「―約束の音が響く日―」
◆202X年・春・広陵高校音楽室
窓から春の陽が差し込み、白いカーテンが風に揺れている。
あの頃と同じ音楽室。しかし、そこに立つ生徒たちの顔ぶれは、もう夏葉が顧問として迎えた最初の世代とは違っていた。
変わらないのは、音楽と向き合う姿勢。
――そして、その音を支える教師の姿。
「……そこ、フレーズの繋ぎ意識して。息が切れそうになったら無理せず、でも“繋げる”意志は音に残して」
教壇に立つ夏葉は、もはや誰もが認める“名物顧問”となっていた。
結婚・出産・復職。幾度もの挑戦を経て、彼女はこの場所に戻り、再び生徒たちと音を紡いでいた。
その日は、卒業式の数日前だった。
部員たちが帰った後、一人の男子生徒が音楽室に残っていた。
「……先生、ちょっとだけ、いいですか?」
振り返った夏葉の目に映ったのは――
中学3年になった未衣奈の姿にどこか似た、凛とした目の少年だった。
「ええ、どうしたの?」
彼はゆっくりと、ケースからサックスを取り出しながら言った。
「今日、親父に言われたんです。“好きなものを選べ”って。野球か、音楽か。でも――決めきれなくて」
少年の名は、真尋。
ある夫婦の息子… (どっちかが夏葉の教え子で… )。今は広陵高校1年の吹奏楽部員。そして、中学までピッチャーとしても活躍していた。
「どっちを選んでも、もう片方を裏切る気がして……」
「……そうね、悩むわよね。両方、大切にしてきたんだもんね」
夏葉は椅子に腰かけながら、真尋と同じ目線で語りかけた。
「でもね、裏切りじゃないよ。選ぶってことは、もう一方の“影響”を胸に抱えて生きていくことだから。野球を選んでも、音楽はあなたの一部だし。音楽を選んでも、野球の経験が支えてくれる」
真尋は俯きながら、ぽつりと呟いた。
「……母さん、すごいな。昔から、ずっと変わんない。俺、小さい頃……母さんがステージで指揮してる姿、覚えてるよ」
夏葉は驚いたように、でも嬉しそうに目を見開いた。
「えっ、本当に? もう忘れてると思ってた」
「ううん。なんか、あの時の音、胸に響いて……今でも時々、夢に出てくる」
そう言って真尋は立ち上がり、サックスを構える。
「……最後に、一曲だけ、吹いてもいい?」
「もちろん」
音楽室に、サックスの温かな音色が広がる。
ゆっくりと、しかし確かに心に沁みる旋律。
それは夏葉がかつて、全国大会の自由曲として選んだ**「Your Song」**。
駿輔と出会った日、初めて心が重なった瞬間の記憶を呼び起こす曲だった。
夏葉の目に、少しだけ涙がにじむ。
“あの日の音”が、今――息子の手によって再び響いた。
◆その夜・自宅
リビングでは、駿輔が料理をし、未衣奈が大学の課題に取り組んでいる。
彼女は今、東京の音大で指揮を専攻する大学2年生。母の背中を追いながら、次の時代の音楽教育を目指していた。
「ただいまー」
真尋が帰ってくると、未衣奈が手を止めた。
「おかえり。……どうだった?」
「……決めたよ」
「どっち?」
「両方やる。……音楽も、野球も。ギリギリまで、やれるとこまでやる。中途半端でもいい。俺、どっちも好きなんだ」
駿輔がふっと笑って、鍋の火を止めた。
「それでいいさ。限界ってのは、自分で見つけるもんだからな。親が決めるもんじゃない」
夏葉が横から真尋の頭をくしゃりと撫でた。
「その“好き”を信じてるよ。ずっと」
家族の食卓に、ささやかな笑い声が広がる。
その日、テレビではプロ野球OB特集が放送されていた。画面の中に、若き日の駿輔の投球フォームが映る。
「パパ、やっぱかっこいいじゃん」
「そりゃな。現役の頃はね、ちょっとモテたよ?」
「“ちょっと”ね?」
夏葉がすかさず突っ込み、子どもたちが笑い転げた。
◆数日後・卒業式
広陵高校の卒業式。体育館には、今年も在校生の演奏が響いていた。
指揮台に立つのは、卒業する3年生部長。夏葉は、体育館の端でそれを見守っていた。
隣にいた校長が、そっと言った。
「……先生の指導の積み重ねが、ちゃんと形になってますね」
「いえ、私はただ、音と向き合う時間を一緒に過ごしてきただけです」
校長が微笑む。
「それが“教育”というものですよ。未来を繋ぐ、静かで確かな手渡しです」
式が終わり、涙を拭う生徒たち。
その中で、真尋が友人たちと笑いながら、出口へと向かっていた。
未来はまだ、何も決まっていない。
でも、彼の胸には確かに音がある。夢がある。そして、愛された記憶がある。
――音の先に、未来がある。
【完】




