第4話 「父親の真実と進路の狭間で」
春の陽気が少しずつ初夏の気配を帯びてくる中、俺と夏葉先生の秘密の関係は、ひとつの転機を迎えようとしていた。
あの日、野球場で香奈と夏葉先生が迎えに来たことをきっかけに、俺は改めて家族や周囲との繋がりの重さを実感していた。
そして、週末。
俺は母に言われて、久しぶりに父と真剣な話をする時間を取った。
父は昔から寡黙で、どこか壁を感じさせる人だった。野球に関しては一切口を挟まず、俺の意思に任せてくれているようでいて、実は何かを押し殺しているような、そんな空気を持っていた。
俺は思い切って聞いてみた。
「父さん。…夏葉先生のこと、どう思ってる?」
父は驚くでも怒るでもなく、淡々と答えた。
「…母さんから聞いてる。隣の教師と付き合ってるってな。普通ならぶん殴るところだが、お前はもう、誰に何を言われても止まらん奴だって分かってる」
「……ごめん。でも、本気なんだ」
父はしばらく沈黙したあと、少しだけ笑った。
「お前が好きにすればいい。ただし――覚悟だけは持て。教師と生徒の恋がどれほどのリスクを伴うか、お前が一番分かってるだろう」
「……うん」
「それと、そろそろ自分の進路にも真剣に向き合う時期だな。プロか、大学か。どっちも道はあるが、どっちも覚悟が要る」
そうだった。
夏の選手権を前に、俺はすでに数球団からマークされていて、スカウトも何度も学校に訪れていた。プロ志望届を出せば、即ドラフト1位候補は堅いと言われている。
でも、プロに入れば……先生との関係も、さらに大きなリスクを抱える。
週刊誌やSNS、ファン、そして敵。俺の私生活なんて簡単に暴かれる世界。
そして、先生は教師という職を失うかもしれない。
それを守るには、俺がどうすればいいのか。
その夜、俺は眠れなかった。
⸻
翌日、先生と夜のベランダ越しに話した。
風が少し肌寒くて、先生はパジャマの上からカーディガンを羽織っていた。
「先生… パジャマ姿可愛いですね。」
「本当に可愛いの?私って…
そう言ってくれると、嬉しい。ありがとう。
それより… 駿輔。お父さんと、話したんでしょ?」
「うん。正直、びっくりしたけど……怒られなかった」
「それは…優しいんだね。…本当は私、いつかお父さんに怒鳴られる覚悟もしてたの。教師なのに、教え子と付き合ってるって知れたら普通は――」
「でも、父さんは分かってた。俺が引かないこと」
先生は少しだけ目を潤ませていた。
それでも、俺をじっとまっすぐに見つめて、強く言った。
「駿輔、私はね……あなたを、野球選手として世に出すために教師として応援したい。でも、それ以上に、一人の人間としてあなたの隣に居たいって思ってる」
「俺も…同じ気持ちだよ」
「でも、それは…きっと簡単な道じゃない。あなたがプロになったら、私はもう教師を続けていけないかもしれない。それでもいいの?」
「いい。俺が絶対、守るから。夏葉先生を――夏葉を」
先生は驚いた顔をしたあと、少し微笑んで「…ありがとう」とだけ言った。
⸻
その週末、俺は一人、野球場へ行った。
早朝、まだ誰もいないグラウンドで、自分の体の状態と向き合うように黙々と投げ込んだ。
父の言葉が頭の中に何度も響いていた。
覚悟。
たった一言が、これほど重く感じたのは初めてだった。
ふと後ろを見ると、スタンドの上に誰かがいた。
夏葉先生だった。
休日の朝に、わざわざ俺の練習を見に来たんだ。
制服ではなく、私服。ラフなニットにジーンズ姿。
教師ではなく、ひとりの女性としてそこに居る彼女の姿に、俺の心は少しずつ確信に変わっていく。
――この人と生きていく。
それがどんなに困難でも、俺はこの選択を曲げない。
グラウンドの真ん中で、俺は胸の中で誓った。
⸻
夕陽が落ちかけた時間、俺は彼女をグラウンドの隅に呼び出した。
「…俺、プロに行くよ。夏の大会、悔いなくやって、その後に志望届を出すつもり」
「……そう、決めたんだね」
「うん。そして、プロに行ったら、必ず君を迎えに行く。堂々と、隣にいてもらうために」
先生は何も言わず、ただ黙って俺を見つめていた。
そして、しばらくして――涙を浮かべながら、小さくうなずいた。
――それから俺は、高校2年生になった。
秋季大会、明治神宮大会、そして選抜高校野球大会。
広陵高校は快進撃を続け、ついに全国制覇を果たした。
俺自身の成績も、全国の注目を集めるには十分すぎるものだった。
選抜大会では8本塁打。1試合に2本打つ試合も複数あり、「高校球界の怪物」として、再びメディアに名前が踊るようになった。
新入部員の台頭もあり、チームはますます勢いに乗っていた。
そして――春季大会でも広陵は見事に優勝。俺たちは“二冠”を手に入れた。
そんな激動の春の夜。
俺は夏葉先生に「少し来て」とLINEで呼び出され、隣の彼女の家を訪れた。
玄関を開けると、先生の両親が揃っていた。
意外だったが、二人とも穏やかな笑顔で俺を迎え入れてくれた。
「優勝、おめでとうございます」
「駿輔くん、本当に立派になったね。テレビでも見たよ」
俺は、少しだけ緊張しながら頭を下げた。
「ありがとうございます。これからも、もっと成長します」
両親との会話のあと、夏葉先生が静かに俺をリビングの奥へ連れていった。
カーテンの隙間からは、オレンジ色の街灯が差し込んでいる。
先生は、俺の目をまっすぐ見つめた。
「…ねえ、駿輔。今日は、私からご褒美があるの」
「ご褒美?」
「うん。……キス、してもいいよ」
俺は一瞬、呼吸を飲んだ。
そして、その唇に迷わず口づけた。
柔らかくて、あたたかくて、愛しくて――時間が止まるような感覚だった。
気がつけば、1時間ほども、何度も何度もキスを繰り返していた。
言葉では足りない想いを、唇で伝えるように。
「……じゃあ、あと15分だけ、ね」
そう微笑んで言った先生の声が、心地よく耳に残った。
「え、猶予って……?」
「あなたが学校で私と話しかけていい時間のことよ。あと15分だけ、“恋人”として会話しても怒らないって意味」
俺は思わず笑った。
「じゃあ、次は30分交渉してみようかな」
「ダメ。増やすには、またホームラン2本くらい打ってもらわないと」
先生は冗談めかして言いながら、でも目元だけは本気だった。
教師と生徒という“壁”はまだ存在する。
けれど、それでも、こうして少しずつ“時間”を分け合えるようになった。
俺たちの恋はまだ、静かに、でも確かに続いている
この恋は、時間に限りがある。
でも、時間に縛られたくない。
俺たちの“今”を、どこまでも信じたい。




