第63話 裏方は色々と忙しい
「ああ、田中?ごめん、夢中になりすぎた」
ベッドの端に腰かけて、義隆は電話をかけていた。相手は秘書の田中で、たいして反省もしていない謝罪の言葉を述べている。
『それで、お車もお荷物も旅館に置いてあるんですね』
田中が一つ一つ確認を取りこれからの事を取り決める。
「貴文さんは発情期に入ってる。間違いない。アフターピルを持ってきて欲しい」
『かしこまりました。旅館にあるお荷物もお持ちします。それで場所なんですが……』
「それはGPSで分かるんだろう?俺だってよくわかってなんかいない」
義隆は事の経緯を田中に話しながら、改めて怒りが込み上げて来たことに驚いた。そう、ここは貴文の思い出のラブホだ。貴文が大学生になり初めてできた彼女と初のドライブデートで立ち入り、DTを卒業した思い出の場所なのだ。さらに、この部屋がまさにその場所だということも義隆は分かってしまっていた。そう、入口で部屋の写真が沢山並んだパネルを見て、貴文の目線が迷いなくこの部屋に向けられたのを確認し、更には「なっつ」と言う謎の言葉を発したからだ。
しかも貴文は、部屋に入ってから「内装そのまんま」とまで口にした。これはもう確定で間違いないだろう。ふつふつと湧き上がる未だ見ぬいや、永遠に相見えることの無い貴文の過去の女に対する嫉妬心。それを必死に押し殺して義隆は何も知らぬ素振りでアレコレと貴文に質問しまくったのだ。そうしたら、貴文は健気に一つ一つ丁寧に教えてくれて、ついには自ら義隆を受け入れてくれた。
まるで閨教育かと思えるほどに、どこをどのようにするのかを懇切丁寧に教えてくれたのだ。だから必死に我慢して、聞き分けの良い生徒を演じたわけなのだが、貴文の膝から力が抜け、一気に胎内に入り込んだ瞬間理性が吹き飛んでしまった。
だから貴文が腰を浮かせて抜け出そうとした瞬間、体位を入れ替えてしまったのだ。何しろ貴文はとてもいい匂いを醸し出していたのだから。ヨダレがたれそうなぐらい、貴文のうなじに噛みつきたかった。
「はぁ、全室、ですか」
おそらくバイトらしいフロントはどうしていいのか分からず辺りをキョロキョロしていた。目の前には一之瀬家の秘書と名乗るスーツ姿の男。どう見てもアルファだ。
渡された名刺には田中 光友と書かれていた。企業名ももちろん知っている。
「あの、オーナーに連絡してもいい、ですか?」
「はい。そうしてください」
許可が降りたので急いで短縮からオーナーへと連絡をすれば、不機嫌そうな声が聞こえてきた。
『休日はかけてくるなと言ってるだろう』
「オーナーそれどころじゃありません。っの、一之瀬家の人が来てるんです」
『はぁ?お前なぁふざけたこと抜かしてるとバイト代差っ引くぞ』
「ふざけてなんかいませんよ。オーナーこそ、そんな態度で後でどうなっても知りませんからね。とにかく至急来てください。こなかった場合、俺はどうなっても知りませんからね」
言うだけ言って電話を切れば、一之瀬家の専属秘書だという田中という男は、掃除のパートの女性陣に何やら封筒を渡していた。みんな口々に礼を言ってさっさと事務所を出て行ってしまった。最後の一人がやってきて、耳元でコソッと言ってきた。
「あんたも貰うもん貰ってさっさと帰ってった方がいいよ」
それができるのならしているところだ。
「あの、田中さん?オーナーには連絡を入れました。すぐ来るように伝えました。けど、来るかどうか、は」
「分かりました。大丈夫ですよ。あとはこちらで対応します。あなたも、お疲れでしょう?今日のところはお仕事上がって頂いて結構ですよ。どうぞ、こちらを受け取って下さい」
手に握らされた茶封筒はやや厚みがあった。1枚2枚の厚みでは無い。思わず喉が鳴ったが、黙って何度も頭を縦に振るしか返事のしようがなかったのも事実である。
それらしく見せるためだけのジャケットのような制服をロッカーにしまい、自前の上着を引っ掛ける。渡された茶封筒はしっかりとカバンの中にしまいこんだ。裏口から出れば、既に誰の自転車も無くなっていた。泊まりがけのバイトだったから、スクーターで来ていたのが幸いした。ラブホの駐車場には黒塗りの高級車が数台停まっていたのだ。
スクーターを押して敷地から出た途端、エンジンをかけていたスクーターに飛び乗りフルスロットルで逃げ出した。もしかすると二度とここには来ないかもしれない。そんな思いが頭の片隅をかけていった。
「ふむふむ、一泊でも六千円とはお安いですね」
田中はラブホの事務所兼フロントにある書類を勝手に読んでいた。休憩と泊まりで料金は違うようだが、それが一部屋の料金なのだから安いと判断していいのだろう。ただ、モーニングと呼ばれる物がトースト一枚とコーヒーのみらしいので、その辺は改善して欲しいものである。
「全ての部屋の点検が終わりました」
報告に来たのは一之瀬家お抱えのシークレットサービスである。本家嫡男である義隆の安全のため、義隆が今いる部屋以外の点検をしていたのだ。
「特に怪しいものは見つかりませんでした。使用されていた部屋は二部屋で、既に退室されています。その部屋の掃除についてはしないで帰ってもらいましたので、現状維持です」
「では、その部屋ぐらい掃除してあげなくてはいけませんね」
「了解しました」
シークレットサービスだと言うのに、田中の返事も聞かずに出ていってしまった。おそらくその二部屋を掃除するのだろう。確かに手持ちぶたさではあるので、体を動かしたいだけの可能性はあるかもしれないが。
「しかし、来ませんねぇ」
既にこのラブホテルについては調べが済んでいる。オーナーはここから車で15分ほどのところに住んでいることになっていた。酒でも飲んでいない限りそろそろ来てもいい頃だ。だが、フロントのバイトが電話をかけた時の様子だと、現状を信じてはいないようだったので大分怪しい。
「まぁ、来なかったとしても構いませんけどね」
全室使用中にしたから、国道や県道に出されているこのラブホテルの看板は満室の標示が点されているから、新規の客が来ることは無いはずだ。日も暮れて来て、そろそろ夕飯時である。他の客が来る前に押さえられたことは幸いであった。
「ねぇ、お兄様」
ようやくやってきたかと思えば、ドアから覗いた顔はよく見知った妹の麻子だった。
「なんだ?」
「お部屋は全て押さえありますのよね?」
「そうだが?」
「では、一室ぐらい私が泊まってもかよろしいかしら?」
妹の申し出は突拍子も無さすぎて、田中は直ぐに返事が出来ないでいた。
「だって、真也さんとあとを着けたのは私ですのよ?何かご褒美があってもよろしいではありませんか」
仕事なのにご褒美を要求してくるのだから困ったものである。もっとも、麻子が勝手に真也の尾行に便乗しただけである。
「どうしてここに泊まるのがご褒美になるんだ?」
「それはもちろん、このチープさなのに温泉があるからですわ。義隆様のいる部屋と、一階にある特別室だけなんですけど」
それで田中は合点がいった。だから貴文は初めてにあの部屋を使用したのだろう。温泉の露天風呂気分まで味わえるのだから、学生からしたらお得感満載だったに違いない。
「つまりお前は一階の部屋に泊まりたいということか」
「ええ、そうよ。ついでに真也さんを貸していただくことは?」
「却下だ」
「もう、イジワルね。一人で泊まります」
そう言って麻子は、鍵をひとつ持って行ってしまった。
「却下は真也だけに言ったわけじゃない」
そうは言ったものの、この時間になって帰る足がないのも確かだった。
結局、このラブホテルのオーナーがやってきたのは三日後だった。




