What is Violence
「お前が憎い、お前が死ねばいい!」
暴力とは理不尽に訪れる。暴力とは平等に訪れる。暴力とは唐突に訪れる。暴力とは誠実に訪れる。暴力とは鮮烈に訪れる。暴力とは真面目に訪れる。暴力とは愚劣に訪れる。暴力とは痛烈に訪れる。暴力とは静かに訪れる。暴力とは残酷に訪れる。暴力とは不鮮明に訪れる。
すべからくすべての暴力は人を傷つける。意識しようが、しまいが、人は暴力から逃げられず、また暴力を手放すことはできはしない。どれほど高潔であろうと、誠実であろうと、気さくであろうと必ず人の何かを傷つける。
これはそんな暴力に関する物語、人間同士のすれ違いといがみ合いの物語、さぁ幕を開けよう。さすれば救われん。
「暴力ってなんだろう」
暴力。不当な腕力、あるいは不当なやり方で強制力を行使すること。女を殴る、子供を殴る、見ず知らずの誰かを殴る、隣人を殴る、友人を殴る、恋人を殴る、親類を殴る、兄弟を殴る、親を殴る、そして自分を殴る。
多分、暴力という単語を聞いて大抵の人間が想像するのはこれだろう。殴って、蹴って、張り倒して、突いて、なぶって、そんな肉体的な痛みを味合わせる力のこと、それを指して人は暴力と呼ぶ。つまり、暴力とは他人を害する物理的な力と捉えられるわけで、俺もこれまでそう考えてきたし、これからもそう考える。
すなわちパワー。他人に暴力が振るえる人間というのは間違いなく、その時点でなんらかの優位を獲得しているのだ。暴力を振るった側は振るわれた側よりも物理的な力、権力、あるいは状況の何かでまさっていて、それが結果的に暴力を招いた、と見ることもできる。
例えば、路上の飲兵衛同士の喧嘩。昭和の産業廃棄物のようなバーコード頭で中肉中背、毒にも薬にもならない人間同士が因縁をぶつけ、がんを飛ばし、どちらか一方が拳を振るった時、拳を振るった側は間違いなく暴力を振るったことになる。暴力を振るうだけの理由なんてなく、ただの行き当たりばったり、言ってしまえばその場の成り行きで暴力を振るったというわけだ。恐ろしい話だ。
例えば、テロリズム。テロリズムとは恐怖によって自分達の主義主張を通そうとするやり方だ。爆弾や毒ガス、あるいは拳銃といった様々な武器、兵器でもって一般民衆を、あるいは権力者を狙う卑劣な行為であるところのテロリズムは間違いなく暴力の枠に収まるだろう。誰が見たって不当な腕力の行使と映るからだ。
例えば、ふらりと現れた男が政治家に殴り掛かること。不当な腕力云々の話を引き継ぐならこれもまた暴力であり、その男にどんな背景があっても、彼は一方的な暴力を振るった人間として認知される。法治国家ならばそうあるべきだし、そうでなくては秩序も崩壊する。
「つまり暴力とはパワー、物理的な力の行使である、と?」
俺はそう考えている。
「なら、言葉の暴力なんていうのはなんだろうか。ヘイトスピーチや差別発言は?これも暴力かな」
精神的な暴力は果たしてどこまで通用するのだろうか。
わかりやすい暴力、物理的な力の行使を引き合いに出せば、その一時において不当な腕力にさらされ、理不尽な仕打ちを受けたなら暴力として認定してもいいのかもしれない。でもそれだと当の「言葉の暴力」を振るった人間が無自覚的であることがほとんどだし、そもそも暴力だ、ヘイトだ、と主張する側が腹に一物がないとも限らない。
男子高校生、あるいは大人同士の会話でも「お前バカだなー」という相手を貶す言葉がちょくちょく出てくる。でもそれで不快に思う人間が果たして何%いるというのだろうか。
悪意をもって発した言葉、悪口が暴力だ、とか言う人もいる。でも悪口を言っている側はそれが悪口だなんて考えない。だって、それは彼、彼女の口からポロリと出た「おはよう、はじめまして」くらいの頻出単語なんだから。結局のところ、客観的な目線で見てはそれが悪意をもった言葉なのかなんてわからない。
例えば学会で「君、少しいいかな。君の論文だけどさ」を切り口に小言を言われる。小言を言っている側は当然のことを言っていると思っているだろうけど、言われている側の何割かは「うっせーぇな」と思っているかもしれない。国語の授業で「そんなこともわからないの」と言われてムカっとくることがあっても、教師は悪意なんてなくてむしろ驚いている方だろうし、言われた本人の感情なんて知る由もない。
逆にあからさまな悪口「やーい、デブ」とか「おまえんちびんぼー」とか言われても毅然と笑顔で返す人間もいる。悪意を悪意と気づかずに受け流せる稀有な人間もいる。すべからく、全ての事例でそうだとは口が裂けても言わないし、言えない。しかし事例としてそういったことがあるのは事実だ。絶対のキーチェーンなど作れないのだ。
だから、そう。
例えば彼女。彼女は声高に指摘した。それが当然で、忖度も遠慮もなく積み重ねた研究の成果を否定してみせた。さながら200年間の難問を解き明かしたオイラー予想をランダーとパーキンが短い論文で否定したように、発表者が自信満々に発表した研究成果を散々に貶した。
貶したという言葉は適切ではかったかもしれない。だって彼女には貶す意思も悪意もなく、ただ純粋に疑問に思った箇所を指摘したにすぎないのだから。
しかし当事者にしてみればどうだろう。数年を費やした研究を見ず知らずの女に潰され、不完全のレッテルを貼られたのだ。その心中でこう考えたに違いない。あいつは自分を貶した、自分に悪口を言った、暴力を振るった、と。
「は。詰まる所はガキの癇癪ってことじゃないか」
きっとそうなのだろうが、そう単純であればあそこまでの事件は起きなかった。俺がさんざんぱら方々を駆け回ることもなかった。
「つまるところ、原因は『暴力』か」
その時点で優っていたものが暴力を振るう権利を持つ。彼女が研究者である当人にそうしたように、機会さえあれば暴力を振るう可能性は誰にでもあるのだ。当人がそう意識したか否かにかかわらず、俺達は常に他人を傷つけて生きている。
「つまりこれはそういう物語なんだ。みんな、言動に、行動に気をつけましょう、そういう話なんだよ」
どうなのだろうか。窮屈と言われればそれまでだ。俺達は結局、他人の失敗を反面教師にするこtができない半端者だ。必ずどこかで俺は他人と違う、という賎民意識があるんだ。だから、きっと俺は間違い続ける。間違えて、間違えて、間違えて、また間違える。
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