2 母なるラヴァ州
「ショーンさん、本読むの止めたらどうっすか」
「ヘーキ、平気、酔い止め飲んでるから……ヴォえ!」
「ほとほどに頼みます」
アルバ様は、道中ずっと魔術書の文字を必死に追って、呪文をぶつぶつ呟いている。本当は彼にも周囲を警戒して欲しかったが……ペーターは肩をすくめた。ヘルメットをつけていると、芝兎族お得意の聴覚が使えず、視覚と嗅覚だけが頼りになる。幸い、州街道は見晴らしがいいから、そこまで気にする事ではないが……。
『あーあー、諸君。聞こえたら左手を振りたまえ』
ブーリン警部から電波越しに指示が出て、みな一斉に左手を振った。最後尾の紅葉も手を振っているのを確認した。
『みな聞こえてます』
オールディス警部補の声も聞こえてきた。
『よろしい。これから基地局を経由して指示を出す。届かない場合はオールディスに一任する』
『OK、ボス』
『グラニテ警察とも連絡が取れた。周囲の警戒を進めている……グラニテ北門手前に集合、オイルを切らさずに頼む』
『了解、ボス』
これは “猿の尻尾”(ウソの報告)だ。
本当の指示は『町へは寄らず、手前で迂回せよ』。
州街道をそのまま素直に進むと、どの地区も町の内部を通ることになる。例えばサウザスだと北大通り、グラニテの場合は北門から南門にかけての中央道だ。
今回は安全のため町内は通らず、郊外の迂回路に逸れていく。
警部の連絡が切れた後、オールディスは紅葉へそのまま後続に付いていくよう指示を出した。
「ショーンさん、グラニテには寄りません。何かあったら予め言ってくださいっす」
「——分かった」
「酔いの方は大丈夫っすか?」
「平気、平気────っぷ」
「了解っす」
彼らのギャリバーは滑るように横へ逸れていき、サイドカーからキラキラ光る黄金の吐瀉物を宙に放った。
朝陽がじわじわと地表を昇ってくる。ラヴァ州の大地はあまりにも長閑で、雄大で……恐ろしい敵が迫っているとは、とうてい想像できなかった。
ここは母なる大地、ラヴァ州。
ルドモンド大陸の北東に位置し、平らな大地が広がっている。
北には山脈——ルクウィドの森が広がっている。西の密林地帯から東の鉱山地域まで、ラヴァ州に水源と栄養と鉱脈を与えている。州街道はこの森に沿う形で作られている。
南には峡谷——ウィスコス峡谷が存在している。谷底には長くて深いエリダス川が流れている。州の西側のクレイト周辺では運河のように広く穏やかだが、東のサウザス近辺では舟が木っ端微塵になるほど急流だ。鉄道や送電線はこの峡谷に沿う形で敷かれている。
森と谷、このふたつの雄大な自然に挟まれた大地——それが、ラヴァ州だ。
州には全部で7つ地区がある。西からグレキス、クレイト、ノア、コンベイ、グラニテ、サウザス、そして最東端のトレモロ。それぞれの地区には大きなメインタウンがひとつあり、町や村、もしくは市として、地区と同じ名称で呼ばれている。
メインタウンは非常に広く、どの町も州街道と州鉄道が敷かれて直接繋がっている。馬車が主役だった時代は、地区外れにも多くの宿屋や馬舎があり、独立した生活圏があったものだが、鉄道とギャリバー移動が主流の今、小集落はどんどん吸収され、町はどこも肥大化の一途を辿っている。
また、ラヴァ州は全体的に畑作が不向きな土地だ。その代わり林業や鉱山業が盛んである。地区ごとに独自の産業もあり、たとえばサウザスなら鉄鋼品、グレキスだと楽器や木製品、グラニテは陶器などが有名だ。それら生産物を巨大な穀物倉庫であるファンロン州と取り引きしている。
州都は——クレイト市。州内で最も古く、豪華で、大きな都市だ。古代よりラヴァはクレイトを中心に発展していった。政治をはじめ、銀行、警察、郵便など、州組織のほとんどがクレイトに拠点を構えている。
西に州都があるせいか、東側の管理が手落ちになりがちな組織も多い中、ラヴァ州警察は全都市の街道を欠かさず巡回し、小さな私道や新設したばかりの舗道も、きっちり調べて把握していた。そんな州警の尽力のおかげで、ラヴァ州の治安は大陸ルドモンドでも上位に入る。
「とはいえ、寝てないと厳しいっすねぇ……」
ペーターは首をブルッと振った。慣れた道中とはいえ、睡眠不足はどうしても集中力が落ちてしまう。彼はポケットから緑の葉っぱを2枚、取り出した。
「ショーン様、昨日寝ましたか?」
「えっ——いや、寝てないな」
サウザスを出発してから、ショーンは本を読んでは吐き、呪文を暗唱しては吐くを繰り返していた。すっかりやつれて青白い顔になっている。
「じゃこれ、1枚噛んでくださいっす」
「何だこれ、葉っぱ?」
「草食民族にめちゃくちゃ効くっす。肉食だとあんま効かないっすけど」
「きく?」
「あ、噛むだけっすよ、呑みこまないで下さいね。とんでもないことになりますから」
ペーターは涼しい顔で1枚ガリッと噛んで見せ……ショーンも恐る恐るパクッと噛みつき……見る見るうちに顔に活力がみなぎった。
「ウオオオオおおおおぉぉ、凄いなこの葉っぱ! もう1枚だっ、もう何枚かくれ!」
「ダメっす。最低2時間あけてください」
「やだ! もっと、もっとだ、もっとくれええええええええ」
ショーンの絶叫がルクウィドの森へ木霊した。
『——どうした、何を騒いでいる』
オールディス警部補の声が、トランシーバーから聞こえてきた。
『すいません、ショーン様がハッパを齧っただけっす。すぐ治りますよ』
「うぽおおおぉおっ!!!」
発狂したアルバの声が全警官に響き渡る寸前に、ペーターはトランシーバーの送信を切った。初心者相手に丸ごと1枚は早かったようだ。
例の彼女が怒りやしないか、ちらりと後続の様子を見たが……紅葉は険しい顔のまま冷静に周囲を警戒している。
「……さすが、自ら志願するだけのことはあるっすね」
「ウぽおおおおぉおおおおぉおっ!!!!」
それからしばらく、アルバが緑の奇声をあげたまま、行軍は続いた。