The World is malicious, The Life is on cloud nine.
「ごくごくって飲むさけより、ぐびぐびって呑む酒の方がいいよなぁ」——〈管理人〉ベゼ・ソルトイリア・ラーマン
「おはよー。今日も早いねー」
朝、玄関から出ようとすると、後ろから声をかけられた。振り返ると、ひどいアルコール臭を漂わせた痩せた女性が玄関近くの管理人室から顔を出していた。
顔色はすこぶる悪く、肌は無駄に青白く血管が浮き出ている。血の巡りが悪いのか、頬はこけていて、常に幽霊のような陰気な雰囲気を漂わせていて、夜中に会いたくない人物筆頭だ。
髪の色は赤っぽい。イリアのような真紅ではなく、どこか茶髪っぽさがある。管理人室から身を乗り出した彼女はよれよれのタンクトップ一枚だけというあられもない姿で、しかし全くと言っていいほど色気を感じないのはその不衛生すぎる外見ゆえだろう。
「ベゼ。相変わらずなんか、臭いな」
「うっせー、クソガキ。あたしゃ、飲みたいから飲むのよ、うっひ」
そこはヒックだろう、と呆れながら女性を、ルードベーゼ・ソルトイリア・ラーマンを見つめた。ベゼは彼女の相性だ。
彼女は「文月荘」の管理人だ。寮母とも言う。普段から飲んだくれ、体の臓器がいくつか不全状態というひどい体の持ち主だ。つい昨日まで寝込んでいて、ズルズルと体を引きずって起き上がった彼女はここ数日の栄養不足も相まって、いっそう不健康そうだった。
そんな彼女の右手には真新しい酒瓶が握られており、それは栓が外れ、すでに口を付けているだろうことが窺える。どこでそんな酒瓶を手に入れたのか、と頭をひねる。寮内の酒類は全部回収し、鍵をかけて厳重に保管しているはずだが。
「あっっはは。いいでしょ?あげないぞー」
「あのさー。飲む飲まないはベゼの勝手だけど、あんま飲みすぎると死ぬぞ?」
真面目に高血圧か膵炎で死ぬんじゃないかって思う。嫌がるベゼの手から酒瓶を取り上げ、俺はそれを彼女の目の前でぐいっと飲み干した。あー、と彼女はかすれた声で叫ぶが、知ったことではない。
あさっぱら酒を飲むなど全くけしからん。それもこんなにうまい酒を。すべて飲み終え、その酒瓶を空にすると、ベゼはあーうー、と心底口惜しそうにうめいた。
「かんせつキッスだーちゅっちゅちゅちゅー」
「ほんとさー。マジで酒はやめとけって。入院することになるぞ?」
「ひいい。こわーい。いひひ、そん時は毎日見舞いにきてよー」
「そうしたくないからちゃんと健康的に生活しろって言ってんの。酒、タバコ、ドラッグ。これ体を壊す三種の神器だからな?」
まだ体が動くだけマシかもしれないが、それはまだ若いからだ。それでもこの飲酒量は若さゆえの過ちと放置もできない。いっそ簀巻きにでもしておこうか。
「んー?てか、あたしにかまってていーのー?学校、遅れちゃうよ?」
ベゼに言われて時計を見る。時間は午前8時を過ぎていた。8時半までに講堂に集合だから少し時間が怪しいかもしれない。
簀巻きにするために取り出したロープを置き、俺は慌てて外に出た。ばいばーい、と喜色のまじった見送りの言葉が背後から襲ってきたが、それを蹴っ飛ばして、具体的にはドアを蹴り閉めて学校へ向かって走った。
走った結果、学校に到着したのは8時20分ごろだった。講堂にはその日の朝から警備を担当する風紀委員が集められ、そこにはアリスやクロア、メイスの姿があった。
「おはよー。今日はだいぶ遅かったじゃん」
「出る前にベゼに捕まった。あいつ、酒飲んでたよ」
「え、マジ?なんで?」
「知らね。金庫破りでもしたんじゃない?」
肩をすくめる俺にアリスはしっかりしてよー、と苦言をこぼす。俺は別にベゼの保護者や秘書ではないんだが。
ぶつくさ文句を言うアリスを尻目にぐるりと俺は講堂内を見回した。講堂内には前日までよりも多くの風紀委員がいる。イリアあたりが手を回したのかもしれない。
よく見ると昨日まではいなかった選挙管理委員会の面々も見える。腕章の色が白いからボランティアの生徒だろうか。どういうことなのあれ、と近くにいた黄色い腕章を付けた選挙管理委員会の生徒に聞いてみると、その生徒は肩をすくめた。
「昨日の騒動で窓口を担当してた人とか、何人かが軽いショックを受けてしまって、もともと人員に余裕がなかったので、急遽雑用係として入れました」
「大丈夫か、それ」
俺と同じことを思っていたのか、その生徒は困惑顔を浮かべた。彼自身も上の判断に困っているようで、互いに大変だね、などと傷の舐め合いをしていると、後ろの方から俺を呼ぶ声が聞こえた。
どーしたー、と俺は振り返って呼ばれた方に向かう。イリアも九条燕先輩もいない中じゃ俺は実質、現場監督官だ。ツェニータ先輩でもいれば、先輩がこの仕事を引き受けたのかもしれないが、先輩は講堂の警備を外されている。
「警戒されてるってことかな?」
「警戒って?」
「なんでも。それよりもアリス、そろそろ、外の方に行ってくれ。あ、不良のやつらが来たら弾いとけよ?」
「りょーかい。がんばがんば」
そう言ってアリスはクロアを連れて講堂の外に出て行った。騒がしいのが消えると途端に講堂内が静かになったように思えた。無論、だからと言って呼ばれないわけではないから、相変わらず忙しいが。
9時のチャイム、一限目の始まりを告げるベルが鳴ってしばらくすると、外が騒がしいように聞こえた。授業時間ではあるが、単位制ということもあって授業がない生徒も大勢いる。だから外が騒がしいのは別におかしいことではない。
けれど少しだけ気になった。様子を見るため、講堂の外へ行くとそこにはかなりの生徒が待ち構えていた。出てきた俺に何やら敵意や疑念に似た眼差しを向ける彼らに首をかしげながら、入り口にいたアリスとクロアに事情を聞いてみた。
しかし二人も状況がわかっていないのか、首を横に振るばかりだ。困ったな、と頭をかいていると、不意に集まった群衆をかき分け、見知った連中がこっちへ向かって歩いてきた。
「あれ、木兎場?それと、イリア?」
集団の先頭には木兎場、そしてイリアがいた。どちらも視察に来たという雰囲気ではなく、どこか深刻そうな顰めっ面を浮かべていた。二人の後ろには選挙管理委員会の面々がおり、そのほとんどが黄色の腕章を付けていた。
「千乱ー?いるー?」
イリアに呼ばれたので前に出た。よく見るとイリアの右手にはくるっと丸められた一枚の紙が握られていた。何かあったことは確実だ。話を聞かれてもまずい、と思い二人を講堂の中に入れ、話を聞くことにした。
「千乱、実は」
「——おお、これは奇遇だな。まさか、風紀委員会の委員長と係争調停委員会の副委員長が同座しているだなんて」
イリアが何かを言おうとした矢先、不意に入口の方から耳障りな奇声が聞こえた。金切り声というわけではなく、雑音や不協和音に近い音を聞くと心が削られていくように感じるのはなぜだろうか。
声がした方へ俺は視線を向ける。イリアと木兎場も振り返った。
そこにあったのは昨日見たばかりの顔だ。髪の色は金色。顔立ちはアングロサクソン人、つまりイギリス人のそれ。身長が高く、俺やイリアを見下ろすほどだ。手足は長く、それでいてただ雑草のようではなく、バランスがとれた長さだ。その手にはイリアが持っているものと同じデザインの用紙が握られていた。
生徒会副会長、イージス・トレンドは俺たちを蛇のような目で舐め回すように一瞥し、不適な笑みをたたえて屹立していた。誰かの邪魔になるとか考えることなく、講堂の入り口を塞ぐ形で。
「トレンド先輩はなぜこちらに?呼んではいないはずですが?」
「呼ばれずともくるさ。後輩が心配だからね」
挑戦的かつ敬意のない言葉遣いでイリアは問いかける。不遜な物言いに対してトレンド先輩は不満げな姿をおくびにも出さない。寛大な先輩を演じているきらいがあり、心底気味が悪かった。
「イリア、説明。なんかあったのか?」
「あー。実はー」
「いやなに。ちょっとした出来事さ」
そう言ってトレンド先輩は手の中にあった用紙を広げてみせた。それは両面新聞、壁新聞部が平日毎朝発行している学院内の情報誌だ。壁新聞部は島城が属している新聞部とはまた異なる報道系の部活だ。両者は対立関係にある。
まぁそれはいい。問題は新聞の内容だ。
「『風紀委員会の大失態!?講堂にて暴力事件!!!』。なんだこれ。センセーショナルなタイトルじゃないか」
「そうだろう、そうだろう。昨日の事件を面白おかしく語ったものらしい。いやはや、教育的指導が必要だね」
心底同情するよと言いたげな目線をトレンド先輩は向けてくる。余裕があり、そしてどこか含みがある言い方に少しだけ苛立ちを感じた。
感情はそのままに俺は新聞に視線を戻した。内容はごくごくシンプルで、昨日の事件のあらましについて書かれている。A3くらいのコピー用紙一面に書かれるほど密度があった話ではないにも関わらず、話の大部分をでたらめな流言飛語で埋められており、やれ風紀委員がよそ見をしていただの、煽るようなことを言って犯人を逆上させただの、散々な内容だ。
壁新聞部の記事として見れば内容の突飛さなどから信憑性もないように思える。いくぶん扇動的で、派手な見出しで気を引くことはあっても、これを信じる人間というのは限られる。だが、事実として講堂内でデオンが暴行事件を起こしている。それは風紀委員会の失態と捉えられてもおかしくはない。
「こんな記事を書かれるほどだ。風紀委員会の信用問題になるかもしれない。今後の生徒会選挙の警備を君たちに一任するにあたり、こういった問題は早めに解決したくてね」
「で、なにを?この場に先輩がいらした意味とは?」
「ルージュ。君は直截だね。そこが君のよいところなのだけど。——生徒会の人間として要請したい。速やかにこの事態に対する抜本的な解決を求める。私にできることがあれば協力もしよう」
「へぇ?随分と協力的なんですね」
イリアは不遜な態度を崩さない。木兎場は黙ったままだが、疑うような眼差しをトレンド先輩に向けていた。俺自身はどういう反応をするのがいいだろう。忠犬を演じるか、バカを演じるか。そんなことを考えてる時点で、もうどう振る舞っても手遅れかもしれないが。
話をトレンド先輩の要請に戻そう。トレンド先輩の「要請」は生徒会の人間としてのものならば、決して間違ってはいない。くだらない記事に踊らされる形ではあるが、なんらかの対策を取りました、というポーズを取れば最低限の信用失墜は避けられる。
「具体的にはどういった方法をお求めに?人員の増員でしょうか」
木兎場の問いにイージスは意地悪な笑顔を浮かべた。まるでペットの小動物を眺めているかのようだ。あるいは狙い通りだとでも言いたいのか。
「解決策の中身は君たちで決めてくれ。それに口を出すと生徒会が公平な選挙に干渉していると受け取られかねない」
「あくまで要請ってことですか?えっと、それだとこちらに」
「アホ、要請ってのは建前でしょう。これは命令よ。公平な選挙なんて言ってるのもただのポーズよ、ポーズ」
「そこまであけすけなく言われるとこちらとしても、うん。まぁ、ルージュの言う通りではある。ただ建前は建前として守ってもらいたい」
要請は嘆願に近い。聞く道理はなく、受ける義理もない。命令ならば聞かねばならないが。
「わかりました。外の巡回から何人か回します。それでいいですか?」
「ああ、もちろん。悪いね、人員不足なのに」
うわー皮肉。意図的かどうかはともかく、イリアを煽っているように聞こえてしまうのは風紀委員会の内実がとかく燦々たるものであるからだろう。イリアも自制しているように見えて吊り上げた口端がピクピクと動いていた。
言いたいことだけを言ってトレンド先輩はその場から去っていった。残された面々は互い互いに顔を見合わせ、困惑した様子を隠さない。かく言う俺自身もトレンド先輩の強引さに驚きを禁じ得なかった。
「イリア。どうするんだ?」
人員の当てなんてないぞ、と言外に込める。さっきイリアが口にした「巡回」というのは外回りをしている風紀委員だ。代表例はツェニータ先輩などだ。六人ちょっとではあるが、講堂周辺をぐるぐると回って警戒している。
無駄なように思えるが、過去に講堂の外から受付めがけて魔術で狙撃をしようとしたアホがいた。密閉された場所ではあるが、魔術を使えば赤外線センサやサーモグラフィーのように内部を把握することができる。外の巡回はそういった襲撃者を警戒するための布石だ。
「ツェニータ先輩はそのままとして、燕ちゃんに頼むかな」
「二人だけで回れるのか?いっそクロアか俺がそっちに」
「いや。あんたはここに残って。業腹だけど、何があってもあんたら二人ならどうにかできるでしょ」
「昨日はトラブル起こしちゃったけどね」
「あんたが中にいたらそもそもナイフ取り出すまえにどうにかしてんでしょうよ」
「ナイフってこれのこと?」
「あんたねー。それ一応、証拠品よ?」
俺が内ポケットから取り出したのは昨日の騒動でデオンが使ったペーパーナイフだ。刻印されている魔術が面白いのと、普段使いするために持っていたものだ。
やれやれとばかりにイリアは首を横に振った。
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