Versus Astra
「ぶっ殺してやる、僕の全身全霊をかけて、あのアバズレをぶっ殺す!」ー〈十二騎士〉グレイ・サーデラ
今更ではあるかもしれないが、研究棟にある尖塔はかなり広い。最大半径にして40メートル、俺やエリス、アリスにグレイが今いる3階は屋上まで吹き抜けになっていて、縦にも横にも最も大きいスペース、言うなれば魔術師が魔術時の実験をする際に使う実験室的役割の部屋だ。
エリスがさんざん雷を撃とうが、グレイが風をびゅうびゅう吹かせようが問題なかったわけだ。とはいえ、グレイ自身に整理整頓の意識がないのか、実験室にも関わらずやたらめったら資料っぽい本はいくつも積み重なっているし、怪しげな液体が入った瓶がいくつも置かれている薬品棚があったりとどうにも目を惹かれるものが多い。
さて。閑話休題。
グレイの周りの灰色の竜巻は逆巻き、嘶き、荒れ狂う破壊の暴威と化した。絶えず風の音は響き、それはまるで苦悩する咎人の呻き声のようにも聞こえた。しかし規模は小さく、それらはグレイの周りをまとわりつき、触手のように変形して先端を尖らせた。竜巻の先端とはなんぞや、という話だが、有体に言えば触手の先端がドリルになっているとでも思ってくれて構わない。それが薔薇の蔦のように無数に現れ、大小、太さの差こそあれ、実験室の壁を這い回り、俺達に向けられていた。
グレイの手にあるあの手帳を彼が開いてから起こった変化ということは、手帳に記されているなんらかの魔術だろう。どういう魔術なのかは皆目見当もつかないが、仮にも十二騎士に選ばれた魔術師が使う魔術だ。警戒するに越したことはない。
「我が名は飄風、原初から今世に至るまで、あらゆる罪禍をそそぐ、黒衣の死神にして、苦悩の輩なり!おお、永遠の苦悩の果て、愛欲、私愛の果てに勲もなく、また生もなし。愚かなる愛の信徒共よ。汝らの愛は報われず、無限の地獄の果てへと誘おう!今一度、名乗る。我が名は飄風!永劫のその終わりまで愛に溺れた魂をそそぐ聖なる黒風なり!」
詠唱、それもかなり長文だ。攻撃を試みても良かったが、風で妨害される未来が見えたのでやめた。何より、相手の詠唱の中にあった「飄風」という言葉が気になった。「飄風」とはあの「飄風」か?だとしたら、グレイが持っている黒い手帳はただの魔術が書かれているだけの手帳じゃない可能性が出てくる。
——飄風、それははるかなる地獄にて死者の魂を折檻する寒波にして烈波、黒い衣をまとった凍える風だ。その身に抱くのは愛欲によって破滅をもたらしたもの、セミラミス、クレオパトラ、ヘレナ、アキレウス、パリス、トリスタン。すなわち幾多もの淫婦と英傑を飲み込んできた退廃の嵐風である。
などと大層かつ大仰に言ってはみたが俺は淫婦でもなければ英傑でもない。ただの魔術師だ。エリスやアリスのような女性にとっては効果的な魔術なのかもしれないが、俺には通じない。せいぜいがただ威力の高い風の魔術というくらいだ。
目下俺の興味はむしろ、グレイがどうやってそんな魔術を使えるようになったかだ。グレイの魔術属性は風、だから退廃の嵐風を巻き起こせるのも道理ではある。しかし、扇風機を百台そろせても台風は起こせないように、グレイのような壊れかけの風ぐるまがいくらふーふーと息を吹きかけたとて、微風は起こせても大風は起こせない。
こういう場合は何か別の要因に頼るのが魔術師の常套手段だ。例えば百台の扇風機でダメなら百台の人口降雪機を用意するとかがわかりやすい。あれの出力なら百台も集めればワンチャン台風規模のエネルギー量を作り出せるかもしれない。つまりグレイも似たようなことを、より具体的には自分の魔術の規模を広げるための工夫をしているのではないか、という話でその工夫とはズバリ彼が握っている黒い手帳にあるのでは、と疑うのはある種の自然の摂理、自明の理だ。
「作戦は立てたかぁ!!潰してやるぞ、クソアバズレぇ、腐れ風紀委員ン!!」
酔っているのか、狂っているのか。前者後者混合が正確なところか。虚弱でガリガリ、ごぼうのようなグレイの姿はもうそこにはなく、飄風そのものと化したグレイが叫ぶ。そう、今の彼には体などありはしない。飄風と同化した彼にとって体はもはやただの容れ物に過ぎない。
——どういうわけか、グレイは飄風と一体化し、彼自身が野原を駆け、水面を走り、空を征する地獄の風となっていた。
「死ぃいいいねぇええええ!!!」
激昂と共にグレイの両手が変形し、巨大化する。人のものとは思えない、黒く逞しい、それでいて生物的ではない鷹の爪にも似た剛腕が迫る中、反射的に障壁で防御を試みる。まるで紙でも破るように俺の障壁は噛み砕かれ、周囲に欠片が散り、それは地面に落ちると粒子となってたち消えた。
俺がグレイの灰色の風を受けた時と同じ現象、やはり同じ能力か。俺の障壁を破ったことで、何を思ったかグレイはそれまではただ滞空させていた竜巻を螺旋を描きながら俺とエリス、そしてこの状況でもぐーすか呑気に眠っているアリスめがけて放った。
「うぜぇなぁ!」
パンと指を鳴らす。俺が魔術を発動させようとすると、反応したロザリアが呼応して、時計回りに螺旋を描いて迫り来る竜巻の前に立ちはだかった。凍結魔術と停滞魔術の合わせ技、自分の魔術が凍ったことに多少はグレイも動揺を見せたが、その時間は数秒となく、すぐに俺が何をしたのか勘づいた野郎は無言のまま新たに竜巻を作り出し、俺の氷の壁を砕いてしまった。
停滞魔術はあくまで一定時間、エネルギーを保存する、状態を保持するだけの魔術だ。やろうと思えば俺が今やったように魔術の活動すら停めることができる。しかしそれは自然な在り方とは真反対の不自然な在り方だ。水が落ちている時に止まることはありえないし、ずっと爆ぜている花火もない。つまり、停滞魔術はわずかな衝撃で容易く解かれてしまうのだ。
氷の壁が砕かれ、中に閉じ込めていた竜巻の時間が再び動き出す。グレイが新たに生成した竜巻すら巻き込んで、さらに大きく、激しさを増したことに舌打ちをこぼすも束の間、突如俺の背後で瘴素の氾濫が起こり、ギョッとして目を剥いた。
「ちょっエリ」
俺の静止が間に合うことなどありえない。残念なことにエリスは止まらない。彼女の指先から放たれた雷撃は音を置き去りにして竜巻目掛けて突き進む。一瞬の交錯、それは果てしなく長い時間のように感じられ、しかし終わってみればやはり一瞬の出来事だった。直撃と同時にグレイの竜巻は一瞬でかき消され、尖塔の外壁すら貫通して、周囲に膨大な電気が波及する。
化け物、そう称するに十分な破壊力を見せつけ、味方であるはずの俺すらエリスの存在にガタガタと震えるしかなかった。厚さ20センチはあろうレンガの壁を軽々と貫くその威力をもし生身の人体で浴びたらと思うと恐怖で後ろに振り向きづらくなる。
それはグレイも同じだったようで、俺は飄風だ、と意気込んでいたくせにエリスの規格外の破壊力を見せつけられると、心底焦った様子で、化け物め、と彼女に向かって罵倒を投げかけた。
「うるさい。私のどこが化け物だ。どこにでもいる普通の人間ではないか」
多分、エリスは見てくれのことを言っているんだろうが、エリスのような綺麗な女性がそうそう往来を歩いているとは思えない。街中を歩いていて菜々緒やエマ・ワトソン、ヴィクトリア・ジャスティスに出会うことができるか、そんなわけはないだろう。
天然なのか、それともただただグレイの言い分が理解できなくて真顔で返しているのか。なおも瘴素の渦を巻くエリスの動向にハラハラしながら次の一手を打とうと俺が動こうとすると彼女は俺よりも早く動き、緋色の雷撃をグレイめがけて飛ばした。
先日までなら障壁でどうにか防いだだろう一撃、しかし今のグレイは飄風そのものだ。動揺こそしたがその実力が衰えるわけではない。灰色の風を膜のように展開し、エリスの雷撃をグレイは消し飛ばす。
彼の意識がエリスに向いたその瞬間、俺は走り出した。今こそが好機とばかりに。グレイの横っ腹を狙おうと放った氷のつぶて、隙をついた攻撃は容易に彼の脇腹に命中する。しかし実体を持たない彼には痛痒はもたらしても致命傷にはならない。俺のつまらない攻撃に反応してグレイは再び竜巻を俺目掛けて放った。
「我が名は飄風!永久に愛に飢えし獣を攫う、略取の黒風なり。すなわち、牙を以てして我を傷つけること能わず、爪を以てして我に触れること能わず!」
そして別の魔術を発動させる。その魔術を例えるならば風の鞭だ。右と左、時計回り、コマのようにグレイの体が捩れ、広範囲にわたって風をとどかせる。俺は避けたがエリスは避けられず、障壁で防ごうとしたが、ご存じのようにこの風は障壁でどうこうできるものではない。当たれば死ぬことは明白、咄嗟に彼女に向かって氷柱を放ち、その体を鞭の間合いから遠ざける。俺からの攻撃にエリスは戸惑い、防御できなかったようで、衝撃に負けて哀れにも気絶してしまった。それでいい。エリスに戦わせること自体、不本意だったから。
しかしなるほど、確かに傷つけること、触れること能わずだ。風の鞭、その結界とは恐れ入る。鞭を使った間合いの確保とはいい発想だ。おかげでその間合いの中にいる俺は避けるだけで精一杯だ。
鞭を避け続けること、それ自体は別に苦ではない。見えるし、躱せるのだから体力が続く限りは続けられる。問題はやはりこれだけの魔術をグレイが使う方法だ。黒い手帳、それがどういう風に影響しているか。
候補はいくつかある。一つ目は彼の持っている黒い手帳が新たな礼装であるというパターンだ。礼装は魔術の行使を補助する道具だ。どういった形であれ、それは魔術の効果を著しく強める。
しかしこれは考えずらい。すでにグレイは八面体のオブジェと短剣を持っている。いずれも基本的な風の属性魔術の礼装だ。それ以上に適した礼装を短期間で新たに作るというのは考えずらい。理由は単純にそんなことは一流の職人でも無理だからだ。研究畑のグレイには到底無理だ。
二つ目は彼の手にしている黒い手帳が魔導書であるパターンだ。魔導書、グリモワールは魔術師が生涯をかけた自身の研究内容を記した書物だ。一般的な価値観で言えばダーウィンやアインシュタイン、ヴェブレンが出版した本、その原本みたいなものと思ってくれて構わない。
ただ、一般的な原本とかと違うのは魔導書は決して教科書ではないということだ。ぶっちゃけ魔術師の自己顕示欲と秘密主義が混濁した内容と言っていい。読めば無対価で知識が得られるわけもなく、開いた瞬間に即死の呪いが発動するトラップや、読んだ人間が発狂するような内容などなど、とにかく質が悪い。
グレイも一応は魔術師だから、リスクは知っているはず、魔導書への依存を強めれば自分がその中に取り込まれてしまうということを。そのリスクを承知の上で開きっぱなしにしているなら、もう転落十秒前だ。
だから、そんなリスクを犯してまで使い続けるわけがないから、やっぱり魔導書ではないはずだ。いや、待て。待てよ、俺。
「お前、それ。ひょっとして写本か?」
返答はなかった。ただグレイはほくそ笑んだ。それがもう答えと言っていい。
「バカじゃねぇの」
本当にバカじゃねぇの?
魔導書の毒性は話した通りだ。そして写本とはその毒性に耐えながら、魔導書の内容を書き写した書物を指す。毒性は原本よりも薄いが、やはり激毒であることに変わりはない。トリカブトの毒を呑んだ後にヒ素を仰ぐようなものだ。一介の院生に耐えれるわけがない。
——じゃぁあの姿は?
そんなもの、決まっている。
「お前、魔導書に半分くらい取り込まれたな!」
「あのアバズレに復讐できるなら、いくらでも犠牲にしてやる!家名も、魔術師としての栄誉も、何もかもなぁ!!」
とんだ復讐劇もあったものだ。理由は本当の本当にわからないがよほどエリスは恨まれていたんだな、としみじみ思う。しかしそうか。もう人間じゃないのか。だったら気兼ねなくやれる。別に人間だったらからって遠慮するつもりはなかったけれど。
手始めにまずは目障りな魔導書、その写本を消そう。
間合いから脱したと同時に無数の氷のつぶてを生成する。将棋の駒ほどのサイズしかない小さな、小さな氷のつぶて、百を遥かに超えるつぶての雨霰全てに停滞魔術が付与され、魔導書を狙う。どれだけグレイが風をまとって自分を守ろうとしても防ぎようがない。
撃ち出された無数の氷のつぶて風の膜の合間を縫ってグレイの写本を撃ち落とす。正直な話、魔導書をどうこうしたからと言って今更グレイが実体を取り戻すことはない。魔導書に取り込まれた人間を救い出す術はない。魔導書が傷つけられれば魔導書に取り込まれた人間は死ぬ、その存在が消滅する。
魔導書を撃ち抜かれ、グレイの体が揺らぐ。放っておいてもこのままグレイは自滅する。しかしどうせなら最後まで付き合おう。イレギュラーが起こっては敵わない。
「ならぁ!!貴様を殺して、エリスも殺す!今、ここでぇ!!」
大鍵爪が出現する。灰色の風を纏った、グレイの最後の攻撃、先ほどの鞭の攻撃と同じ要領でグレイは二つの腕を振り回そうと大きく体をひねった。
「そいつぁどうかな」
俺が使える魔術は凍結魔術と停滞魔術だ。いずれも火力は期待できず、マイナーな魔術すぎて研究もされていない。一般的な強化魔術や属性魔術、錬金術やカバラ系統の魔術に比べると応用力がないからだ。言ってしまえばそれ単品で完結している魔術、目的を達してしまった魔術だからだ。
その目的とは?
無論事象の停滞、保存である。だったら、概念くらいは止めて然るべきだろう?
「堰を下せ、時流の大河に」
俺目掛けて振り下ろされようとしたグレイの大鍵爪が停止する。そればかりか、彼の体そのものがラグを起こした画面のように止まり、その目は哄笑の表情を浮かべたまま彼の体は静止した。
停滞魔術、その真髄は現象の停滞、現象の永遠の停滞だ。その活動を止める寸前、一体彼は何を想ったのだろうか。
きっと、この魔術による最後を理不尽な暴力と感じたに違いない。彼の努力は報われず、想いは果たせず、ただただ理不尽に奪われたのだから。
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