The Actor
汗臭く泥臭いハース・カーシャはうぐぅ、と唸り、おずおずと芋虫にように這いながら風紀委員室に入ってくると、ドサリとソファの上に身を投げた。せめて泥を落としてからそういうことはしてほしい。掃除をするのはハースではなく、俺なのだ。
そのままイビキをかき、腹でも描き毟りながら休日のパチンカス親父よろしく寝に入るかもと思っていたが、意外にも彼女は身を起こして話す姿勢になった。
見れば、体のあちこちに切り傷が見える。太もも、ふくらはぎ、二の腕、頬と痛々しい生傷が目立ち、まだ完全に塞がっていないのか、彼女が体を擦らせればその箇所から血が吹いた。うつ伏せになった時には巨大な傷が背中にできていた。
泥だらけと形容したのも決して大袈裟な表現ではない。黒いはずの靴はほぼほぼ茶色で、落ち葉や木の葉が制服にひっかかり、極め付けには泥パックでもしていたのかと疑いたくなるほどに彼女の顔は汚れていた。
腐敗臭もただ事ではない。1日風呂に入っていないどころの騒ぎではなく、最低三日は風呂に入っていない人間の放つ腐臭だ。魔術師から腐敗臭がすること自体は珍しくないが、衣服まで変えていないせいで、峠のパーキングエリアにあるトイレみたいな鼻がひん曲がる激臭を放っていた。
鹿島以外の全員がこの激臭には耐えられなかった。慌てて窓を開けて換気を行ったおかげ大事に至ることはなかったが、下手をすれば大惨事になっていた。具体的には風紀委員室のものが丸一日近寄れないほどの激臭を帯びていたかもしれなかった。
ファブリーズ、ファブリーズと消臭スプレーを吹きかけながら、傷の手当てをしていくわけだが、その傷の種類は予想以上に多種多様だった。ただの鉄製の刃物で付けられたものもあれば、炎のようなもので炙られた形跡もある。毒によって傷跡が膨れ上がっているものまであった。背中の巨大な切り傷などは一撃で付けられたものではなく、いくつもの攻撃が重なった結果だ。
かつては大理石のように純白で艶かしかったハースの背中は今やみるも無惨、真っ赤に染められて付けられた傷口からは血が泡状になって膨らんでいたり、燻っていたり、固形化したりしていた。見るからに痛々しく、常人ならばこの傷を負った時点で死んでいてもおかしくはなかった。
それでも彼女がショック死や失血死しないのは半ば自動的に傷を負ったら停滞魔術で状態を固定化しているからだ。通常、人体そのものに停滞魔術を使うことはできない。だが流れ出る血や肉体の変化を現象として捉えられれば活動を停止させることは可能だ。俺にはできないが、ハースにとってみれば10年以上の付き合いである魔術だから、性質も熟知していて可能なのだろう。
おかげで手当ても比較的容易だった。手当てと言っても傷口に包帯を巻いたり、軟膏を塗ったりという初歩的なことしか俺にはできない。せいぜいが止血程度、これ以上の治療を望めば、医務室に担ぎ込むしかない。
一通りの治療を終え、ハースの容態も落ち着いてき、彼女はゆっくりと眠りに入ってしまった。ここまでの作業を終えるのに大体一時間くらいだろうか。もう時計は8時を示し、ハースが駆け込んできた時は俺を含めて3人しかいなかった委員会室も随分と賑やかになった。
だが、その中に慎二はいなかった。イリアや九条燕先輩に聞いてみたが、今日はまだ見ていないと彼女らは返した。そこに嘘はないだろう。どっちも劉に与するとは思えない。なんなら、一年半前の事件で最も劉の処遇に反発していたのはイリアであり、九条燕先輩だ。なんであいつを逮捕できないんだ、とか激昂していた記憶がある。
今に思えばツェニータ先輩が風紀委員長の座をイリアに分捕られたのはそれからすぐだった気がする。よほどおかんむりだったのだろう。
その後もゾロゾロと人は入ってきたが、やはり慎二はいなかった。その内予鈴が鳴り、一限目がある奴らは次々に委員会室から出ていった。ハースが目を覚ましたのはそのあたりだ。
「んぅうう?うるさい」
「あ、起きた」
予鈴が鳴る間近、一限目のある奴らがゾロゾロと出ていく音でハースは目を覚ました。いたた、とまだ塞がり切っていない傷を押さえて、起き上がった彼女は肌の色が青白く、すこぶる顔色が悪かった。致死量の失血、それを無理やり魔術で押し留めていた結果だ。
止血の魔術、治癒の魔術、解毒の魔術は存在するが、そのすべてを使える魔術師は必然的にそれ以外の魔術が不得手になる。魔術は万能だが、魔術師は万能ではないのだ。
「患部を凍らせてるから失血はそれほどひどくはないと思うけど、体調はどう?」
「背中痛い」
「痛覚を麻痺させる薬でも打とうか?」
「いらない。それよりもあたしってどれくらい寝てた?」
ざっと一時間ほどだろうか。時計を見ながら逆算してみると、意外にも一時間半くらいは寝ていた計算になる。ハースにそのことを話すと、彼女は絵画にでもしたいくらいいい構図で悔しそうにあるいは唖然として眉間に親指の第一関節を押し付けた。
逆光でも浴びていれば綺麗なシルエットが出来上がったに違いない。写真ならば写真集の表紙に使いたいくらい素晴らしいポーズだ。カメラはどこだ、墨汁でもいい。魚拓ならぬ人拓にしよう。
「なんで起こしてくれなかったの、このバカ弟子」
「受験生の母親じゃないんだから、どーしてわざわざ起こさにゃならんのよ?」
「バカ弟子は気が利かないわね。まぁだからバカ弟子なんだけど。まぁいいわ。——真面目な話をしよっか」
俺はいつだって真面目だ。真面目にバカ話をするし、真面目にふざけるし、真面目に授業をサボるし、真面目に図書室で居眠りをする。すべからくすべての行動を「こうしよう」と決めたら俺はそれに邁進する。
だから真面目な話をしよう、と言われるのは業腹だ。まるで普段の俺は意味もなく、理由もなく、新年もなくふざけているようではないか。訂正してもらいたい、と言いたい気持ちが逸るが、話の腰を折っても面白くはない。ハースが委員会室に来るなんて滅多にないことな上、あの傷だらけの姿から察するに相当の大事と見るべきだ。
「……いいぜ、話してみろよ」
「なんか、打算した?」
「いや、なにも?」
そう、と彼女はこちらを疑るような目を一瞬向けた。引っかかる行動だな。
「まずは結論から。バカ弟子、あなたの後輩、やばいことになってるよ?」
俺の後輩というと誰だろうか。慎二はもちろん、メースやフィルガライト、テラリアと色々と顔ぶれは浮かんでくるが、やはりこの場合は慎二のことを言っている気がする。
「慎二のこと?」
「そう、それ。その子が劉廉羽に脅されてるのを見ちゃったんだよね」
唐突なカミングアウトを受けて、一瞬だが脳の思考が止まった。即座に反応を示せない程度には機能が麻痺していたせいか、いつの間にか俺の前でブンブンと振られていたハースの左手の接近に俺は気づけなかった。
気を取り直して話を聞いてみると、内容は実にシンプルだった。慎二が劉に脅迫される形で捜査妨害を行い、彼につながる証拠をことごとく揉み消してきたという内容だ。
それは俺が慎二の机の中から発見した偽造証言の書類だけではなく、例えば劉が女子院生と情事を行った際に飛び散った体液が染み付いたシーツの廃棄、その他多数の物的証拠になりうるものの排除を慎二は命令され、実行したということだ。その中には劉が魔術を使った残滓についての記録もあったという。
「ふざけた話だな」
「本当にね」
どこか他人事のようにハースは笑みを浮かべる。こんな話を聞いた彼女は、おそらく劉の追撃を受けてボロボロになっているだろうにどうしてここまで我関せずを貫けるのだろうか。
しかし、彼女の態度とか性格はさておいて、これは有益な情報だ。真偽はともかく、一気に劉に近づくことができる好機をもたらしてくれた。
「それ、信じるの?」
傍から疑問の声を上げたのはイリアだ。相変わらず彼女は不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。イエスともノーとも言わない俺が肩をただすくめると、呆れたようで彼女はため息を吐いた。
「劉を捕まえるチャンスではある。そのためにもまずは慎二の居場所を把握しなくちゃな」
「慎二を拷問にでもかける気?別に構わないけど、あんまり荒事にだけはしないでね」
もちろん、と俺が胸を張って返すと、なぜかイリアはほどほどにね、と答えた。どういう意味だ。
そうと決まれば早速鹿島にお伺いを立てよう。彼女の占いの技術は群を抜いている。どこぞのバカ組織のよく外れるへっぽこ予言者よりもよっぽど信用できる。
だがしかし、悲しきかな。彼女は絶賛ゲームの真っ最中だった。仕方なくテレビのリモコンで画面を消して、ぐぎゃーと叫ぶ彼女に無理やり占わせることにした。ドSだなーというハースだかイリアだかの声が聞こえて気がするが、気にせずに占わせることにしよう。
「やだー、せんちゃん先輩きらーい」
「散々体を洗ったり、風呂に入れてやったりしただろ!たまには自主的に働け」
「今月はもうせんちゃん先輩のために働いたじゃん!」
「九条燕先輩に言われてなぁ!自主的に働け、自主的に!」
ゴリゴリと鹿島の左右のこめかみ目掛けて圧をかけてやると、ぎゅわーとうめきだしジタバタと両手をトンボみたいに上下に動かして抵抗したが、背丈を考えれば俺の拘束を彼女が解けるわけもない。縛首になった受刑者よろしく空中に浮かされ、ジタバタする鹿島はやります、やりますと半べそをかきながらメイスに占い道具を持ってくるように言った。
*




