Maria of Old Days
結局、その日は早々と仕事を切り上げて下校してしまった。
やることがなかったというのもあるが、イリアや九条燕先輩、ツェニータ先輩らが次々と帰り支度を始めると、つまり上司が帰り支度を始めると部下ももういっか、と思うし手早く仕事を終わらせて明日の自分へ丸投げしたくなるのは真理だろう。
上司という監視機構は部下にほどよい緊張感を与え、その仕事の質を向上させる。見ているぞ、という意識が人間の中にある怠けたい、サボりたい、手を抜きたいと言った怠惰な感情を抑制し、自然に机と向かい合わせるのだ。これを例えるなら只管打坐だ。老和尚のごとく指して構える上司の厳しい視線のもと、労働力を抽出される機構は古くから完成していたのだ。
ただそれは上司という監視の目がなくなればすぐにでも崩壊してしまう脆い機能であると言える。現に親の目が届きにくくなった大学生は奇行に走ってドラッグや飲酒に興じるだろうし、上司がいない出張などでは平社員は羽を伸ばすどころか風評被害を撒き散らす。
すべからくすべては見られている意識が重要だ。横断信号だって暗い夜の、1人しかいない状況だったら赤信号だろうと渡るし、泥棒なんていうのは白昼堂々やるものではなく闇夜に紛れてコソコソするものだ。人の目があれば大抵の人間は清廉潔白、真面目ちゃんを演じて常人の皮をかぶる。
それは魔術師も変わりない。
多くの魔術師の最終目的は神の座に到達することだ。神という漠然とした存在に成りたいと目論む愚かで卑賎な行為、それゆえに魔術師はあくせく努力するが、それはただ神に成りたいと目論むからではなく、周りの目を気にしているからでもある。周りの目とは内外の目だ。一族内、一族外のこちらを値踏みするような遠慮も深慮もない好奇の目を意識して一歩ずつ一歩ずつ地道に進まなければとてもやっていられないほどに、神への道は長く険しい。
通常、魔術師1人の寿命で神の座に到達することは敵わない。それは、一万光年先の星まで続く道を用意したので、これを歩けばその星まで辿り着けますよ、と言うようなもので人間1人では到底歩き得ない道だ。だから魔術師は自分の子孫達に思いを受け継がせる。それが魔術式であり一族だ。
情熱は終わりが見えるに連れて枯れ始める。特に魔術師はその情熱の彼始めが早い。最初に先代から魔術式を受け継いだ時点で、ある程度自分がどこまでいけるかというのがわかるのだとか。何歩進めるかわかってしまった時点で自信の喪失を味わうか、子孫のために奮起するかはさておいて、その枯れ始めた情熱を長生きさせるのは先にも言ったように周囲の目だ。
只人の世界だとうと、魔術師の世界だろうと、やはり監視は重要だ。監視がなくなったら、どっちも自由奔放になって途端に堕落する。
その点、我が「文月荘」はその最たる例と言えるだろう。なにせ事実上の学生自治をやっているのだから、何をやるにも自分で判断せねばならない。
昨日、一昨日の歓迎パーティーによってハメを外しすぎた俺達は帰ったら早速、その後片付けに追われていた。寮に帰ってみると、団欒室の方からエリスの怒鳴り声が聞こえた。聞きしに迫る怒声、簡潔に言えばめちゃおこ状態の罵声と言ってもいい怒鳴り声が入り口まで聞こえてきて、急いで俺は巻き込まれないように名札をめくらないまま2階へ駆け上ろうとした矢先、不意に背筋に悪寒が走り、足が止まった。
「戻っていたのか、千乱。おい名札をめくり忘れているぞ。気をつけろ」
ギィギィと床をきしませ、近づいてくるその声の主は俺の背後にぴったりと着くと左肩に手を置いた。日頃の数倍大きいと感じたのはきっとやましいところがあるからだ。恐る恐る振り向くと、すぐ目の前に見慣れた紺色の少女が微笑を浮かべて立っていた。
頭には頭巾、右手にはモップを持ち、制服ではなく普段着である彼女。無地の半袖にジーパンというありふれていうようで、意外と市中で見ない姿にちょっとだけ俺が面食らうも束の間、すぐに状況を思い返し、見惚れる間もなく地獄に叩き落とされた。
そうだ、俺は今死地にいるのだ。エリス主導の大掃除を無断でバックれようとしたという罪によって、今まさに地獄のミノス王であるエリスに断罪される間際なのだ。
ミノスの前ではどんな嘘も意味をなさない。ましてエリスは俺の心を見透かしたかのような行動や言動をとることがあるから、余計にまずい。実は腹痛が、とか嘘を吐けば最後、首に巻いているマフラーを引っ張って俺を団欒室へ連行するだろう。
俺の勝利条件は大きく分けて三つ。一つ、エリスの逆鱗に触れないこと。一つ、円満解決をすること。一つ、この状況を打開する策を考えること。そのどれもが今の俺には思いつかない。はっきり言って無理、彼女の激情を制する手段など俺にはない。なぜなら逃げようとした時点で俺はすでにユダなのだから。
「貴様、どうした?表情をコロコロ変えおって」
怪訝そうな目で俺を見つめるエリスの視線が痛い。俺の動揺を理解して、今頃はその悪辣なる脳みそで俺をどう料理してやろうかと企んでいるに違いない。
ああ、恐ろしきかな、緋色の雷光。一体どうして俺はこんなお化けのような奴を腹の中に入れてしまったのだろうか。
きっと制裁とか言って雷撃を浴びせられるに違いない。いや、雷撃で済めばまだいい。「ほう、元気がないどれ心臓マッサージをしてやろう」とか言って心臓目掛けて高密度の一撃を叩き込む可能性もある。どんな人間も内臓までは鍛えられない。雷を直接心臓になど喰らえば心停止してしまう。
さらば、人生、さらば生涯。俺はこれから処罰されるんだ。思えばつまらない人生だった。あのまま出奔などせずに胃の中の蛙でいればどれだけ楽だったか。俺の人生は本当にケチがついてばっかりだ。
「おい、千乱。貴様、どうした?」
パチン。
デコピンをされた。最近薄毛が進行していたことが災いして、眉間が余計に広くなり衝撃はつぶさにまで伝播した。
「痛い!暴力だ!」
「呆けている貴様が悪い。それよりもどうした?貴様らしくもなく動揺するわ、オーバーリアクションをするわ。院で何かあったか?」
「え、ああ、え?エリスが、優しい!?」
「貴様、殴られたいのか?とにかく荷物をさっさと置いて下に降りてこい。掃除しろ」
プリプリと不機嫌そうに顔をしかめたので、早々にその場を離脱することにした。わかったよ、とだけ言い残して三階まで駆け上り、すぐに鞄を部屋の中へ下ろすと息つく暇もなく一階に降りると階段の前でエリスは待っていた。
彼女は手に持っていたモップを俺にわたすと、無言のまま団欒室の方へ向かって言った。その背中を、つまり張りのいいジーパン越しでも伝わってくるエリスの尻を追いかけながらついていくと、アリスと島城、そしてデューンがひぃこら言いながら残飯の掃除をしていた。
「貴様ら、もっとキビキビ働け!そんなことではいつまで経っても掃除は終わらんぞ!」
「「「うぇーい」」」
平時は、いや平時からだらだらとしていることが多い三人だが、今回は輪をかけて元気がない。覇気がないと言ってもいい。いつもならもっとはきはきと喋るアリスやデューンに至っては島城以上の長時間労働をしていたのか、足がガクガクだ。
一昨日の夜から昨日の夜にかけて、散々飲み食いをしたツケは異常なまでに汚くなり、なおかつ酸味のある激臭があたり一面からただようカオスでヘドラな空間になったわけだが、その掃除をするとなれば一時間、二時間ではすまない。四時ごろに院の授業を終え、帰ったはずのエリスとアリスが17時を回ってもうすぐ18時になると言うのにいまだにモップでゴシゴシと床をこすっているのがいい証拠だ。
バケツの中を見てみれば黄ばんだ液体の中にオレンジや緑、茶色の固形物が浮かんでいたり、沈殿していたりといかにエリスとアリスが帰ってきた時に汚れていたかが窺い知れる。急いでバケツに入った吐瀉物を中庭に捨て、水洗い場から新たに水を汲んできた。
汚れたテーブルクロスをランドリーにぶちこみ、雑巾掛けをかかさず、ほうきで大きいゴミなどを掃いてようやくまともに直視できるくらいに団欒室が綺麗になった時、ゴーンゴーンと部屋に飾ってある古い振り子時計が鳴って、18時であることを知らせた。その頃になると窓の外はもう真っ暗で、灯りの灯っていない廊下は薄暗く、少しだけ肌寒かった。
「あー腰いてぇ」
「うー、持病のヘルニアがー」
島城とアリスがなんか言っているが、無視しよう。ようやく終わったと俺も腰を叩き、団欒室から出て行こうとした矢先、不意にエリスに呼び止められて振り向くと、彼女は真剣な眼差しでちょっといいか、とでも言うかのように真っ暗な窓の向こうを指差した。
いかに赤道に近いとはいえ、まだ春の終わりだ。気候で言えば沖縄と同じくらいでやはり夜間は冷える。上着を着ていくほどではないが、今のエリスの服装だとちょっと心許ないのは否めない。仕方なくインスタントのエビ殻スープを持っていってやると大層喜んでくれた。




