第3話『花と告白と、偽りの涙』
お読みいただきありがとうございます。
第3話の舞台は、冬でも春の顔をした温室で行われる学園行事「告白の日」。
花・涙・香り・温度が交差する“甘い舞台”で、アメリアはいつも通り礼儀と観察だけで真相に触れます。魔法は出ません。
読む前の小さなヒントを三つ——
氷室と結露:冷やされたものは、乾き方に嘘がつけません。
香る涙:涙は本来、香らない。香りが残るなら、それは道具。
白い花と白い乳液:花そのものの毒ではなく、“別の花の手”が白に紛れます。
第1・2話を読まずとも楽しめる作りですが、アメリアの皮肉と王太子の“学習曲線”が見えてきますので、既読だと味が深まります。
それでは、紅茶を片手に温室へどうぞ。
王立エルム学園の温室は、冬でも春の顔をしている。
薔薇の列はきちんと背丈を揃え、ガラス越しの陽が、花弁の縁に砂糖をまぶしたみたいな光を置いていく。
今日の行事は「告白の日」。毎年、学生たちが花と言葉で小さな戦争をしかける、平和的な流血沙汰だ。
◇
昼下がり、私と殿下は温室の中央通路を歩いていた。
「学園は、恋の実験にまで公式行事を与えるのね」
「……教育だそうだ」殿下は肩をすくめる。「言葉の温度を測る訓練になるとか」
「温度計なら私が貸しますのに」
白布のテーブルが一列に並び、各自が選んだ花束とカードを置く。
ルールは単純だ。
贈る者は花を手渡し、受ける者は言葉を返す。涙は自由、毒は不可。
不可の方は、毎年、守られたり守られなかったりする。
「殿下、あの列をご覧になって」
私は扇子で示した。群衆の視線が一点に向かっている。
そこには、楽団科の人気者オリヴァーと、学科主席の令嬢カトリーヌ・ラングレー。
そして、二人の間に割って入るかのように、鮮やかな紫の花束を抱えた娘がいた。ヴィオラ・リード。
——名前からして音が強い。響きは強いほど、嫉妬もよく響く。
「では、始めましょう」司会役の教師が声を張る。
最初に歩み出たのはヴィオラだ。
「オリヴァー様。あなたの音は冬の陽です。わたくしの花は、その陽に正直でありたい」
紫の花束が差し出される。艶々とした花弁の縁に、微かな湿りがある。
——温室なのに、冷たさが残っているのはどうしてかしら。
続いて、オリヴァーの視線がカトリーヌへ向く。
彼は白い薔薇を一輪、控えめに持っていた。
カトリーヌは涼やかに微笑む。学年随一の礼儀を纏った微笑みで、少しだけ勝利の香りがした。
次の瞬間、カトリーヌが小さく悲鳴を上げた。
「熱っ……!」
彼女は手を引き、目元を押さえる。涙が一筋、頬を走って、光った。
遅れて、手の甲に赤い斑点が浮かぶ。周囲がざわめく。
「まさか、花に——」
「毒ですって?」
噂はいつも、空気より軽い。
「医務室!」教師が叫ぶ。
殿下が反射で動く。「道を開けろ!」
私はといえば、カトリーヌの頬の涙を見ていた。
涙は塩辛い。けれど、光り方には塩以外のものが混じるときがある。
舞台役者たちがよく使う、“便利な涙”。粘りがわずかに長いのだ。
「アメリア様、近づかないで!」
ヴィオラが一歩、私を遮るように出た。目尻が赤い。
「あなた、何を——」
「観察ですわ」私は微笑む。「それとも、ここは涙の専売所かしら」
ヴィオラの腕に抱かれた花束へ、視線を落とす。
葉の縁に、細い線傷が規則的に走っている。
切り口の断面は新しく、なのに茎がひんやり。
温室の花が、今この場で切られたのではない。
——どこかで冷やされてから運ばれた。
「触らないでください!」
ヴィオラが強く言う。
強い声には、たいてい強すぎる理由がいる。
私は手を引っ込め、代わりにテーブルのリボンを摘んだ。
結び目が湿っている。結んだ手は冷たい荷を扱っていたのだろう。
◇
医務員が駆け寄り、カトリーヌを別室へ。
殿下は教師と手短に言葉を交わし、私を見る。「アメリア、状況は?」
「花は冷たく、涙は温かい。順番が逆ですの」
「意味が分からん」
「後で分かりますわ。今は——手と時間と温度を確かめたい」
私は給仕に頼み、手洗い用の水盆と白い布を用意させる。
「ヴィオラ様、手を拭いていただける?」
「……なぜ」
「花に触れたのはその手。温度と香りは、よくものを語るのです」
渋々差し出された指先は、爪の際まで美しく整えられていた。
布で拭うと、淡い香りが立つ。甘いようで、どこか粘る香。
「香水?」
「ええ。わたくしの——」
「目元にも同じ香りがしますわ」
ヴィオラの瞼に、ほんのり光の帯。涙の線と重なっている。
涙は普通、香らない。香る涙は道具だ。
「わ、わたくしは彼女を——ただ、心配で」
「心配は結構。けれど、涙を用意するのは、礼儀の科目ではありませんわ」
◇
控室。医務員が診るカトリーヌは、瞼が赤く、手の斑点はひどくはない。
「刺激性の樹液が付いたのでしょう。痛みはすぐ引くはずです」
侍医はそう言って、冷湿布を当てる。
私は頷き、カトリーヌの手元を見た。白い手巾に、薄く甘い香りが残っている。
涙で濡れた手巾にしては、乾きが遅い。
「アメリア……」殿下が小声で問う。「これは、事件か?」
「事件は、しばしば思わせぶりでできていますの」
「つまり?」
「つまり、“泣ける劇”を誰かが上演した。観客に殿下を含めるために」
殿下が眉を寄せる。「また私を?」
「権威は、涙に弱いのですわ」
私は扇子を閉じ、視線を落とす。
テーブルの脚元、落ちたリボンの端に、微かな白い結晶がついていた。
冷たい空気が触れていた場所に、よくできる乾き方。
……冷やした花束は、結露を連れてくる。
◇
温室へ戻ると、人の波の端が揺れていた。
白い外套がひとつ、花の陰で足早に消える。
彼女(と私が呼びたくなる誰か)は、いつだってタイミングに礼儀正しい。
「アメリア様!」
ヴィオラが呼び止める。目を赤くして、私を睨んだ。
「あなた、わたくしを疑っているの?」
「いいえ。疑っているのは段取りですの」
「段取り?」
「花を冷やした手。涙を用意した手。——そして、告白を、誰に見せたかった手」
彼女の喉が小さく動く。
群衆はそれを見逃さない。温室の空気に、期待が混ざる。
期待は劇を長引かせる。推理は短く終える方が風味がいいのに。
「殿下」私は静かに言う。「温室の保管棚と氷室、それから花束の出納簿を」
「分かった」
「それから、告白カードのインクを見たいの。涙で滲んだはずの字が、滲んでいないところがあるでしょう?」
殿下は目を瞬いた。「どういう意味だ」
「意味は単純ですわ。涙の方が嘘なのか、言葉の方が嘘なのか。どちらか、あるいは両方」
私は微笑む。「どちらにせよ、甘い香りが一度に漂う劇は、胃にもたれますの」
温室の天窓から陽が傾き、花弁に長い影が伸びる。
告白も涙も、よくできた舞台装置。
けれど装置は、温度と順番に正直だ。
私はそれを、嫌いではない。
◇
温室の奥、栽培管理室は小さな書庫のように整っていた。棚には剪定ばさみ、保冷箱、手袋、そして出納簿。花は美しいが、管理は数と温度でできている。
◇
「保冷箱の貸し出し記録を拝見しますわ」
管理係が帳面を差し出す。
今朝——ヴィオラ・リード、一台。返却は式の直前印。
その下に、オリヴァーの名はない。彼は準備台で花を手入れしただけだ。
「氷室の鍵は?」
「行事当日は管理室で一時開放に……でも、入ったのは二名だけです。ヴィオラ嬢と、補助の給仕」
「ふむ。花を“長持ち”させるつもりなら俎上。冷やされた花束は、結露を連れて帰りますの」
私は扇子で、先ほど拾った湿ったリボンの端を示す。白い乾きの結晶が、光に細く返った。
「塩?」殿下が問う。
「いいえ、結露跡に付きやすい微粉。花粉と埃が抱えた水分が、冷温差で白く残る。氷室帰りの合図ですわ」
◇
準備台へ移動。
テーブルの上には、各自の花束に添える告白カード。
私はインク壺とカードを手に取り、光に透かす。
オリヴァーの筆跡は真っ直ぐだ。
——けれど、滲みがない。式の最中、涙がこぼれたというのに。
「殿下、水を一滴」
私は予備のカードに同じインクで一行を書き、給仕に清水を落とさせた。線が柔らかく広がる。
「普通の涙なら、これくらい滲む。けれど本番のカードは無傷——つまり、涙はカードに落ちていない」
「では、涙は……」
「人に向けて見せられた。舞台の照明に。観客に」
殿下は複雑な顔でうなずく。「誰の涙だ」
「少なくとも、二人。ヴィオラの目元からは甘い粘香。そしてカトリーヌの手巾にも同じ匂い。舞台の涙は、乾きが遅いので香りが残りますの」
香る涙と、冷たい花。
砂糖と氷で飾った台詞。
演出の意志が、温室の湿度より濃い。
◇
私は白薔薇の茎をそっと持ち、萼の縁を観察する。
光沢の上に、乾いた薄白。
爪先で触れると、薄膜が剥がれて爪に張りつく。
そして——指にピリリとした違和感。
舌先にまで伝わる、鈍い苦味。
「侍医、こちらを」
侍医が綿棒で採り、試薬瓶に落とす。液が乳白に濁った。
「乳液性樹液……トウダイグサ科の可能性が高い。眼・皮膚を強く刺激します」
「温室には?」
管理係が青ざめる。「花キリン(ユーフォルビア・ミリ)があります。棘のある鉢です。……誰かが触れたなら、乳液が出ます」
私は頷いた。
白薔薇の萼に、ユーフォルビアの乳液。
“花の毒”ではない。別の花の手が、白に紛れて刺を仕込む。
◇
関係者を短く並べて聞く。
——オリヴァー:準備台で薔薇の棘を落とした。他人の束には触れていない。
——ヴィオラ:花を氷室で“傷まないように”冷やし、式直前に結び直した。
——給仕:準備台の配置替えを依頼された。誰に?「ヴィオラ様に“こちらの方が映えますから”と」
——カトリーヌ:涙の準備は「礼儀」。告白にふさわしい返礼の作法、と。
私はテーブルに手を置き、距離と順番を並べ替える。
「薔薇——準備台——ヴィオラの導線——結び直し——本番。
乳液は無色、冷えた花束は結露で広がる。手の汗で溶け、瞼や指を刺す」
「つまり、ヴィオラが?」
殿下の声は慎重だ。
「断罪はいたしません。確認を」
◇
私は管理室から綿手袋を取り、ヴィオラに差し出した。
「少し試させていただける?」
「い、いやです。わたくしは犯人では——」
「樹液が付着していないなら、何も起きません。あなたの花束の葉の縁を、この白布でさっと撫でて」
彼女は逡巡し、しぶしぶ従った。
白布の一隅が曇る。
香りは甘い粘香ではなく、青臭い刺激。
侍医が滴下した試薬が、同じく乳白に濁った。
「温室のユーフォルビアに触れた直後でなければ、こうは濁りません」侍医。
「結び直しのとき、別鉢に触れましたね」私。
「……葉がはみ出していたから、整えただけで……!」
「整えた指で白薔薇の萼にも触れた。あるいは意図して。あなたの涙は「演出」。彼女の涙は「事故」。
事故に見せる演出ほど、舞台映えするものはありませんわ」
ヴィオラの唇が震え、握った指が白くなる。
殿下が低く息を吸った。「動機は——嫉妬か」
「それに、順番。告白の先手を奪いたかった。“あの人を守る”という台詞の、観客と王太子の前取り」
温室の空気が重くなる。
人は、恋の温度に甘く、段取りに残酷だ。
◇
「……違う、違うのよ」
ヴィオラが顔を上げる。瞳が潤む——香る涙だ。
「わたくしは、オリヴァー様が軽く扱われるのが嫌だっただけ。カトリーヌはいつも勝つ。言葉も、礼儀も。だから、少しだけ負ける日があってもいいと——」
「少しだけ、は毒の危険な単位ですわ」
私は静かに遮る。「匙加減を誤れば、舞台は悲劇に変わる」
殿下が衛兵に目配せをした。「ヴィオラ・リード、同行して事情を——」
そのとき、温室の入口で小さな悲鳴。
給仕が駆け込む。「氷室の鍵が見当たりません! さっきの場所に——」
私は肩をすくめた。
「鍵、ですって。学園は鍵が好きですこと。“紛失”は、舞台の呼び水」
「またか……」殿下が頭を押さえる。
「ええ。けれど、今回は“誰かに入らせない”というより、“何かを取りに行った”合図でしょうね」
私は視線を温室の扉に滑らせた。人の波の端——白い外套がふっと折れる。
足取りは均一、等間隔。
彼女はいつも、度が過ぎない。舞台を倒さない匙加減をわきまえている。
◇
私は扇子を閉じる。
「殿下、氷室へ。ユーフォルビアの鉢が一つ、不自然に移動しているはず。そして、涙の小瓶がもう一本」
「小瓶?」
「舞台の涙は道具袋に二本。一つは観客へ、一つは自分へ。演者が三人なら、三本。——温室の芝居は、必要数で動きますの」
殿下は頷き、短く命じた。
「氷室と管理室を封鎖! 全員その場から動くな!」
ガラス越しの陽が薄くなり、花の影が長く伸びる。
告白は香りを強くし、嘘は温度を失う。
舞台は整った。
次は、台詞を返す番だ。
◇
氷室の扉は、胃袋の神経に似て繊細だ。開けると空気が縮み、閉めると音もなく腹の底へ冷たさが落ちる。
中は白い吐息で曇り、棚に保冷箱が三つ並んでいた。ひとつは水滴が均一、ひとつは乾きかけ、最後のひとつは——拭ったばかりのまだら。
◇
「記録では、箱は一台貸出」管理係が震え声で言う。
「では、残り二つの“手”は誰のものかしら」
私は箱の縁を布でなぞり、指先の白い粉と冷凝水を見比べた。粉は結露の塩ではない。花粉と埃が抱いた水跡だ。
棚の下には土粒が小さく散っている。氷室に土は本来入らない。鉢を一度、置いたのだ。
「ユーフォルビアの鉢が、ここに?」殿下が目を丸くする。
「萼に樹液を移す中継台。冷やしておけば乳液はすぐ固まらず、本番で“刺す”」
私は棚の隅に転がる木製楔を拾った。花鉢の底をわずかに浮かせ、滴を受けるのに使う小道具だ。面には乳白の筋が残っている。
——几帳面な手は、美術を欠かさない。
「それから鍵」私は扉の内側を示した。「藍色の繊維が挟まっておりますわ」
殿下が首を傾げる。「コート地か?」
「ええ。氷室で震えない者は、準備の温度を知っている。——さて、“誰が”ここまで芸が細かいのか」
◇
温室へ戻ると、人の列は正面を避けて斜めに展開していた。ヴィオラが立つ位置から、オリヴァーとカトリーヌが同じ視野に入る。
視線の舞台設計は、証拠と同じくらい雄弁だ。
「順番を並べ直しましょう」
私は控え台の上に小さな図を描く。
一、ヴィオラ、氷室で白薔薇の束を冷やす。
二、ユーフォルビア鉢を一瞬入れ、萼に乳液を移す(中継:木楔)。
三、戻る途中、結露の粒がリボンを濡らす。
四、式直前、給仕に“映える配置”を指示し、観客の視線を固定。
五、ヴィオラ、自身の目元に舞台の涙。
六、白薔薇が触れた僅かな刺激で、カトリーヌは反射的に涙。
七、観客は“二重の涙”を見て、物語を選ぶ。
「……そんなつもりでは」ヴィオラの声が擦れる。
「“少しだけ負ける日を”——そう仰いましたね。少しは、舞台では十分ですわ」
侍医が手巾を嗅ぎ、「甘い粘香」を肯定する。管理係は青ざめて頷く。「ユーフォルビアの鉢、ひとつ位置がずれていました……」
殿下が低く言う。「ヴィオラ・リード、弁明は?」
彼女は唇を噛み、視線を落とした。綿手袋の上で、等間隔に指が震える。
震えの整い方が、几帳面の習い性だ。
◇
私は最後のひと押しに、告白カードを取り上げた。
「カトリーヌ嬢、あなたの返礼カード。“涙”で濡れたはずが滲んでいない。代わりに香りが残る。舞台の涙は油分を含みます。紙は守るが、鼻は誤魔化せない」
カトリーヌは静かに頷いた。「礼儀の“返礼”として、舞台の涙をひと滴。受け取りの儀にふさわしいしつらえだと思いましたの」
「ならば、あなたの涙は計算、ヴィオラの涙は演出、そして事故の涙が物語になって、観客が拍手する。
——誰が一番得をするか、お分かりかしら」
沈黙が一段深くなる。
恋の舞台は、いつだって主演が多すぎる。
◇
そのとき、氷室から衛兵が駆け戻った。「報告! 小瓶が一本、棚の裏で見つかりました。栓に柑橘の油の匂い。ラベル無し」
私は扇子を半ばで止める。
レモン。渋みをやわらげ、匂いで痕跡を上書きする香。
瓶の外側には、細い等間隔の指跡。冷えたガラスを扱い慣れた均整の手。
「つまり、氷室にもう一人入った」殿下が眉を寄せる。
「ええ。目的は“証拠の整理”。過剰な劇が悲劇に倒れないよう、温度を戻しに来る手がある」
白い外套の裾が、視界の端をかすめる。
——彼女はいつも、度を越さない。舞台を壊さない匙加減だけは、完璧。
◇
「断罪は監察室で」私は静かに向き直る。「ヴィオラ・リード。あなたの行いは故意の危険行為。学則に基づき、一時拘束が妥当ですわ」
殿下が頷き、衛兵が動く。
ヴィオラは一歩、私の方へ滲み寄った。
「……どうして、そんなに冷たいの」
「熱さは紅茶と舞台に。冷たさは調査に使うものですわ」
彼女は唇を噛み、視線を落とす。その頬に、今度は無香の涙が一粒。
遅すぎる涙。けれど、それが本物だということくらい、私にも分かる。
「オリヴァー様——」彼女が振り返る。
楽団の青年は、長い沈黙の末に小さく頭を下げた。「音は、観客の方を向いている。僕も、そうだった。……ごめん」
優しい謝罪は、舞台ではいつも遅れて届く。
◇
騒ぎが落ち、温室の湿度が少しだけ軽くなったとき、殿下が私の横に立った。
「また“鍵”と“涙”だな」
「学園は変わらず、芝居の練習場ですもの」
「氷室のもう一人は——」
「観客の一部。今はそれで十分」私は扇子を畳んだ。「幕の裏まで覗くのは、礼儀に反しますわ」
殿下は息を吐いて笑う。「君はほんとうに手厳しい」
「いいえ、温度の話をしているだけ」
温室の天窓から差す光が弱まり、花々が影を長くする。
告白は終わり、舞台は転換へ。
監察室での後始末、学則の改訂、温室管理の再訓練。
段取りは、すでに頭の中で並んでいる。
――結局、恋も推理も匙加減。
甘さは香りに、苦味は記憶に、冷たさは証拠に残る。
◇
一件落着という言葉ほど、落ち着きが悪い語はない。監察室での書類が増えるたび、温室の湿度は少しずつ下がり、花は本来の香りを取り戻していく。人の涙もまた、香りが抜ければ、ただの水だ。
◇
監察室。
ヴィオラは事実関係を認めた。氷室を使い、ユーフォルビアの乳液を介在させ、結露で演出を助け、目元に舞台の涙——「彼女に少しだけ負けてほしかった」のだという。
殿下は短く命じた。学則違反(危険行為)による停学。温室の管理再訓練と、被害者への賠償、公開の謝罪。
厳罰ではない。けれど、舞台に立つ権利はいったん降ろされる。
カトリーヌは冷湿布を外し、「謝罪は受けます」と淡々と答えた。
礼儀の人間は、勝ち負けの言葉を使わない。私の好みだ。
侍医は温室の危険植物の取扱手順を改訂し、棘のある鉢は保護手袋とシールド必須、保冷箱の貸し出しは二名立会いに。
さらに、行事での舞台用涙は申告制。香りの混入は禁止。
学園は毎度ながら、次の芝居に備えるのが早い。
◇
夕刻、温室は人影が減った。
ガラス越しの陽は薄く、花は影を細くたたむ。
私はテーブルの角に手を置き、結露が乾いて粉を残す場所と、何も残らない場所の順番を指でなぞった。
——証拠は温度の歴史だ。嘘は、その履歴に追いつけない。
「アメリア」
殿下が現れた。肩にかけた外套には、水滴が点々と。氷室の名残だろう。
「また君に助けられた。“恋の教育”は、私の想像より棘が多い」
「恋は植物ですわ。水をやり過ぎれば根が腐り、光が強すぎれば花が焦げる。計量は礼儀」
「うむ……覚えておこう。ところで——」
殿下が声を落とす。「氷室にもう一人入った件、君は誰だと思う?」
「観客の一人。幕を倒さないために小物を片づける、気の利く観客ですわ」
「名前は言わないのだな」
「礼儀ですもの」
殿下は苦笑し、外套の水を払った。
振動とともに、遠くの通路で白い外套の裾がふわりと折れ、すぐに消えた。
私たちは追わない。舞台の裏は、物語の権利に属している。
◇
温室の片隅、オリヴァーがヴィオラに向かって頭を下げていた。
謝罪の台詞は短く、音のない和音のように空へ消える。
カトリーヌは横を通り過ぎるとき、わずかに会釈した。礼儀の角度は完璧で、勝者のそれではなかった。
——二人とも、役を降りるのが上手い。大人になる練習は、たいてい舞台で始まる。
管理係が私に封筒を差し出した。「本日の出納と改定案です」
書面の最後には、新しい行の追記——
『氷室鍵:色紐の導入(担当別カラー)、施錠記録の二重署名』。
鍵は、すぐに物語になる。ならば、鍵そのものに色を塗っておけば、嘘の温度は少し下がる。
◇
温室を出ると、夕風が冷たく頬を撫でた。
回廊の途中で、私はふと立ち止まる。
花台の縁に細い指跡、等間隔。
小さな瓶跡がひとつ、土の粉を円形に押しつけていた。
——拾い残し。几帳面な手にも、忘れ物はできる。
鼻先を、微かなレモンがかすめた。
渋みを和らげ、香りを上書きする都合の良い酸。
私は笑い、通り過ぎる。
上書きは、紙では歓迎されない。けれど、人の記憶ではよくあることだ。
◇
図書棟のテラス。
いつも通り、紅茶を頼む。今日は常より低温で。花に当てていた指が、まだ少し冷たいから。
湯気は細く、香りは軽い。
砂糖をひと匙、途中で止める。甘さは、控えめに。
「結局、恋は事件になったのか?」殿下が隣で問いかける。
「いいえ。事件のふりをした恋、ですわ」
「ふり?」
「ふりは悪ではありません。ただ、ふりには手入れが要る。今日のは、少し手入れを怠った」
「……君は手入れが上手そうだ」
「茶葉の話なら」
殿下が笑い、カップを合わせる音が小さく鳴った。
陽は沈みかけ、ガラスは夜の色を鏡のように集めていく。
私は一口、温度を確かめてから飲む。
冷めても、味は逃げない。段取りが正しければ、冷たさは証拠になる。
◇
夜。寮室の机で、私は温室改定案の控えに目を通した。
危険植物の識別札・保冷箱の温度記録紙・舞台用小物の事前申告表。
紙は増える。だが、手続きは愚かさを薄める。
紅茶の湯で器を温めるのと同じ。ひと手間が、味を守る。
窓の外で、細い雪が舞った。
白い粒は見えたり消えたり、真実よりも扱いやすい。
私はカップを両手で包む。温度が指に戻る。
「——涙は香らない方がいい。香りは、嘘の居場所だから」
小さく呟いて、最後の一口を飲み干した。
甘さは控えめ、渋みは穏やか、香りは静かに。
それが、今日の配合。
明日も学園は舞台になる。
私は観客の顔を覚え、台詞の順番を整え、湯の温度を測る。
それで十分だ。悪役令嬢の嗜みとしては。
最後までお付き合いありがとうございました。
今回の焦点は 「恋の演出と、事故に見せる段取り」。
甘い舞台ほど、温度と順番が雄弁です。
次回予告:
第4話「学園祭の仮面」
仮面は礼儀、歓声は煙幕。群衆の温度が真相を隠す。
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また温室の外でお会いしましょう。




