弱き者を竦ませる二重の咆哮とともに、力を溜めていた両の前足で思いっきり地を蹴った。先ほどの引っ掻きとは違い、地面に涎を撒き散らしながら二つの口を大きく開け、僕を食い殺さんとばかりに襲い掛かって来る。何もない荒野に響く大音量の雄叫びを上げながら迫り来る。十メートルほどの距離を一瞬で詰め、僕に噛み付く。
が、僕は既にそこにはおらず、ヘルハウンドの真横に移動していた。
距離が開いたことで前体重となったヘルハウンドが、次は飛び掛かって来るだろうと予想し、足に部分強化を施して避けられるようにしていた。突進の影響で強烈な追い風が巻き起こり飛ばされそうになるが、地面を踏み締めヘルハウンドへと接近する。
「……ハッ」
息を吐き出し、右手の剣でヘルハウンドの首を一つ切り落とす。魔力を通して強化された刃が首へと迫り、漆黒の毛で覆われた首の付け根に食い込み、岩を焼き尽くす血液が辺りに飛び散る。ゴトッ、という頭が落ちる音とグギャアア、という高い悲鳴がする。
僕はそこからさらに踏み込む。血に触れると火傷では済まないので、痛みによって仰け反った体の下へと入り込み、抜け駆けに胸を切り裂く。僕はすぐに体を反転させ、もう一つの首に狙いを定める。
ヘルハウンドは痛みを堪え低い唸り声を発し、怒りの炎と血を噴き出しながらこちらを向こうとする。
振り向き終わる前にヘルハウンドへと近づき、狙い定めた二つ目の首に剣を吸い込ませるように食い込ませる。先ほどと同じような落ちる音がする。
切り落とすと同時に後ろへと地を蹴って退避する。僕がいた場所には、頭のなくなったヘルハウンドの右前脚が振り下ろされていた。
魔物は生命力が高く、今回のように首を落しても一瞬だけ動くことがある。
ズダァーン
ヘルハウンドは立つ力を無くし、両の左脚の膝から崩れ落ち、横向きに倒れる。ピクリとも動かなくなったヘルハウンドの二つの首から先がなくなり、断末魔を上げることなく絶命した。
気が抜け、腰を下ろしてしまいそうになるがこれからベヒーモス戦が控えているため、気を持ち直す。僕は最後の一体を倒すことに成功し辺りを見渡すと、十体以上の魔物の死体が崩れ落ちていた。
ベヒーモスは何やら止まっているので、今のうちに少し休憩がてら倒した魔物を収納袋へ入れていく。触って入れる意思を持てば入るので楽に入れることが出来る。
首のないヘルハウンド、甲羅が割れているロックイーター、体半分が焦げているキングウルフ等五体満足な魔物は一体もいない。いつもならできるだけ傷が付かないように倒すが、今は非常事態なので仕方がない。
すべての魔物を入れ終えると傷を『ヒール』で癒して、すぐにベヒーモスの元へと向かう。
街から二キロ以上も離れてしまい、魔力感知ではどうなっているか確認が出来ない。誰も知らせに来ないため、おそらく無事なのだろう。
バーグさん達との話し合いで、緊急事態に陥った場合はすぐに連絡を取るようになっている。連絡がこないということは無事と思っていいはずだ。
ここから五百メートルほど離れた広い荒野の中心には、まだ小さいがここからでも体の大きさがよくわかる。近づくにつれ、ベヒーモスの身体がよりはっきりとわかって来る。
大きさは全長十メートルほどあるだろう。茶色い体に纏っている筋肉は、鋼鉄の鎧といわれても納得できてしまう。動くたびに筋肉が流動する。体には頭から巨大な尻尾の先にかけて鋭い棘が生え、頭の額には太く厳つい二本の長い角が上へ反るように生えている。鼻の先には鎌の刃の様な形の紫色の鉱物ができている。月の光が反射して綺麗な輝きを放ち、そこだけがより目立って見える。鉱物が何かよくわからないが、遠目に見てもとても硬そうな鉱物だ。
僕は天然の段差を飛び下り飛び越え、ベヒーモスへ近づいて行く。ここの足場は悪いが、ベヒーモスのいる場所は広く何も障害がないように見える。動きやすいが隠れる場所がないため、考えて戦わないといけないな。
ベヒーモスは空へ咆哮を上げている。息を吸い込みながら両前脚に体重と力を込めると、思いっきり後ろ体重となり上半身を上げて天に吼える。それを何度も繰り返しているようだ。
最後の断崖の上に立ち、魔力を煉り始める。剣には魔力を極限まで通す。
眼下に見えるベヒーモスは僕の存在に気が付いたようだ。咆哮をやめ僕の方へ振り向き、呻るように威嚇してくる。どうやら『かかってこい』と、挑発しているようだ。
準備の終えた僕は段差を飛び下り、着地する前に魔法を放つ。
「『風よ、切り刻め! ウインドキューブ』」
ベヒーモスへ狙いを定めて左手を開き、魔法を放つ。切り裂く風の刃がベヒーモスを取り囲み、風のドームを作り出す。
ベヒーモスは魔法を使われていることに気付き、魔法範囲から出ようと向かってくる。僕の左手が握られると同時に、囲んでいた風の刃が一斉にベヒーモスへと襲い掛かる。鉄をも切り裂く風が荒野の砂を巻き上げ、ベヒーモスの姿を隠す。
「……どうだ?」
数秒の静寂が訪れる。巻き上げられた砂は空中を彷徨い、拡散していく。
これで倒せたとは思っていない。体の硬度を確かめるために放った魔法だ。
「…………っ!」
「ゴォアアアァァァッ」
砂煙が完全に消え去る前にベヒーモスはその身に砂煙を纏いながら、怒りの咆哮を上げ突進してくる。頭を下げ、額に生えた二本の長い角を突き出している。
風を身に纏い着地すると、すぐに横へと移動しギリギリで回避する。少し服が掠り、体ごと持っていかれそうになった。前もって分かっていたことだが、聞くと相対するとでは全く違う。服が引っ掛かった時はヒヤリとした。ベヒーモスのスピードはそれほど速くないようだが、持っているパワーは今まで相対してきたどの魔物よりも群を抜いている。
砂煙が晴れてくる。僕の後ろにあった断崖へ突っ込んだベヒーモスの頭の角は、根元まで突き刺さっている。これで、角でも折れていればいいのだが……。体の方へ目を向けると、その巨大な体には先ほどの魔法の傷が一切見られない。こいつの身体は鋼鉄並というのは本当みたいだな。
今のうちに攻撃しようと足に力を込めるが、ベヒーモスは突き刺さった角を力任せに引き抜き、再度こちらに向き直る。断崖には二つの大きな穴が深々と空き、力任せに抜かれた拍子に全体が揺れ、細かな石や砂が音を立てて零れ落ちる。
こちらへ狙いを定めたベヒーモスは角を突き出し、両の前脚に力を籠め、体重を乗せている。再度こちらへ突っ込んでくるつもりだろう。
「ゴォアアアァァァッ」
予想した通り、ベヒーモスは大きな四本の足で地面を踏み締めながら突っ込んでくる。踏み締める度に僕の足の裏から振動が伝わってくる。
先ほどとは違い、今回は不意を突かれていない。早めに足を強化し、真横へと避ける。すぐに目を向け、勢いを殺そうと足で踏ん張っている最中のベヒーモスの後ろ脚へ突っ込んでいく。極限まで強化した剣を両手で振り上げ、右上から左下へ斬り付ける。全体重と走る勢いも上乗せする。
ガキンッ グシュ
斬り付けた後ろ足から甲高い音と、硬い感触が両手に伝わってくる。少し拮抗した後、硬い皮膚を切り裂き、下に纏っている自然の鎧に到達し、太いいくつもの筋を断ち切る。 浅くだが傷をつけることが出来たみたいだ。切り裂いた場所からは、血が溢れるように滴り落ちてくる。
が、すぐに塞がってしまう。よく見ると回復したわけではなく、怒りと筋肉の膨張により止血したようだ。
「ガアアアアァ!」
ベヒーモスは怒りの咆哮を上げる。自慢の硬い皮膚に傷を付けられたことで、怒り心頭のようだ。怒りで先ほどよりも速く体の向きを変え、右前脚で振り払おうとしてくる。
「速いっ!『浮かせ! フライ』」
迫り来る右脚を後方へ躱しながら魔法を唱え、空へ飛びあがる。魔法の効果で僕の身体を風が纏い、空へ浮かび上がらせる。自由自在とは言えないが、この魔法は使用者の体を浮かすことが出来る魔法だ。
振り払われた右脚で起きた強烈な風が、浮いている僕を吹き飛ばす。目を細め、両腕を顔の前にクロスさせて防御の姿勢に入る。風圧で体が仰け反りそうになるが、体をくの字に曲げ凌ぎ切る。止まった時には十数メートル離れていた。
腕の一振りでこの威力。もしこれで、ロロと同じように風魔法が行使できたら、僕は切り刻まれていたな。そう思うと、冷汗が吹き出し頬を伝って顎へと到達する。手の甲で汗を拭い払う。
鋼鉄の皮膚と硬質な筋肉が突進の衝撃や剣と魔法から身を守る。遠距離の突進、近距離の振り払い。それに陸地対決ではこちらに分がない。
ベヒーモスからさらに離れ、攻撃が届かない位置で浮かび上がるのをやめ、体を停止させる。ベヒーモスは浮かび上がった僕のことを睨み付けるように見ている。
「ここなら届かないようだな」
僕の呟きが聞こえたのか、ベヒーモスは頭を振りグルルと、歯を剥き出して唸る。攻撃手段がないようだと判断し、僕は陸地戦から空中戦へと変える。そして、剣を鞘へと戻し剣主体から魔法主体へと変更する。極限まで強化した剣なら傷を付けることが出来るが、時間が掛かり過ぎてしまう。この後はガラリアも控えているから、こんなところで時間をかけるわけにはいかない。
だけど、どうやって倒せばいい……。生半可なこうげきでは刃が通らない。体が硬すぎるんだ。あいつの身体は一体何でできているんだ?
僕が考え事をしている間にベヒーモスが動き始めたようだ。少し下がる仕草をすると、頭を下げ角を地面へと突き刺した。
ん? 何をするつもりだ?
僕はベヒーモスが何をしたいのか分からず、考えるのを中断する。ベヒーモスは突き刺した角から魔法を放ち、地面を一部固定しているようだ。恐らく、地魔法の拘束だろう。固定化が終わると地面に罅が入るほど踏み締め、地面を持ち上げようとする。
……まさか、飛ばす気かっ!。
「グゥゥ、ガアアアアァァァァッ」
ミシッ、ピシッ ボッゴオオォン
ベヒーモスは踏ん張る掛け声を上げると、地面に亀裂が走る音が聞こえてきた。その音が大きくなると轟く雄叫びを上げて、固定化した十メートルほどの地面が、切り離される鈍い音と共に角で抜き取られ、僕の浮かんでいる空中へ放り投げてきた。
「――っ⁉」
僕は慌てて上空から逃げようとするが一歩遅く、直撃は免れたものの欠片に被弾し、墜落する。地面へあたる前に風魔法で『エアクッション』、緩衝材を作り、激突だけは回避できた。コートには小さな穴がいくつも空き、修理しなくてはいけなくなった。
ベヒーモスを見ると角をこちらに向け突進の態勢になっていた。僕は急いで風魔法で移動する。『フライ』の応用で『クイックムーブ』といい、動く速さを上げる魔法だ。
回避するとすぐにベヒーモスが突進してくる。突進は一直線にしか移動ができないみたいだ。そう思い、距離を取ろうと下がろうとするが、
シュッ ズガンッ
「――っ、ぐがっ、ゲホッ、ガハッ」
真横から攻撃を食らってしまった。硬く撓る鞭のようなものが肩へとあたり、地面へ叩き付けられた。肺の中の空気が全て吐き出され、呼吸が苦しくなる。咳と一緒に血がビチャと、地面に飛び散る。口の中に血の味が広がり、鼻から鉄の匂いがする。切れたか吐血のどちらかだろう。もしかすると両方。
何が起きたのか分からず、混乱する頭で辺りを見渡すと、頭上に鋭い棘がいくつも生えた尻尾があった。そのまま狙いを付けて突き出してくる。
咄嗟に体を回転させ躱す。すぐ横でドスッと、音が聞こえる。尻尾はすぐに引かれ、また突き出してくる。痛む体を無理やり起こし、後方へ飛び下がる。
尻尾を振っているベヒーモスは僕を嘲笑うかのようにグルルと、声を上げる。
「くそっ」
僕は体の痛む場所を『ヒール』で回復させながら悪態をつく。コートが身を守ってくれたため外傷は少ないが、体の中は反動で骨に罅が入っていた。
ベヒーモスは再び突進の準備をする。僕はそれならと足に魔力を練り、魔法を放つ。
「『地よ、崩れ去れ! アースインパクト』」
右脚を胸元まで持ち上げ、霞んで見えるほどの速度で打ち下ろす。地面が揺れ、地割れが起き、地が隆起・沈降する。ベヒーモスは突進の最中にバランスを崩し、横転する。立ち上がろうとするが、足場が悪くなり上手く立てないようだ。
この魔法は震脚に似ている魔法だ。魔力を込めた脚で地面を踏み鳴らすことで、地面に魔力を通して小規模地殻変動を起こさせる。
これで空に浮かんでも大丈夫だろう。未だに立ち上がれずもがいているベヒーモスを眺めながら、僕は『フライ』で上空へ浮かび上がる。
「ガッ……グウゥ」
ベヒーモスは苛立ちの咆哮を上げているが、足場が悪く咆哮さえも上手く発することが出来ない。今のうちに打開策を思いつかなくては。
ベヒーモスの身体は月明かりで照らされ、はっきりとみることが出来る。硬い皮膚は光を反射し、眩いばかりに光っている。皮膚にしては光を反射し過ぎているように見えるな。切った感触では硬い皮膚というよりは、金属を切っているようだったな。音も甲高い音がしていたはず……。鼻先にあるものは鉱物のように見えた。……もしかすると、体は金属か鉱物が混じっているのかもしれない。確かめてみるか……。
左手の手のひらを向け魔力を練り、魔法を放つ。
「『風よ、打ち砕け! エアハンマー』」
放つ瞬間に左手を握りベヒーモスに向けて振り下ろす。上空の大気が塊となりドゴンッと、いう音と共にベヒーモスを地面へと押し潰す。荒れていた地面は大気の塊を叩き付けたことで岩が飛び散り、下敷きになった岩は粉々になる。模擬戦やビッグホーン戦で行使したものより、威力が高い。クレーターの中心でベヒーモスはガッ、と鳴き声を漏らすが潰されていないようだ。ならば、とベヒーモスを中心に手を組み合わせ、さらなる魔法を放つ。
「『水よ、包み込め! ウォーターロック』」
『エアハンマー』の影響で地面が安定したようだ。起き上がろうと四肢に力を込めたベヒーモスの周りに突如、大水が集まり始め数百キロはあるベヒーモスの巨体を浮かばせる。水は球体状に変化し、中で暴れるベヒーモスを閉じ込め続けている。ガボ、ガボと鈍った声が聞こえる。
僕の攻撃はまだ続く。このままあと数分もすれば溺死で倒せるだろうが、魔力が減り過ぎてこの後に支障が出てしまう。
金属には電気だよね。両手に魔力を煉り上げ空に翳す。
「『怒り狂う雷よ、天から降り注ぎ、我が敵に裁きを与えよ! ライトニングボルト』」
バリッ ズガアアアァァァァァーッン
両手を振り下ろし魔法を放つと、雲の一つない空が発光し、一瞬辺りを照らす。何かが破裂する音がすると、天から極太の一条の雷が轟音と共に、閉じ込められているベヒーモスへ降る。雷はベヒーモスの体を貫通すると、地面へと落ち破壊音を轟かせる。土を巻き上げ、岩を浮かび上がらせ、地盤を引っ繰り返す。クレーターの中心には底の見えない穴が開いていた。
雷に貫かれたベヒーモスは体を痙攣させている。水の牢の維持をやめ、ベヒーモスを墜落させる。大量の水が辺りを濡らす。荒野の乾いた土や岩は水を吸い、色を濃くする。
ベヒーモスの身体は所々赤熱し、オレンジ色になっている。光を反射していない個所は焦げているのだろう。ここまで焦げた匂いが漂ってくる。ジューッと、水が蒸発する音が静かな荒野に響く。
ベヒーモスは痙攣が収まってきたようでゆっくりと立ち上がろうとするが、脚がふらつき座ってしまう。
僕はゆっくりとベヒーモスの近くへ浮かんでいき、背中の剣に手をかける。ベヒーモスは悔しげにグウゥと、鳴くがその声は弱々しい。もう声を発する力もないようだ。
「ベヒーモス、これで最後だ。『雷よ、纏え!』」
剣に稲妻が落ち、雷の刀身を作り出す。両手で剣を握り、右の腰に剣先をベヒーモスの心臓に向け構える。この構えは突きの体勢だ。ベヒーモスは己の死を悟り、身動きをせずに佇んでいる。
僕は風魔法で空を滑り、ベヒーモスの身体へ剣を差し込む。雷を纏った剣は焦げて硬度が低くなった皮膚を易々と貫き、心臓へと届く。
「ゴオオォアアアァァァァー…………」
ベヒーモスは最後の力を振り絞り、どこまでも響き渡る咆哮を上げる。声が次第に小さくなり、聞こえなくなる。剣から感じるベヒーモスの力がなくなり、その命が尽きたことが分かった。
僕は剣に纏わせた魔法を消し、上空から地面へ降り立つ。剣を浄化魔法で血を取り去り、背中の鞘へ戻す。治しきれなかった傷を『ヒール』で癒し、ベヒーモスを収納する。
これでソドムの街の脅威はなくなっただろう。残りの魔物はBランク以下だ。Aランクのほとんどがベヒーモスの近くいたため、僕が倒した。
(バーグンさん、今大丈夫ですか?)
この後は一度ソドムの街へ戻り、バーグンさんと合流する手筈となっている。
(シュン坊か! こっちは大丈夫じゃ。そっちは何かあったのか? こちらまで咆哮が聞こえてきたぞい)
バーグンさん焦ったように応答する。
最後の咆哮は街まで聞こえてきたようだ。
(先ほどベヒーモスを倒し終わりました。すぐに街へと戻ります)
(わかった。儂もすぐに戻ろう)
(そちらは大丈夫なのですか?)
(先ほどの咆哮を聞いて魔物のほとんどが森の方へ逃げて行きよったわい)
(わかりました。それでは、会議室で合流しましょう)
(了解じゃ)
会話が終わると念話を切り、『フライ』で体を浮かせて、断崖の上へ降り立ち、街に向けて走り出す。
魔物との接触が始まっておよそ一時間が経った。
僕の残量魔力はあと半分といったところだ。回復量は多いと言っても、すぐには回復しない。とりあえず、魔力の回復に専念しながら街へ帰るしかない。
全身の身体強化を切り、脚だけの強化に変更する。バーグンさんが言っていたように、数体の魔物がこちらに向かってきているようだ。魔力感知を行い、魔物を避けて町へ戻る。
魔力感知の範囲に人の反応が出始めてきた。そろそろ森を抜け、街に着く。
森を抜けると少し融け始めた地面に出た。ここは僕が凍らせたところだ。滑りそうになるが、うまくバランスを取る。ちらほら冒険者が魔物と闘っていたり、手当てを受けていたりする。
僕は見つからないようにコートの能力を強くし、街に向けて走り抜ける。
見えていた街の明かりが大きくなる。外壁は初めて見た時よりも崩れ、壊れかけていたが街の中は無事のように見える。何とか、街の外で食い止めることが出来たみたいだな。
氷の地面も終わり、街の門へと辿り着く。このまま入っていいのか戸惑ってしまうが、誰もいないので「失礼します」と言って入る。そのまま大通りを通り、冒険者ギルドの会議室へ急ぐ。
ある程度魔物が駆逐されたことで安心したのか、街の住民や冒険者達が隅へ座り眠りこけていたり、笑いながら傷を指差し、勲章だと言っているのが聞こえる。
僕は自然と笑みが零れる。
冒険者ギルドの中は怪我人で溢れていた。いつも設置されている椅子とテーブルが除けられ、広くなっている。広くなった場所へ怪我人を寝かせ、回復魔法やポーションで癒しているようだ。呻き声が聞こえるが命に別状はないように見えるから大丈夫だな。
階段を上り、会議室へノックをして入る。中にはキャリーさんとバーグンさんがいた。
「シュンくん、ご苦労様でした」
キャリーさんが労いの言葉をかけてきた。
「ベヒーモスは倒したんじゃな?」
バーグンさんが近づきながら聞いてきた。
「はい、何とか倒すことが出来ました。大きすぎてここには出せそうにないです」
「いやいいんじゃ。咆哮を聞き、魔物共が逃げていったのが何よりもの証拠じゃろう」
僕が証拠は出せないと言うと、バーグンさんは笑顔で僕の肩を叩きながら、気にせんでいいと言ってくれた。
「ソドムはどうにか守りきることが出来た。あとは我々だけでも大丈夫じゃ」
「わかりました。他の街の状況はどうですか?」
僕の質問に二人は表情を引き締める。
「どの街も同時刻に魔物が攻めてきたようじゃ。魔物の種類はその地域で異なっておる。カンテとセリオルはソドムと違い、Sランクパーティーが滞在しておったそうじゃ。未だにSランクの魔物が倒せたという情報は入っておらんが、どうにかなるどうじゃな」
バーグンさんが簡潔にまとめて言う。
「ですが、ガラリアに来ている魔物は三つに分かれているみたいですね。最初に第一波の五千体が押し寄せてきたそうです。その中にSランクの魔物はいなかったようですが、Aランクの魔物が五百体はいたと言っていました」
キャリーさんが厳しそうに言うと、この場の空気が重くなった気がする。
キャリーさんが続けて言う。
「第一波を食い止めることはできたようですが、集まっていた冒険者達の半分以上が戦線離脱となりました。次に襲ってくる魔物は同じく五千体だと確認されています。その中にSランクが混じっているそうです。詳しいことはガラリアに行かなければわかりません」
キャリーさんの声には怒りとも絶望とも取れる感情が籠っている。
五千体の中にSランクが混じっている。それを防ぎ切っても、まだ一万体以上が残っているのか。これは想像以上にきついかもしれない。
「わかりました。それでは、すぐにガラリアへ行きましょう」
「シュンくん、本当にできるのですか?」
「はい、できますよ。魔力もある程度は回復しましたから、ガラリアまでなら余裕で足りるでしょうし」
「わかりました。これをギルマスへ渡してください。こちらの経緯が書かれています」
キャリーさんは半分に折られた和紙の様な紙を手渡してきた。
「シュン坊」
バーグンさんが僕を呼ぶ。話し合いの最中に仲良くなり、バーグンさんは僕のことを『シュン坊』と呼ぶようになった。
「なんですか? バーグンさん」
「これを持っていけ」
そう言って、紫色の液体の入った瓶を投げ渡してきた。
僕は胸元で上手く掴み取る。瓶の中からはすごい量の魔力を感じる。
「それは魔力回復薬じゃ。それを飲むだけで魔力を回復してくれる」
瓶を指さしながら説明する。
「貰ってもいいんですか? これ高いんじゃ……」
「いいんじゃ。儂からはこれぐらいしかしてやれんからのう。もうここには必要ないと思うしのう。それに高いと言っても小金貨五枚ぐらいじゃ」
「小金貨五枚ですか……」
一瓶、五十万円の飲物。そんなもの初めて見たよ。
「何を言っておるんじゃ。お前さんなら一つの依頼をこなせばすぐに買えるぞい」
バーグンさんが呆れたように言う。Cランクの依頼は大体、中金貨がもらえるぐらいだったっけ。
「わかりました。有難く使わせてもらいます」
僕はそう言って、瓶のふたを開け中の液体を飲む。口に含んだ瞬間、苦味が広がり吐き出しそうになる。液体は少しドロッとしていて飲みにくい。携帯食料の方がまだ、食べやすいと思う。
「回復してくれるのはいいんじゃが、途轍もなくまずくてのう。それは」
バーグンさんはしてやったりという顔で言う。
飲み込んだ瞬間に体に吸収される感覚が広がり、僕の魔力が回復しているようだった。
「これはすごいですね。味が良ければ、何も言うことはないですね」
「それでは準備はいいですね?」
魔力の回復に感心しているとキャリーさんが準備が整ったか聞いてきた。
「はい、それではバーグンさんこれで失礼します。あの五人のことをよろしくお願いします」
「任せろ。お主達も頑張るんじゃぞ。できるだけ早く応援に行けるようにする、それまで死ぬんじゃないぞい」
「シュンくん、ガラリアを頼みます」
僕は二人に頭を下げ、試験で一緒だった五人のことを頼む。バーグンさんは助力をすると誓ってくれた。キャリーさんには頼まれてしまった。
「それでは行きます。『我の場所を移せ! 転移』」
片手を上げ、魔法を唱えると白い光に包まれた。光は一気に強くなり、ひときわ強く光ると光は消えた。
そこには僕の姿がなくなっていた。




