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第1話 紅茶と毒と、婚約破棄の真相

本作『王立学園悪役令嬢推理録』は、

紅茶と毒と礼儀に満ちた王立学園を舞台に、

悪役令嬢が人の嘘と愚かさを見抜いていく1話完結型ミステリーシリーズです。

「悪役令嬢」という題材を“皮肉と知性”で描くことを目指しています。

恋愛要素は控えめ、頭脳戦・心理戦・観察の妙をお楽しみください。

読後にほんの少し“苦くて香ばしい紅茶の後味”が残るように書いています。

第1話は導入編――アメリアという人物の知性と冷徹さ、

そして“本当の悪役”とは誰なのかを感じていただけたら嬉しいです。

 一度だけ、楽団が音をはずした。


 王立エルム学園の冬の夜会、壁一面の鏡に蝋燭ろうそくの火が増殖して、誰の顔も二割増しで殊勝に見える。私はといえば、顔の筋肉を節約しつつ、杯の水滴が落ちる軌跡を眺めていた。


 楽団の乱れは、王太子殿下が一歩、壇に上がった合図である。政治と音楽は、だいたい同じ場所でつまずく。


「ここで告げる。アメリア・フォン・クローディア、そなたとの婚約を――」


 言葉は綺麗にがれていて、よく切れた。歓声も悲鳴もなく、代わりにざわめきが広がる。


 砂糖を入れすぎた紅茶みたいに、口に出せない甘さが舌に貼りつく。


 私は扇子をひらりと返し、殿下に礼をした。礼節は便利だ。相手の刃を正面から受け取っても、痛みの顔を伏せて済む。


「殿下。宣言の前に招待状の文面を校正なさるべきでしたわ。『終生の愛を誓う』は、活字にすると後がめんどうですの」


 扇子の陰で、親友の伯爵令嬢がひそひそと肘でつつく。「今それ言う?」


 ――ええ、今だからこそ。人は熱い鍋の蓋を素手でつかまない。こういう場では、最初の一言で温度を測るのだ。


 殿下の隣には、白いドレスの少女が立っている。平民出と聞く。名はエリナ。


 ちょうど粉雪が降る窓辺に立つと、背景の助けで天使に見えた。おそらく、窓辺に立つのが上手い人だ。


 だが、天使なら礼儀作法の講義に欠席はしないでほしい。カーテシーが半拍早くて、裾が揺れている。


「あなたの冷酷さに、私は耐えられない」


 殿下は続けた。


「エリナは涙を流す。私は彼女を守る」


 私は瞬き一つで答える。「まあ。殿下の語順は詩的ですこと」


 観客の視線は薔薇ばらのトゲのように刺さる。私は慣れている。人は私を“悪役令嬢”と呼びたがる。


 理由は簡単、私が気の利いたことを言い過ぎるからだ。真実は、砂糖のように溶けて見えなくなる。辛辣しんらつな言葉だけが沈まずに浮く。浮いたものは摘まれ、ラベルが貼られる。便利な手順である。


 ◇


 夜会は続く――名目上は。実体は、殿下の宣言をぐるぐる見物する祭りだ。


 侍従が紅茶を乗せた銀盆を運び、踊り子たちは足を踏み鳴らす。私は壁際に退き、観察者に徹した。


 照明、香り、音、視線。事件はしばしば「場」の中で芽吹く。芽吹いたものは、踏まれなければ伸びる。


「アメリア様、お茶をお持ちしました」


 学園配属の給仕が、慎重にカップを差し出す。湯気はそこそこ、茶葉はダージリン。冬にしては軽すぎるが、夜会の緊張をほどくには妥当だ。


 私は受け取らず、給仕に微笑みを返した。


「ありがとう。まずは、そちらの方へ」


 あごで示した先にはエリナがいた。殿下と取り巻きに囲まれ、まるで温室の白薔薇。


 給仕は少しひるみつつも、礼にかなう動きでエリナへと進む。短いやり取り。砂糖を一匙ひとさじ、ミルクはなし。


 カップの縁にレモンの香りがかすかに残るのは、前の客の趣味だろう。拭き方が甘い。学園の家事科に寄付をしておくべきだ。


 エリナは紅茶を唇に運び――落ちた。


 カップが床に跳ね、ガラスのような音をたてる。音楽は途切れ、鏡の蝋燭が一斉に震えたように見えた。


 白いドレスに茶が広がる。彼女の肌は瞬く間に血の気を失い、喉が引きつる。周囲の悲鳴。


 誰かが「毒?」とつぶやく。誰かではない。多数だ。噂は足が速くて、医者より早く到着する。


「衛兵! そして医務室へ!」


 殿下が叫んだ。


「誰か、毒見は――」


「殿下、落ち着いて」


 私は扇子で空気を切る。


「毒を扱うなら、空気まで汚す必要はありませんわ」


 言い終えるより早く、視線が私に集まった。はいはい。それはそうなる。


 悪役令嬢には、毒の付録がつくと相場が決まっている。私のドレスの色は深い緑。緑は人の目に毒々しく映る。偶然だが、偶然は道具になる。


「アメリア、お前が――」


「殿下、私が紅茶を運びましたか?」


 私は首を傾げる。


「あるいは砂糖壺を開けました? ミルクを差しました? それとも、彼女の手をとって飲ませました?」


 答えられない沈黙。殿下の側近、セドリック・ヴァルナーが一歩前へ。


 彼は社交場の温度調整役で、随分と鼻が利く。その鼻が、今は私に向いている。


「アメリア様、ここは身の潔白けっぱくのためにも、あなたの立場を明らかにされた方がよろしい」


「立場なら明らかですわ。私は、殿下の元婚約者で、今は壁の花。壁はよく見えます」


 侍医が駆け込んで、エリナの脈を取る。薬箱が開く音。学園の医務室は優秀だ。命がひとつ、糸の上を滑る。


 床に割れたカップの破片が散らばっている。私は歩み寄り、裾が濡れないように角度を調整した。


 まず、香り。紅茶自体の香りは弱い。だが、砂糖壺のふたに甘くないにおいがかすかにする。薬臭い甘さ。目を細める。


 会場の空気には、焦げたロウと香水と、緊張の汗が混じる。嗅ぎ分けは難しいが、不可能ではない。


「触れないでください!」


 取り巻きの誰かが声を上げる。


「触れておりません。見るだけです」


 私はしゃがみ、床の染みの広がり方を見る。滴は放物線を描いて飛び、二歩分で止まっている。


 彼女が倒れた方向、椅子の位置、給仕の退いた角度。目の前で起きることは、目の前の人間が起こす。神様のせいにすると、観察は鈍る。


 侍医が顔を上げた。「毒の可能性が高い。痙攣けいれんが出ている。胃洗浄を――」


「ならば運ぶのが先決ですわ」


 私は立ち上がった。


「殿下、道を開けて」


 殿下が躊躇ちゅうちょする間に、セドリックが号令をかけ、エリナは担架へ。扉が開き、冷気が一枚流れ込む。


 私はその流れに乗らず、扉の縁で立ち止まった。騒ぎは廊下へ移る。


 残されたのは、人の輪郭だけが薄くなった会場と、割れたカップと、銀盆と――砂糖壺。


「学園の器具は貸し出しですわね」


 私は給仕に問う。


「は、はい……共用です」


「ふたの蝶番ちょうつがいが歪んでいるの、いつから?」


「き、気づきませんでした」


「気づかないことは罪ではありません。気づかないふりは罪ですが」


 セドリックがすべってくる。「アメリア様、取り調べは別室で――」


「取り調べのご趣味があるなら、まず現場の保存を。誰が出入りし、何に触れたか、順番に記録して。殿下の名のもとに」


 彼は一瞬だけ言葉を失い、それから冷ややかに笑った。「指図を?」


「助言を。殿下の名を守るために」


 ◇


 沈黙の間に、私は自分の心拍を数えた。落ち着いている。こういう時、人は自分の息の音に驚く。私は驚かない。驚きは物語を面白くするが、推理を面白くはしない。


 やがて殿下が戻ってきた。顔は蒼白そうはくで、しかし王族の矜持きょうじは保っている。


 彼が私を見る目には、怒りと不安と、ほんの少しの期待が混ざっていた。期待?


 ええ、こういうとき、人は嫌いな人間の有用性を思い出す。


「アメリア……彼女は助かるのだろうか」


「医務室の腕を信じてあげて。祈りは役に立ちませんが、医術は役に立ちます」


 私は砂糖壺に視線を落とした。ふたの内側に、白粉おしろいがほんのり付着している。砂糖そのものではない。粒が小さすぎて、光の反射が鈍い。


 甘い香りに混じる、舌の奥で渋くなる香。ここで確定はしない。けれど、指は確かにふれている。問題は、誰の指かだ。


「殿下、私を疑うなら、どうぞ。ですが、疑う順番を間違えないで。順番は礼儀ですから」


 殿下の喉が動く。セドリックが先に口を開いた。「順番、とは?」


「最初に紅茶に触れた者。次に砂糖壺。最後にカップ。その時間差です」


 私は扇子を閉じ、ささやくように続けた。


「殿下、あなたが私を捨てる自由はご自由に。けれど、あなたの名が『毒を見逃す王子』で飾られるのは、流石にお望みではないでしょう?」


 殿下の瞳が揺れる。それは、こちらの勝ち目が見えた時の揺れだ。


 私は微笑み――温度を一度だけ下げる。


「さあ、最初の手続きを始めましょう。全員をここに。出入りを止めて。私の“悪役令嬢のたしなみ”を、お見せします」


 楽団は演奏を再開できず、鏡の蝋燭だけが揺れている。夜会はまだ終わらない。むしろ、ここからが本番だ。


 紅茶は冷めると渋みが出る。人間関係も同じである。渋みが出たとき、味の真価がわかる。私はそれを、嫌いではない。


 ◇


 学園の夜会場は、静寂という名の観客で満たされていた。誰もが何かを言いたげに口を開きかけ、しかし言葉が出てこない。沈黙は毒よりも伝染が早い。


 その中で、私だけが紅茶の香りを嗅ぎながら思った。


 ――どうして人は、騒ぎの渦中でこそ最も愚かになるのかしら。


 ◇


「殿下、全員を集めました」


 セドリックが報告した。学園の上流貴族たち、教師、給仕、侍医、全員が半円形に並ぶ。私の前には、例の銀盆と砂糖壺、割れたカップの残骸。


 ああ、完璧な舞台だ。推理という劇は、証拠の小道具がないと始まらない。


「さて――」


 私は軽く咳払いした。


「まず、毒が混入された“可能性のある瞬間”を三つ、挙げましょう」


 一つ、給仕が紅茶を注いだとき。


 二つ、砂糖を入れたとき。


 三つ、飲む直前に何かが混入されたとき。


「それ以外の可能性もあるのでは?」


 と誰かが口を挟む。


 私は微笑した。「もちろんですわ。ですが、推理というものは“順番”を守らなければならないのです。料理も、礼儀も、そして毒も」


 その言葉に、数人が息を呑む。意図せずに、毒という単語は人の注意を奪う便利な道具だ。


 私は紅茶の残りを指差した。


「第一に、この紅茶はすでに注がれていたもの。給仕は確認のため、一度香りを嗅いでいます。毒が入っていたなら、その場で倒れているはず。給仕は健在。よって除外」


 給仕の少年が青ざめながらも頷く。


 よろしい、次へ。


「第二に、砂糖。砂糖壺の中の粉の粒が、通常よりも細かい。香りも“甘さの奥に苦み”がある。舌先にのせれば、砂糖ではないと分かるでしょう」


 実際、私はひと粒だけ指先に取り、舌の上で砕いた。ざらり――金属の渋味が舌に広がる。


 周囲が息を呑む中、私は淡々と続ける。


「砂糖に毒を混ぜたなら、ふたを開けた人物が重要になります。さて、開けたのは誰?」


 沈黙。誰もが他人を見た。人は罪を探すとき、まず隣の顔を探す。


「……わたくしではございません」


 エリナの友人が震える声で言った。


「エリナ様は自分で砂糖を……」


「はい、ひと匙。見ましたとも」


 と別の少女が補足する。


 私は軽く頷き、砂糖壺を持ち上げた。ふたの蝶番の隙間に、微かに黒い粉。指で触れるとざらりとした抵抗がある。毒の粒子が残っている。


 けれど、そんなことを声高に言えば、私が毒に詳しいと公言することになる。愚かの極みだ。推理は“知らないふり”の上で成り立つ。


「なるほど。では、砂糖壺の蓋を開けた“直前”に触れた方は?」


 誰も答えない。沈黙は再び広がる。


 私は視線を滑らせた。セドリックの手、王太子の視線、侍従の立ち位置。


 ――順番、である。


 毒を仕込むなら、人目が最も散る瞬間。殿下が婚約破棄を宣言した、あの瞬間だ。


 全員の意識が壇上に集まっていた。そのわずかな時間に、砂糖壺へ手を伸ばすことは容易い。


「殿下の宣言の最中に、紅茶盆を動かした方は?」


 私は視線を上げた。


「……あれは私の指示だ」


 セドリックが言う。


「殿下の動線を空けるため、給仕に盆を脇へ移させた」


「その時、あなたは砂糖壺に触れましたか?」


「まさか」


「ですが、壺の蓋がずれていますわ。蝶番の角度が十五度ほど。つまり、誰かがあの時に開けた。給仕は両手で盆を支えていた。では、殿下?」


 殿下は目を丸くした。「私が? そんな馬鹿な!」


 いいえ、殿下ではない。あなたは視線を奪う側だ。毒を仕込む暇などない。


 私はわざと間を取り、沈黙を落とす。沈黙は焦燥をあぶり出す。


「セドリック、あなたは盆を移す際、紅茶に視線を向けた。彼女のカップの位置を確認したでしょう?」


「……当然です。落とさぬように」


「そのとき、砂糖壺の蓋に触れた可能性は?」


「ありえん!」


 声が荒い。否定が強いとき、人はたいてい何かを隠している。


 私は軽く微笑み、茶葉を指でつまむ。


「では、こちらを御覧なさい。茶葉の上に黒い粉が二粒。これは茶葉の粉ではありません。おそらく……薬品由来。指が触れた場所の粉が、落ちたもの」


 セドリックの顔色が変わる。観客たちは息をのんだ。


 殿下が口を開こうとしたが、私は軽く手を上げて止める。


「断罪はまだ早いですわ。私は“事実”を述べているだけ。判断は殿下の務めですもの」


 殿下の喉が動く。


「セドリック、説明を……」


「私は……っ、そんなつもりでは!」


 セドリックの声は裏返った。ああ、もう少しだ。この瞬間、人は自分の言葉で自滅する。


 私は紅茶を見つめながら、淡々と続ける。


「おそらく、砂糖壺には微量の“苦味草ビターグラス”由来の毒。致死量は小匙一杯で十分。溶けやすく、甘味に似た香り。砂糖に混ぜれば、見分けは困難。よくあるやり方です」


 殿下が息を呑む。「それを……なぜ知っている?」


「学園の薬草学の講義で教わりましたわ。殿下は居眠りしておられましたけれど」


 数人の貴族が笑いを漏らした。笑いは緊張を少しだけ緩める。


 私はその隙に、最後の一手を置く。


「セドリック。あなたが意図していなかったとしても、結果として毒を仕込んだ形になっている。指先に付着した粉が、砂糖壺の蓋の蝶番に。あなたがそれを知らぬままに触れたとしても、罪は消えません」


「そ、そんな……! 誰かが……!」


「“誰か”ではなく“何か”の指示、ですか?」


 私は首を傾げた。


 彼の目が一瞬だけ泳いだ。何かを思い出そうとして、だが言葉にならない。


 その違和感を、私は胸の奥に留めた。この男、誰かに利用されている。


 ――だが、それを今ここで口にする理由はない。推理は舞台の上で完結すべきもの。幕の裏まで暴くのは、観客への裏切りだ。


 ◇


 沈黙の後、殿下が言った。


「セドリック、事情聴取を命じる。学園監察室で調べるまで、ここを離れるな」


 セドリックは蒼ざめて頭を下げた。


 その瞬間、彼の手が小さく震えていたのを、私は見逃さなかった。罪悪感の震えではない。何かに怯える震え――それも、他人の顔を思い出すような。


「お見事ですわ、アメリア様」


 どこからか拍手が起こった。


 私は小さく会釈し、扇子を開いた。風を送りながら、微笑を貼りつける。


 まだ終わっていない。この夜会には、もうひとつ“芝居”が隠れている。


 そして、その幕が上がるのは――ほんの少し、後のことだ。


 ◇


 学園の時計塔が九つを打った。医務室から使者が戻り、「命は助かった」と報告する。会場が一斉に安堵の吐息を漏らす。


 私は扇子を閉じ、静かに笑った。


 ――まったく、紅茶は冷めても毒は消えないというのに。


 ◇


 夜会の熱が抜けたあとの会場は、冬の湖のように冷えていた。


 蝋燭の炎だけが静かに揺れ、床の染みは乾いて褐色の花模様をつくっている。


 人々の興奮は去り、残るのは――沈黙と、私への好奇の視線。誰もが知りたいのだ。「悪役令嬢は、次に何を言うのか」と。


 ◇


「アメリア様。これほどの騒ぎとなれば……学園評議会が動きましょう」


 副学長が額の汗を拭いながら言う。声は震え、しかし保身の響きを隠せていない。


 私は微笑みで応じた。


「ええ。報告はお早めに。学園の名誉は、冷めた紅茶より扱いが難しいものですわ」


 王太子殿下は未だに顔を伏せていた。彼の背筋はいつもよりわずかに曲がっている。栄光の光がひと筋だけ欠けたような、そんな印象だった。


 まるで“婚約破棄”が、毒より先に効いてしまったみたいに。


「アメリア……」


 殿下はためらいがちに言う。


「君は……怒っていないのか」


「怒るほど、殿下に期待しておりませんもの」


 軽く首をかしげ、扇子の先で空気を払う。


「それより――」


 私は扇子で床を指した。そこに、小さな銀の粒。照明が反射し、鈍い光を放つ。


 毒粉の残り。だが、その“形”が妙に整っている。


「この粉、粒が細かいのに揃い過ぎているのです。自然な混合ではありません。つまり、故意に“均一に混ぜられた”もの。即席ではない。準備が要る」


「準備……だと?」


 殿下の眉が動く。


「ええ。たとえば、茶葉に見せかけて混ぜ込むなら、前日には仕込み終えていなければなりません。学園の厨房を出入りできる者――限られますわね」


 視線が数人の教師と給仕に集まる。


 私はその輪を外れ、会場の隅に目を向けた。そこに置かれた花瓶。夜会用の飾り。


 ――白百合。エリナの好んでいた花。


 そしてその花瓶の底には、同じ粉の粒が少し。水に溶けきらず沈んでいた。


 私は扇子を閉じた。「ふむ……ずいぶん几帳面な犯人ですこと」


 ◇


 セドリックは別室で拘束中。


 だが、私は知っている。彼がこんな丁寧な準備をする性格ではない。計算高い男ではあるが、几帳面ではないのだ。


 彼の指に付着していた粉は“運ばされた”証拠。意図的に使われた駒――それが正しい。


 問題は、“誰が”彼を使ったか、である。


 だが、それを暴くのは今ではない。なぜなら、舞台の幕を下ろす権限を持つのは、常に観客――つまり王太子殿下なのだから。


 ◇


「殿下。毒の種類を鑑定するため、学園薬学研究室へ試料を運ぶ許可を」


 私は丁寧に膝を折った。


 殿下はうなずきながらも、まだ動揺の影を引きずっている。


「……君に、任せていいのか?」


「殿下が他に信じられる方がいるなら、その方にどうぞ。私は“悪役”ですから、信頼される筋合いはありません」


 私は静かに立ち上がる。


 視線を感じる。周囲の貴族生徒たちは、あからさまな好奇心を隠しもせず、私を見ていた。


 今夜、彼らの頭の中にはきっとこう書き込まれる――


 〈婚約破棄の悪女、毒事件を暴く〉と。


 悪女は便利な役だ。何をしても「らしい」で済む。だがその「らしさ」を、私自身が演じる義務はない。


 ◇


 薬学研究室は夜でも明るい。窓際の実験台の上には、魔力灯が点いていて、白粉の粒を照らしていた。


 侍医がつぶやく。「確かに……これは苦味草の粉末。致死性です。口にすれば三分以内に心臓が止まる」


「まあ恐ろしい」


 私は唇に指を当てる。


「となれば、助かったのは奇跡ですわね」


「それが……不思議なのです」


 侍医が眉をひそめる。


「あの毒が体内に入れば、どんな治療を施しても救命は難しい。ですが、彼女は意識を取り戻しかけている」


「……そうですの」


 私は表情を変えずに答えた。けれど胸の奥では、なにかが微かに鳴った。


 ――助かった? 本当に?


 毒が致死量なら、助かるはずがない。それを前提に私は推理を立てていた。


 ならば、あの少女は――。


 考えが形になる前に、侍医が続けた。「おそらくは量が少なかったのでしょう。運がよかった」


 運、ね。


 人は運を信じたい生き物だ。だが、私は信じない。運に見せかけて、必ず“手”がある。


 それでも今は、その思考を飲み込む。扇子を閉じ、音もなく笑みを浮かべた。今ここで問いただすのは得策ではない。


 真実は、時として“寝かせておく”方が香りが立つ。


 ◇


 廊下に出ると、夜風が冷たい。学園の中庭の池が凍り、月を曇らせている。


 私はひとり歩きながら、紅茶の香りを思い出した。


 ――レモンの残り香。


 あれは、給仕が前に注いだカップの香りだった。けれど、あのカップを選んだのは誰? 給仕ではない。


 彼女自身が、わざわざ「そちらを」と指差したのだ。


 偶然? 違う。


 あのレモンの酸が、苦味草の毒をわずかに中和する。致死を避ける“保険”。


 私は息をついた。


 ――まさか、ね。


 まさか、あの天使めいた少女が。


 思考を断ち切るように、私は夜空を仰いだ。冬の星々が、皮肉なほど清廉だ。


 紅茶の渋みが舌に残るように、疑念もまた消えない。けれど、今はまだ、語る時ではない。


 ◇


 王太子おうたいしの執務室に戻ると、殿下は机に肘をついていた。


「……アメリア。助かったそうだ」


「存じておりますわ」


「セドリックは拘束した。だが、どうにも腑に落ちん。あいつが自らそんな愚行を……」


「殿下。世の中には、自分の意志と思っても“植え付けられた意志”というものがありますのよ」


 殿下が顔を上げた。「……何を言っている?」


「何でもございません。ただの女の独り言ですわ」


 私は軽く一礼して扉へ向かう。


 背中に殿下の声がかかる。「アメリア、今夜は……ありがとう」


「お礼は、婚約を破棄しなかったらの話ですわね」


 そう言い残し、私は笑って部屋を出た。笑いながら、心の中でそっとつぶやく。


 ――まだ舞台の幕は下りていない。


 ◇


 翌朝、王立エルム学園の中庭は、雪の反射でまぶしかった。


 事件の余韻が残るなか、学生たちは“紅茶会こうちゃかいの悲劇”を興奮混じりに語り合っていた。


 〈悪役令嬢が真犯人を暴いた〉――そんな見出しめいた噂が、廊下を風より早く駆けていく。


 私にとっては、ありがたくも厄介な人気商売だ。噂とは、砂糖と同じで、入れすぎると苦くなる。


 ◇


「アメリア様、こちらの書類にご署名を」


 セドリックの取り調べを終えた監察官が言った。私の証言書。簡潔に書いたつもりが、官僚は妙に厚い束を用意してきた。


「量が多いのは誤解が多いからでしょうね」


「は、はい……事件が事件ですので」


「なら、書類よりも紅茶を一杯淹れてくださる方が、理解は進みますわよ」


 皮肉を込めたが、監察官は真面目に頷いた。


 冗談の通じない相手と話すのは骨が折れる。


 それでも、学園の秩序という病を守る白衣の薬草師たちには頭が下がる。人間の愚かさに効く薬は、まだ見つかっていないのだから。


 ◇


 廊下の先で足音がした。白い包帯を腕に巻いた少女――エリナが歩いてくる。


 昨日よりも血色が良く、ほとんど元気そうに見えた。王太子殿下が隣に付き添い、優しく肩を支えている。


 まるで、舞台の主役と“守られるヒロイン”。絵としては完璧だ。


「アメリア様」


 エリナが小さく微笑んだ。その笑みは、痛みを隠すように柔らかく、それでいて――どこか冷たい。


 あの目を見て、私は悟る。彼女はすべて覚えている。毒を飲んだ瞬間のことも、私が何を見抜いたかも。


「ご心配をおかけしました」


「いえ、心配というより観察ですわ。あなたの容態は、学園の教材になるほど珍しいものですから」


 彼女はくすりと笑った。


「アメリア様って、本当に面白い方ですね。冷たいようで、誰より優しい」


「それは誤解ですわ。私はただの冷たい女ですもの」


 殿下が口を開きかけるが、私は扇子を広げて遮った。


「殿下も、どうぞお大事に。女心の扱いは、薬学より難しい学問ですから」


 そう言って、扇子の陰から視線を送る。


 ――そして、エリナの指先に小瓶の跡があるのを見た。


 透明な薬液を扱った形跡。包帯の下に、微かに粉の光。


 ああ、なるほど。自らの救命薬を用意していた、というわけね。


 だがそれを言葉にするのは、野暮というもの。真実は、告げた瞬間に安っぽくなる。


 ◇


 昼下がり、図書棟のテラスで私は紅茶を飲んでいた。


 学園は平穏を取り戻し、空気は凍るように澄んでいる。白い息の向こうで、学生たちが「次の夜会はどうなるのか」と騒いでいる。


 物語好きの学園は、事件さえ娯楽に変える。それでいい。退屈こそが、人間を腐らせる毒だ。


 テーブルの上に置いた砂糖壺を見ながら、私は微笑む。


 ――砂糖と毒の違いは、量でも成分でもない。“誰の手が入れたか”で決まる。


 ◇


 そこへ、王太子殿下が現れた。珍しく一人だ。衛兵も取り巻きも連れていない。


 気まずそうな笑顔を向け、席に立つ私へ軽く会釈した。


「……あの夜の件、礼を言いに来た。君がいなければ、私は愚か者として記録に残っていた」


「その“愚か者”は、きっと既に歴史書の余白に書かれていますわ」


「厳しいな」


「正直なだけですわ」


 殿下は苦笑し、紅茶を一口。


 私は砂糖をさじでかき混ぜながら、彼の横顔を観察する。王族というものは、少しの反省で随分と聡明そうめいに見えるから不思議だ。


「セドリックのことだが……自白したよ」


「自白、ですの?」


「“自分が毒を混ぜた”と。だが、記憶が曖昧で、なぜそうしたか覚えていないと。まるで誰かに操られたように……」


 私はあえて無表情を保つ。


「人は誰でも、己の愚行を正当化する方便を探すものですわ」


 殿下は小さく頷き、それ以上は言わなかった。


 風が吹いて、テラスの白布がはためく。冬の陽光に、紅茶の表面がきらりと光った。


 私はカップを傾け、一口。冷めた紅茶の渋みは、ちょうどいい。


 この世界の真実と同じで、甘すぎるより、少し苦い方が人を覚醒させる。


 ◇


「殿下」


「ん?」


「もし次に誰かに恋をなさる時は、紅茶を私に飲ませてからになさいませ」


「……毒見、か?」


「嗜みですわ」


 殿下は苦笑し、立ち上がった。


「君は怖いな、アメリア」


「恐ろしいのは紅茶の温度です。少し冷めただけで、人は味を見失うのですから」


 私はその背を見送りながら、紅茶を飲み干した。


 風の音に混じって、エリナの笑い声が遠くから聞こえる。その声は透き通っていて、どこまでも軽い。


 まるで“自分が勝者だ”と知っている者の声。


 けれど、それでいい。


 悪役令嬢は舞台の最後に微笑む役。観客がどちらに拍手を送ろうと、舞台の構成を知っているのは――脚本家だけだ。


 ◇


 夕刻、学園の塔が鐘を打った。


 私は立ち上がり、紅茶の残り香を胸いっぱいに吸い込む。雪が静かに降り始める。白の粒が、褐色の紅茶の上に一つ落ちた。


「人の心の毒は、解毒が難しいのね」


 誰にも聞かれぬように呟く。その言葉が、白い息とともに空へ昇った。


 ――そして、物語は静かに閉じる。紅茶の香りと、甘くない余韻だけを残して。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

この物語は「学園×悪役令嬢×推理」という組み合わせで、

毎話ごとに独立した事件を描きつつ、

背後では一人の“黒幕”が糸を引いています。

今回の事件――紅茶に仕込まれた毒と婚約破棄――は、

アメリアの知性と皮肉の出発点です。

彼女の視線は人の感情よりも“順番”と“温度”を見ています。

その観察眼が、やがて王国全体の矛盾を暴くことになるでしょう。

次回、第2話は――

「図書塔の密室」

学園の禁書区で起こる密室死と、封じられた記録の真実。

紅茶を片手に、またお会いしましょう。

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