妹に譲るのはここまでにします
「そう……ローテン商会が毛織物を安売りしてきているのね。終わりのない価格競争は不毛だわ。……こちらは品質保証とブランド力を前面に出して、差別化していくべきね」
ソフィエ・アルンハイト子爵令嬢は、帳簿に視線を落とし、静かに羽根ペンを走らせていた。
アルンハイト家は十数年前まで辺境の小さな騎士家にすぎなかった。
だが幼き日の彼女が独学で商機を見抜き、塩と毛織物の交易路を整え、隣国との交易許可を勝ち取ったことで、一気に家の財は膨れ上がることになった。
形式上は父が契約に署名したが、文面の工夫も条件交渉も、すべてソフィエの頭脳と忍耐の結晶だ。
その功績が積み重なり、アルンハイト家は伯からの推挙を受けて子爵へと叙されたのである。
彼女が勉学に励み、商いに挑戦した理由はただ一つ。
病弱な妹──ロザリー・アルンハイトの治療費を稼ぐためだった。
初めての契約を成功させたあの日のことを、ソフィエは決して忘れない。
帳簿に並んだ数字を確かめた二人は、次の瞬間、言葉もなくソフィエを抱きしめたのだ。
「……おとうさま……おかあさま?」
かたい父の胸に頬を押しつけられ、母の腕に包まれて。
涙の温もりと共に、世界が鮮やかに色を帯びていく。
今まで、こんな風に抱かれたことはなかった。
「お前は……この家の誇りだ」
「ロザリーもきっと、良くなるわ」
掠れた声が耳に残り、胸の奥で何かがほどけた。
──ああ、自分の居場所はここなのだ。
この瞬間のために、生まれてきたのだ。
外に出られないロザリーも、薬で病状が良くなれば一緒に遊べることだろう。
これからも絶え間ない努力と忍耐によって、この愛する人たちを守っていくのだ――。
その確信が、ソフィエの全身を満たした。
それから数年。
事業は順調に拡大し、ソフィエは忙しい毎日を送っている。
だが、彼女の功績が公に知られることはない。
幼い頃は社会的信用のために父の名を借りる他になく、今でも「外では黙って微笑んでいればよい。その方が良い縁談に恵まれる」とやんわり釘を刺されている。
事業を行う中で男と女の扱いの差に苦心することもあったので、父の忠告は理解できた。
ソフィエ自身、これといった野心はない。
家族が金銭に恵まれ、幸福であればそれでよい──そう思っていた。
そんなソフィエを悩ませたのは、すっかり快癒したロザリーの言動であった。
ソフィエが新しいものを持っているのを見ると、その全てを欲しがるのだ。
「お姉さま、そのドレス、とても素敵! 私にも似合うかしら?」
「……ええ。仕立て直せば、きっと」
ソフィエはその度、笑って譲ってきた。
金糸を縫い込んだ夜会用のドレスも、細工の美しい扇も、いつのまにかロザリーの持ち物になった。
母に相談すれば「姉なのだから我慢しなさい」と言われるばかりで、胸に走る痛みはいつも自分の未熟さのせいだと押し殺してきた。
愛する、妹なのだ。
ロザリーのせいで、などとは思いたくなかった。
──ただ、それでも。
今回のものに限っては──どうしても、話が別だった。
アルンハイト家の商会に仕える書記クラリスとして、とある隣国商会との契約を締結した夜のことだ。
幾度も条件を引き出し、ようやく双方が満足する形に収まった後──。
ソフィエは人目を避けて控え室の椅子に身を落とし、震える指先を見て小さく息を吐いた。
「──見事だった」
いつの間にか背後に立っていた声に振り返ると、そこには共にこの夜を戦い抜いた同盟相手がいた。
その青年は、陽光を思わせる金髪と、研ぎ澄まされた蒼の瞳を持っている。
名はラース。表向きは新興商会の若きエースと聞いている。
だがその立ち居振る舞いには、場数を踏んだ商人とも違う特別な気品があった。
「クラリスさん。君が五度も条件を切り返しながら、相手の顔を立てて引き出した譲歩……あれは誰にも真似できない。素晴らしい采配だった」
「いえ、そんな。ラースさん達の助力あってこそです。私一人では、到底……」
「そんなことを言えば、俺一人でもこの結果は出せていない。今日の成功は間違いなく、君の功績だ」
そして彼は少し照れたように笑い、懐から小さな包みを取り出した。
「俺は君という人間に出会えた今日を、特別な日としたい。……これを、受け取ってほしい」
差し出されたのはペンダントだった。
中央の水晶は、光を受けるたびに七色にきらめいている。
何か特別な加工でも施されているのだろうか。
少なくともソフィエに、このような素晴らしい宝石を見た経験は一度としてない。
ラースは、分かっているのだろうか。
これでは、自分が普通の立場の人間ではないと自白しているようなものだ。
それは、ソフィエに秘密を預ける行為だ。
この短時間で、ソフィエの何を一体信頼したというのだろう。
「これは俺の尊敬するある人から譲り受けたものだ。努力の結晶──その象徴として身につけろと。今、その言葉どおりに渡したい。この宝石は、君のような人にこそ相応しい」
「そ、そんな……このような高価なもの──」
「お願いだ、受け取って欲しい。君のような素晴らしい人に出会ったのは初めてなんだ」
思わず首を振ろうとしたが、真摯な言葉と眼差しに遮られ、ソフィエは震える両手でそれを受け取っていた。
人の期待や信頼を裏切る術をソフィエは持たない。
だが、それだけではなかった。
ラースには、応えたくなる何かがあったのだ。
「……ありがとう、ございます」
「こちらこそ、受け取ってくれてありがとう。……良かったら、この場でつけてみてはくれないか」
促されるまま、ソフィエは震える指先で首元にペンダントをかけた。
水晶が胸の上で小さく揺れ、燭火を受けて虹色の光を散らす。
(なんて……なんて素敵なの)
まるで夜空を封じ込めたかのような煌めきに包まれ、思わず笑みが零れる。
その瞬間、ラースの瞳がわずかに見開かれた。
驚きのあと、抑えきれぬ感情が言葉となって漏れる。
「……綺麗だ」
気取った言い回しも、理知的な調子も、そこにはなかった。
本音の底から零れ落ちた、ただひとつの感情だけ。
「……あ、あの……」
低い声が胸の奥にまで響き、ソフィエの頬が一気に熱を帯びる。
彼が褒めているのは装飾品の輝きではない。
蒼い瞳は水晶ではなく、ソフィエそのものを見つめていた。
気づけば呼吸もままならず、顔を両手で覆ってしまう。
「そ、そんなに……見ないでください……」
彼女の震える声にラースは脱力し、ゆるく息を吐いて──小さく、しかし確かに言った。
「……それは。無理な話だろう……」
心臓が破裂しそうだった。
胸の奥に、甘く熱い多幸感がじんわりと広がる。
脈が速まる。
いくら鎮まれと願っても、心臓は彼の一言でまた跳ね上がってしまう。
(これが、恋、なの……?)
ソフィエには分からなかった。
ただ、頬に火が灯り続け、胸の奥で光が絶え間なく瞬いていた。
この夜、受け取った小さなペンダントは、未来への淡い希望として──。
そして彼女にとって、家族の次に己を象徴する、大切なものとなった。
それだけは確かだった。
故に。
故に、その日の妹のおねだりは、どうしても受け入れられなかったのだ。
「お姉さま、その飾り、とっても素敵ね! 私にくださらない?」
「ロザリー、ごめんね。これは……とても大切な人から貰ったものなの。だから──」
「まあ、ひどい! わたし、こんなにお願いしているのに……! ひどいわ……!」
代案を提示するその前に、ロザリーは大粒の涙をこぼしながら母のもとへ駆けていった。
ロザリーと、会話らしい会話ができないことに心を痛めながら、ソフィエは思う。
もしかしたら、母は分かってくれるかもしれない、と。
だが、そんなソフィエの淡い期待もむなしく、数分後には理不尽な叱責が飛んだ。
「なんて心の狭い子なの……!! ロザリーをこんな風に泣かせて、なんとも思わないの!? あなたをそんな卑しい娘に育てたつもりはないわ!!」
「……すみ、ません。お母様」
「お母様。そんなにお姉様を叱らないであげて」
「ああ、ロザリー。あなたは本当にいい子ね……」
ソフィエは事情を詳しく話すこともせず──唇を噛みしめ、手からその小さな宝石を放してしまった。
他の何よりも、家族に拒絶されることが怖くてたまらなかった。
(……ひどい。こころのせまい。いやしい。私が? ……そうなの、かな? ロザリーも、お母様も、お父様も愛しているけれど……。すべてを差し出すことが、愛なの? 自分の願いを抱いてはいけないの……?)
俯いた視界の隅で、ペンダントが妹の首にかかるのを見た瞬間──ソフィエの胸の奥に、冷たい痛みが刻み込まれていく。
(ごめんなさい。……ごめんなさい、ラースさん。きっと、貴方にとっても……大切なものだったのに……)
今までも感じていた家族との溝は、もはや決定的なものになった。
ソフィエは胸の痛みを押し殺すように、ひたすら机に向かい、商会へ足を運び、数字と帳簿に没頭するようになった。
(数字は裏切らない。交渉には必ず答えがある。努力すれば、必ず報われる……なんて素晴らしい世界なのかしら)
家族へ差し出す愛は、決して返ってはこない。
そのすべては、いつだってロザリーに捧げられるからだ。
けれど商いの世界だけは違った。
耐えと工夫は必ず実を結び、成果は数字となって返ってくる。
商会の仲間と共に成功の喜びを分かち合い、絆を深めることが出来る。
……あくまでも、仮初の姿──クラリスとして、だけれど。
──だが、父母はさらに彼女を追い詰めていった。
贅沢な生活は留まることを知らず、それを当然の権利のように言い放つ。
「はぁ……金が足りん、金が足りん! 子爵ともなれば見栄を張らねばならんのに、どうしてこんなに懐が寂しいのだ。ソフィエ、もっと儲けてこれんのか」
「そうよ、それからロザリーに新しいドレスを買ってやらなきゃ。今度の夜会は大事なの。姉であるあなたが支えてあげなくてどうするの?」
ソフィエは言葉を失い、ただ胸の奥に苦いものを押し込める。
言いたいことはいくらでもあった。
けれど、口を開こうとすれば喉の奥でつっかえて、どうしても声にならない。
父と母は、いつから変わってしまったのだろうか。
それとも──最初から、こうだったのだろうか。
同じ血を分けたはずなのに、ソフィエにはもう、彼らの心がまるで分からなかった。
「……承知、しました。努力……いたします」
無理も無茶も、すべて自分が背負うしかない。
けれど──背負わせてもらえること自体が、まだ彼女にとって救いだった。
拒絶されること。それだけは、決してあってはならない。
耳の奥に、あの日の言葉がよみがえる。
──「お前は、この家の誇りだ」
その一言だけは、絶対に嘘にしてはいけなかった。
明くる日、一通の封書が届いた。
堅牢な封蝋には、侯爵家の紋章。
ソフィエは震える指先でそれを裂き、整った筆跡を目にする。
差出人は、国境と港湾を管轄し、代々交易と外交に強い影響力を持つ名門──。
グレイフォード侯爵家嫡男、ウィルバーツ・グレイフォード。
その振る舞いは常に誠実で、弱き者への施しも惜しまないと聞く。
──才覚も、人望も、血統すらも兼ね備えた、まさに完璧な後継者と言われる男だ。
内容は実に単純で、ソフィエとの縁組を望むものだった。
簡潔にして、誠実な文面を目の当たりにした刹那、ソフィエの心臓が大きく跳ねる。
文の端々に滲む理知的な言い回しと、力強くも柔らかな筆致──見覚えがあった。
(……ラースさん……!? 彼だわ、間違いない……!)
やはり、ラースは只者ではなかった。
修行か、はたまた偵察か──何らかの事情で身分を隠して商いに挑んでいたのだろう。
心に秘め続けた淡い想いが、再び鮮やかに蘇る。
家族に愛されずとも、自分を理解し、求めてくれる人がいる。
(…………ちがう。私は、なにを勘違いしているの……?)
そう、違う。これはただの商談の延長線だ。
商会において強い力を持つ、アルンハイト家の繋がりを求めてのこと。
彼が求めているのは家柄であり、自分ではない。
そもそも、妹に大切なものを奪われて──どんな顔をして彼と会えばいいというのだろう。
冷たい理屈で何度も押しとどめても、胸の奥に灯った希望の炎は揺らめき続ける。
裏切られる瞬間が一番恐ろしいと分かっていても──心に芽生えた願いを、消すことは難しかった。
(もし、彼と結婚できるなら……きっと、素敵な毎日になる……希望を抱いても、いいのかしら……)
──そして、現実はすぐに牙を剥くことになる。
ソフィエは封書を閉じると、家族に侯爵家の長男から縁組の申し出があったと報告した。
部屋に沈黙が落ちたのも束の間──最初に声を上げたのは、妹のロザリーだ。
「お姉さま、すごいわ! 侯爵家の御長男ですって!? わたし、ぜひお会いしてみたいわ!」
瞳を輝かせ、手を叩いてはしゃぐロザリーに、父と母の表情も自然と綻んでいく。
「ふむ……そうだな。侯爵家に嫁ぐとなれば、我が家にとってこれ以上ない好機だ。ソフィエ、お前は事業もある事だし、今回の話はロザリーに譲りなさい」
「ええ。あんたよりも、愛らしいロザリーのほうが相応しいでしょう」
「え……?」
ソフィエがまだ何も言葉を発していないというのに、会話は彼女を置き去りにして転がっていく。
気づけば当然のこととして、妹が侯爵家に嫁ぐ未来が語られていた。
ソフィエ自身の存在など、最初からなかったかのように。
「あ、の。相手は私に、と書かれていました。いくらなんでも、そんな……」
必死に言葉を紡いだが、母は軽く首を振った。
「同じアルンハイト家の娘であることに変わりはないでしょう? お相手に失礼なんてこと、あるはずないわ」
その一言で、抗弁の余地は閉ざされる。
確かに、彼が求めているのは家柄かもしれない。
自分個人ではなく、アルンハイト子爵家との結びつき。
──けれど。
(どうしても……これだけは、譲りたくない……!!)
一歩を踏み出し、そして。
ペンダントを奪われたあの日の、あの視線がよみがえる。
──「なんて心の狭い子なの」
──「卑しい娘」
母に浴びせられた言葉。
冷たい蔑みの視線。
「ぁ……」
拒絶される恐怖が、喉を締め付ける。
ソフィエは唇を噛み、声を飲み込んだ。
「……っ」
また、なにも言えなかった。
ただ俯き、静かに手を握りしめるしかなかった。
(私の願いは、何一つ……何一つ、叶わないのね……)
愛らしい笑顔を振りまくロザリーと、それを誇らしげに受け入れる父母。
暖かな輪の中心にいるのは、いつも妹だけだった。
ソフィエはただ外側に立ち、手を握りしめるしかない。
──なぜ、あの輪の中に、自分はいないのだろう。
──なぜ、尽くしても尽くしても、すべてを奪われるのだろう。
一体。
一体いつから、自分は道を間違えたのだろう──?
そして訪れた、面会の日。
侯爵家の紋章を掲げた馬車が門前に停まると、アルンハイト家の屋敷はいつになく慌ただしくなった。
応接室に通された青年は、礼儀正しく腰を下ろす。
金糸の髪に、蒼の瞳。整った立ち居振る舞いは──やはり、あの日のラースであった。
ソフィエの心臓が、胸の奥で痛いほどに跳ねる。
だが今日、彼女は自らの意思でウィルバーツに接触することを許されていない。
ただ、ロザリーの縁談が上手くいかなかった際の補佐役として彼の目の届かない場所で控えるだけ。
扉越しに──やり取りを、見ているだけだ。
「ようこそお越し下さいました、ウィルバーツ殿」
父がにこやかに出迎え、ウィルバーツが口を開く。
「ああ、急な話ですまないな。して、ソフィエ嬢はどこに? そこにいるのは、次女だろう」
当然の疑問。
父の通した応接間に座っていたのは、ロザリーだった。
「実の所、我が家が子爵へと昇ることができたのは、すべてロザリーの発想のおかげなのです。病に伏しながらも、あの子は聡明でしてな。領内の商いに関しても、多くの助言をしておりまして……」
事もなげに語られる嘘がソフィエの胸を、氷の刃でえぐるように突き刺す。
「そうなのか? 俺はてっきり、其の方の成功は、長女のソフィエ嬢によるものだと思っていたが──」
「ソフィエは気の弱い子でしてね。商談の場に立てば萎縮してしまいますの。結局のところ、姉の力は大したものではなくて……ねぇ?」
「まったく、その通り。ソフィエのそれは、ロザリーの才覚には到底及びませぬ!」
「その為に、気を回して長女でなく次女を寄越したという訳か。頭が下がる配慮だな」
「いえ、いえ。とんでも御座いません」
ソフィエの視界が悔しさに滲む。
今すぐにでも乗り込んで、叫びたい。
違うと。
商会を成長させたのは自分なのだと。
その時、ロザリーが可憐に笑い、椅子から身を乗り出した。
──その首元で、虹色の光が揺れる。
(……っ)
ソフィエの息が詰まる。
ウィルバーツから贈られたはずの、あのペンダント。
決して誰にも譲れないと心に誓った、大切な証が──妹の胸元で、何の感慨もなく揺れていた。
ウィルバーツはきっと、クラリスの正体がソフィエである事を見抜いていた。
妹の首で揺れるペンダントに、彼が気づかないはずがない。
──きっと、これで彼はソフィエのことを、大切な贈り物を妹に軽々と渡してしまうような酷い女なのだと思うだろう。
「まあ……! 本当にお綺麗な方……! こんな立派なお方がわたしを選んでくださるなんて……夢みたいですわ!」
「……そうか。俺の外見が好きか?」
「ええ、とても魅力的ですわ!!」
ロザリーは頬を染め、両手を合わせて少女のように無邪気にはしゃぐ。
ソフィエは思わず胸の奥で嘆いた。
──やはり、自分には足りないのだ。
努力では決して得られない、生まれ持った愛くるしい輝きが。
だからこそ、自分はいつも置き去りにされるのだ。
いくら努力をしようとも、数字を積み重ねようとも──愛されることかないのだ。
「──ロザリー嬢、君は姉のことをどう思っているんだ?」
「お姉様? お姉様の話なんてつまらなくてよ? それより、ウィルバーツ様のお話をもっと聞かせてくださいませ! どんな趣味をお持ちなの? 私、あなたのことをもっと知りたいの!」
ロザリーは、姉などどうでもいいとばかりに、話題を逸らしてウィルバーツに甘えはじめた。
「この前の夜会では、たくさんの方に可愛いって褒められたんですのよ! 殿方はやっぱり皆さん、薔薇色のドレスがお好きなのですか?」
「舞踏会はお好き? わたし、踊るのが得意なんですの! 次の機会にはぜひ一緒に……」
「流行の髪飾りをご存じ? 今は宝石より羽飾りが素敵って皆が言っていて……きっとウィルバーツ様にも似合うはずですわ!」
好き勝手に言葉を重ねながら、最後には小首を傾げて聞いた。
「ところで、ウィルバーツ様は……どんな女性がお好みなの?」
一瞬の沈黙。
彼は目を伏せ、やや間を置いてから、静かに答えた。
「……俺は意外と、女性の笑顔に弱いらしい」
「まあ! わたし、たくさん笑いますわ!!」
ロザリーは勝ち誇ったように両手を叩いてはしゃぎ、父母は満面の笑みで頷く。
「……」
ウィルバーツはしばし穏やかに微笑んでいた。
だが──やがてその表情から色が消える。
代わりに蒼の瞳に宿ったのは、氷のような怒りだ。
「……俺の見たい笑顔は、ただ一つだけだ」
低く押し殺した呟きが、闇に消えていく。
そして──決壊した。
「今すぐにソフィエ嬢を呼べ。……ここまでくだらないことになっているとは、思わなかった」
(私、を……? どうして……?)
扉を開き、呼ばれるがまま、ソフィエは深く息を吸い込んで応接室へと足を踏み入れた。
応接室の空気はウィルバーツの尋常ならざる様子に、沈黙を保っている。
混乱と緊張を覆い隠すように、ソフィエは優雅に裾を広げて一礼した。
「──アルンハイト家長女、ソフィエにございます。……ご挨拶が遅れ、失礼いたしました」
「……ああ。ようやく会えたな、“クラリスさん”。親に俺と会うなとでも言われていたのか?」
不意に放たれた言葉に、ソフィエの肩が揺れる。
「それ、は……」
否定しようと開いた唇を、次の言葉が塞ぐ。
「……言わなくていい、辛かっただろう。よく耐えた」
ラース──否。ウィルバーツの蒼い瞳が、真っ直ぐにソフィエを射抜く。
その眼差しには、責める色も、軽蔑も、何一つなかった。
ただ、労わるような温もりだけがあった。
心臓が強く跳ね、ソフィエは息を呑む。
(この人は……どうして、こんなに温かいの……?)
大切なペンダントを奪われた。
彼の気持ちを、ソフィエは守ることが出来なかった。
だというのに──何も話していないというのに、ウィルバーツは誰よりも温かく、ソフィエに寄り添ってくれている。
込み上げてくる安堵と涙を、ソフィエは飲み込むので精一杯だった。
やがてウィルバーツの視線は、ソフィエからロザリーへと移った。
鋼のように冷たい声が、応接間に響く。
「さて、聞こう。……これは何の冗談だ?」
「え……?」
その眼差しは、ロザリーの首元に突き刺さっている。
「それは──俺がソフィエ嬢にこの手で贈った特別な物だ。何故、こんな頭の空っぽな女が身につけている」
「そ、それ、は。お姉様がくださって……」
「くださっただと? ふざけるなよ、ソフィエは人の気持ちを踏みにじるような女ではない。大方、母親にでも泣きついて奪い取ったのだろう。違うか?」
「……っ」
青筋が浮かぶほどの怒気を押し殺した声。
続けざまに、彼は父母へと鋭く視線を向けた。
「さらには──商会の功績まで、この女の発想だと? 馬鹿げている。侯爵家のボンボンは現場を知らぬに違いない──とでも思ったか? 人を舐めるのも大概にしろ」
「そ、れは──」
威圧的な気迫に父母もロザリーも、何も言えぬまま青ざめて身を縮める。
父母は互いに、どうにかしろとでも言うような視線を交わして──自分からは、何も行動しない。
しまいには二人揃ってソフィエに、どうにかしろ、とばかりの目線を送ってくる始末だ。
「ソフィエ。君は、こいつらをどう思っている」
鋭さを抑えた問いかけに、応接室の空気が張りつめる。
ソフィエはただ俯き、震える手を必死に組み合わせた。
喉が焼けつくようで、声にならない。
「……これからの全て、君の安全は俺が保障する。だから……言ってくれ」
低く、落ち着いた声。
その響きに支えられるようにして、ソフィエはかろうじて唇を開いた。
家族への恐怖は消えない。
それでも尚、彼には伝えたいと思ったのだ。
誰にも話したことのない──この気持ちを。
「……わたしは……お父様と、お母様に……愛されたかった……」
ぽつり。ぽつりと──幼子のような声が、零れ落ちる。
「何をしても……褒められるのはロザリーばかりで。……それでも、いつか……また、あの日みたいに、抱きしめて、認めてくれるのではと……ずっと……」
ソフィエの涙が滲む視界の中で、父母は目を逸らし、互いに押し付け合うように沈黙している。
──本当に。いつから、こうなってしまったのか。
「……でも。理性では分かっていました。もう無理だと。……けれど、認めるのが……怖くて」
ソフィエは喉を震わせ、声を絞り出す。
「妹が、父母が、私を利用しているだけだと……考えたくなかった。……家族を、そんな風に……思いたく、なかった。思いたく、ないのに……」
そこまで言って、ソフィエは顔を伏せた。
細い肩が小刻みに震えている。
「であればソフィエ、君の代わりに俺が言おう。理不尽を、俺が君の口となって正そう。──君の優しさに寄生するこいつらは、ゴミクズ以下の寄生虫だ」
言い切ると同時に彼は立ち上がり、宣言する。
「彼女が商会の実質的な管理者であることは、すぐにでも証明できる。つまり、この家の権利も全て彼女にあるという事だ。法廷に提出すれば、すぐにでも貴様らから家柄を剥奪できるだろう」
低く冷たい声音が落ちた瞬間──応接室の空気が凍りついた。
父母はそれまで椅子に沈み込み、怯えたように顔を見合わせるばかりだった。
しかし家の権利という言葉が突きつけられた途端、二人は糸が切れたように同時に立ち上がった。
蒼白だった顔に朱が差し、恐怖は怒声に変わる。
「な、何を言うか! そんな横暴が許されるものか!!」
「そうよ! そもそも子が稼いだものを、親が自由に使って何が悪いというの? 家族のために働いて当然でしょう!」
怒鳴りながらも、どこか縋るような声音。
必死の形相で、父はソフィエを指差す。
「ソフィエ! 頭の良いお前なら分かるだろう!? この父を、母を、見捨ててはならんぞ!!」
「そ──そうよ!!」
母も泣きそうな顔で叫ぶ。
「ソフィエ、私もあなたを愛しているわ!! だから、この方の言うことなんて認めてはいけないわ!」
二人の尋常ならざる様子に、ロザリーも事態を察したのだろう。
ソフィエへと縋りつき、甘えるように言葉を繰り返す。
「お、お姉様……? わたしもお姉様のこと、大好きよ……? ねぇ、なんとかしてくれるのよね……? ね? いつも、みたいに……」
「……お父様……お母様……ロザリー……」
あれほど欲しがっていた愛の言葉が、目の前で次々に差し出される。
だが──ソフィエの胸には何の温もりも宿らなかった。
(私は……こんなものが、欲しかったわけじゃない……)
まるで干からびた果実を押しつけられているようで、空虚だけが胸の内に広がっていく。
「手のひらを返して、滑稽なものだ」
ウィルバーツの声が、淡々と空気を裂いた。
「……だが、そうだな。確かに君の頼みであれば、俺は処遇を考えてしまうだろう」
「え……?」
「選べ、ソフィエ。俺は君を幸せにすると誓う。君が求め、与えられなかった愛を、俺が教える。それだけが決定事項だ。他のことは、全て君の好きにすればいい。君の憂慮に比べれば、俺の怒りなど些末なことだ」
その時、ソフィエは気づいた。
彼の拳から血が滴っていることに。
力任せに握り締めすぎて、皮膚が裂けているのだ。
それでも彼は表情を崩さず、ただソフィエのために言葉を紡ぎ続けている。
血のにじむほどの怒りを──些末と切り捨ててしまえるほどに、ソフィエの心を思って。
(……この人は。人のために……私のために、本気で怒ってくれる人なのね。……きっと、これが……)
刹那、胸の奥で何かがほどけた。
重く冷たい鎖が──がらがらと音を立てて崩れ落ちていく感覚が広がる。
結局、父がかつて告げた「家の誇り」という言葉は愛ではなく、ただ利用のために繋ぎ止める枷だったのだ。
それをようやく──ソフィエは、受け止めることが出来た。
ウィルバーツが、本物を教えてくれたからだ。
「追放処分を──してください」
ソフィエの声にはもう、怯えも震えもなかった。
大人二人に子供一人。自分が支えるまでもなく、生きていけるだろう。
突き放すことこそが、最後に残された家族への愛だった。
どうか──彼らも、人の心が分かるようになりますようにと、願いを込めて。
「嘘でしょう!? お姉様! わたしを捨てないで!!」
「ソフィエ!! やめろ!! この家を滅ぼすつもりか!!」
「私たちは愛していると言ったでしょう!? なのに、どうして──!!」
怨嗟と罵倒が渦巻く中で、ソフィエの心は不思議なほど静かだった。
ウィルバーツはロザリーからペンダントを取り上げ、三人をその場から退去させた。
静まり返った部屋の中で──ウィルバーツは、ソフィエを抱きしめる。
「──あたたかいです」
唐突な抱擁に、ソフィエは、その温もりが夢ではないかと、震える指で彼の背を確かめた。
──ああ、確かにここにある。
本当にソフィエは、解放されたのだ。
「……俺は、君の愛を理解している」
家族は最後まで、ソフィエの愛を理解することはなかった。
それでも、その彼の言葉があるだけで。
それだけで──十分だった。
「──ありがとうございます、ウィルバーツ様」
「……ウィルでいい。敬語も外せ。俺たちは結婚するのだからな」
「……は、恥ずかしいので……慣れるまで、待っていただけませんか……?」
「……それは。無理な話だろう」
思えばペンダントを貰ったあの時も、同じことを言われた。
気になっていた。
ずっと、彼の口から聞きたいと思っていた。
「……どうして、無理なのですか?」
普段は凛とした立ち居振る舞いで隙を見せぬ彼が、今だけは違った。
耳朶まで赤く染まり、唇を噛みながら、それでもどうしても隠せない感情が滲み出ている。
「……言わないと、分からないか?」
低く押し殺した声。だが、その奥で震えているのは怒りではなく──羞恥と熱。
「君が……可愛すぎるからだ。俺の身にもなってくれ」
最後の言葉を吐き出す時、彼は目を伏せるようにして、視線を逸らした。
その不器用な仕草が、ソフィエには何よりも愛おしく映る。
ふと視線を落とせば、応接間の机の上。
そこには、二人を結びつけた銀のペンダントが、虹色の光を散らしていた。
奪われ、汚されても──最後に戻るべき場所へ戻ってきたそれは。
紛れもなく、二人の愛の象徴だった。