4 そして、レモンビール
アパート『ジュード』内外で、まわりが慌ただしく動きまわる中、アパート軒下のベンチに唯一、空気の違う人物がいた。
役場の夜警マドカ・サイモンが、眠そうにぷかぷかとタバコを燻らせていたのだ。
外階段から降りてきたアーサーは、彼女の背中に声をかけた。
「やあマドカ。居たのか」
「ん……」
「眠いだろ。ベッドで寝るか?」
「んー」
マドカは重たい瞼の代わりに、タバコをクイっと動かした。返事はするが、その場から動きそうにない。背中に生えた翼の羽毛が、風にフワフワと揺れている。
「ちょっと市場でケーキの材料を買い足してくる」
「ん?」
「雉肉パイをオーブンから出しといてくれ。後10分ほどで完成する」
「ん〜」
ポトン、と彼女は灰を落として俯く。
アーサーは緋色の腰エプロンを、マドカが座るベンチの手すりに置いて、胸ポケットのペンと手帳と、財布だけを持って出かけていった。
日差しが暑い。風が吹いて良い陽気だ。これからピクニックが始まるような。
アーサーは狭い路地裏を歩いて、市場に向かった。
——しかし、葬礼饗宴……メモリアル・パーティーというのは、つくづく不思議なシステムだ。どんなに辛く悲しい時でも、祭壇を飾り、お祝いの料理をこさえるうちに、晴れやかな気分になってしまう。どうせ、この後に待っている火葬と埋葬の儀で、号泣するんだろうけど……宴会の時だけは、明るく元気に陽気にいられる。
昔、母親が亡くなった時もそうだった。父親の消息が絶え、探しに行った弟たちとも徐々に連絡が途絶えていき……最愛の母ジェシカも失った。葬儀ではずっと泣いていたはずのに、今思い出すのは、食事会で祖母と作った甘いオレンジケーキの味だ。母が好きな紅茶をたっぷり入れたクリームの……。
その時、路地の正面からチリンチリンと自転車がきて、アーサーは寸前のところで躱した。
……危ない。
昨日から一睡もしていない。おまけに連日の事件調査の疲労も残っている。
アーサーは、らしくなく壁に手を当てて、腰を屈めてその場にうずくまった。
『——みんな消息不明なんですよ——』
父フィリップの葬式は未だに行われていない。クレイトにいるはずの弟たちも行方知れず。……まあ弟2人は、さすがに生きていると思うが。今まで祖母を置いて行けなかった。サウザス内で監視していたユビキタスも、今日でクレイトに行ってしまった。もう、この町に留まる意味は薄い。
「クレイト新聞に就職できるかな…………社長のコネで……。フッ」
そう独りごちて、再び顔をあげた。今はとにかく市場へ行かなきゃ。必要なのは、オレンジ、バター、砂糖、ミルク、バニラビーンズ……小麦粉はいっぱいあるから良いとして……後はレモンも買おう。俺も、マドカも、神様も、レモンビールが好きなんだ。
チリンチリンとまた後ろから自転車が来て、道を譲る。まったく狭い路地裏だ。落書きだらけな汚い壁のあちこちに、町長オーガスタス失踪事件の目撃情報を求むポスターが貼ってある。
「行方不明のままだと、葬式すらあげられないな……」
そうだ、クレイトに行く前に、町長を見つけてやらないと。アーサーには、組織の件を黙っていた責任を果たす義務がある。
……ああでも、自分の体調も今は良くない。
今夜は祖母を弔って、ゆっくり休もう……
そう唸っていると、
路地の正面から、砂鼠族の男がコツコツと歩いてくるのに気付いた。
あれは…………コスタンティーノ兄弟の誰かだ。
背が高くて細い、柔らかな顔立ち。
四男のファビオか、五男のステファノ……いや、違う、
「————エミリオ⁉︎」
末男のエミリオが……
歩行困難のはずの彼が……【自分の足で、歩いている】。
一瞬の意識が遅れた。
逃げようと、踝を返したその瞬間————
アーサーの首に、大きな包丁の切っ先が、深くめり込んでいた。




