3 アーサーの行方
「とりあえずここから出ましょう」
砂犬族の新米警備員マルセルは、マドカの散らかしたゴミを片付けて別れの挨拶をし、紅葉とともにその場を後にした。
マドカはあのまま突っ伏してベンチに寝ている。
紅葉は、隣人として一応心配したものの、「いつもああなんで、大丈夫ですよ」と、彼がマドカの部下らしく頼もしいことを言ってくれた。
「それで、匂いで探すなんてできるの? マルセル君」
「はい。アーサーさんの香りは嗅ぎ知っているので……紙とインクの染み込んだ、森狐族の匂いです。あと、ミントコーヒーとレモンビールと……オレンジの香りもよくしてます」
紅葉は、昨日飲んだミントコーヒーの味をフッと思い出した。
市場から出た2人は、中央通りの車道を渡り、市場向かいにあるサウザス出版社の前へ到着した。2時間前と同じように、玄関のガーゴイルが迎えてくれる。
マルセルは石像の前に立ち、クン、と鼻を動かした。
「……新聞社には、帰ってないみたいですね」
「外にいるのに分かるんだ……!」
紅葉がいくら鼻をひくつかせても、市場から漂う生鮮食品の匂いしか感じない。
「市場や貧民街はすごい臭いなんで、探すのはちょっと無理なんですよ」
マルセルが東区の方面に右手をかざした。手を挙げたまま、少しずつ体の向きを北へ変えていく。
「でも、北区か西区にいるのなら……あっと」
彼が、北区の通りのある一点をキュッと見つめた。今まで低くしなだれていた、尻尾と耳がピンと立っている。
そこは……紅葉もよく知る店だ。
店の前には、土栗鼠族の小さな子供──フレヤとボルツが遊んでいる。
「えっ……『鍛冶屋トール』……なんで?」
学校で友達を作れなかった紅葉にとって、あの店にはショーン以外で唯一の、紅葉の友人がいる。
「……あそこです。紅葉さん」
マルセルが、ゆっくりその店を指差した。
「あのお店に、アーサーさんがいます」
「では、オスカーさん。レストラン『ボティッチェリ』にある甲冑は、あなたの制作したものでお間違いないですね?」
「………ああ、そうだ」
鍛冶屋トールの応接室は、望まぬ訪問者によって、ただならぬ気配に包まれていた。
母のエマは唇をへの字に曲げて、対面にいる新聞記者を固く見つめている。
リュカは、なぜ息子の自分が呼ばれたか分からないまま、父オスカーの後ろに立っていた。
「……正確には、部下たちと共同で作ったが…………私の作といえるだろう」
「あの甲冑は、大きな戦斧を持っていますが、あれも貴方の作ですか?」
「……そうだ」
「実際に切れますか?──例えば、ワニの尻尾などは」
「…………どういう意味だね……?」
オスカーは静かに腕を組み、ソファに座っている。
エマは夫の真後ろで、般若のような形相でソファの革地を掴んでいた。
リュカは大量の汗が背中に流れるのを感じながら、動向を見守っている。
一昨日の夜7時、鍛冶屋一家は、とあるレストランへ食事に行った。
レストラン『ボティッチェリ』。
東区では珍しい、本格的な高級料理を出すレストランである。
シェフは元々、西区のレストラン『デル・コッサ』の副料理長で、昼は一品ランチ、夜はコース料理を提供している。
場所は、市場から南東の裏手にある。オレンジ色で三角屋根の2階建ての建物だ。1階は通常のテーブル席が、2階には豪華な個室がある。
一流鍛冶師オスカー・マルクルンドは、この店に飾る甲冑像を頼まれた縁があり、一家はいつも2階個室へと通される。
『お久しぶりです、オスカー先生。いやあ、お子さんも大きくなって』
出迎えてくれたのは、砂鼠族のジャン・コスタンティーノ。
彼は『ボティッチェリ』のオーナー兼ウエイターだ。
『……急に来てすまなかった。いつも予約でいっぱいなんだろう?……』
『いえいえ、気にしないでくださいませ。いつでもお待ちしていますので』
ジャンは鼻をヒクヒクさせて、両手に着けた白手袋で先導しながら、一家を個室へと案内した。
『あれ……どうしたんすか、これ』
創業当時から、個室の奥に設置されている「斧を持つ戦士の甲冑像」──もちろん鍛冶屋トールで製作したものだ──が、どういう訳か、階段を上がってすぐの個室ドアの手前に置かれていた。いつもは店の守り神のように部屋の奥で佇む甲冑像が、今日はなぜか廊下で来訪客を威圧している。
『………なぜここに置いておく……危ないじゃないか』
『ああ、スミマセン。少し床が痛んでおりまして! 修理までご迷惑をおかけいたします。お子さまもご注意くださいね』
そうか。ならしょうがない。
オスカーたちは納得し、すぐに忘れて美味しい夕食をいただいた。
夜8時には食べ終わって、店を出て……新聞によると、その日の夜9時から、同じ個室で町長たちが会食をした。
「僕の調べだと、あの日の夜『ボティッチェリ』の2階個室を使ったのは、あなたたち鍛冶屋一家と町長一派の2組だけだ」
新聞記者アーサー・フェルジナンドが、青インクが染み込んだ2本指を、ビシッと突き出した。
「何か、変わったことはありませんでしたか?」
紅葉は激しい怒りが湧いてきた。
ブワリと体熱が上がり、血液が逆流する覚えがした。
アーサーは、きっとリュカ目当てで、あの鍛冶屋にいる。
つまり、リュカの親友である、ショーンを調べているに違いなかった。サウザス唯一のアルバである、ショーンの手がかりを探っている。
何か重大な情報を知ってるはずなのに、自分だけコソコソ情報を得ようとしている。町長も無事か分からない。犯人の見当もついていない。ショーンも、紅葉も、事件の当事者になりかけ、今も危険に晒されているのに。新聞社の仲間にも何も教えず、誰にも知らせずに自分だけが。
それがどれだけ周囲に迷惑をかけているのか、いったい彼は理解しているのだろうか──!
「…………紅葉さん?」
怒りに赤く燃えた紅葉は、薄幸そうなマルセルのショボくれた瞳を見て……シュンと冷水がかけられた気がした。
「ご、ごめんね…………マルセル君」
「……なんで謝るんですか?」
「えっと、ほら、急に怖い顔しちゃったでしょ?……びっくりしたよね」
冷静になってみれば、紅葉はアーサーを怒る資格も、そんな立場でもない。急に制御できない怒りが沸き起こってしまって、自分でも少し驚いた。……やっぱり事件の影響で、精神的に参っているのかもしれない。
「気にしないでください……マドカさんの方が何倍も怖いですよ」
ふふ……と柔和に微笑むマルセルを見て、紅葉はだいぶ心が落ち着いた。彼はこう見えて意外と、気骨ある人間なのかもしれない。
(そう、冷静に。落ち着いて! 私もマルセル君を見習わないと!)
バチン! と己の頰を叩き、紅葉は新たに気合いを入れ直した。
体をキュッと向き直し、鍛冶屋トールに視線を送る。
「ありがとう、マルセル君。次に会えたらお礼するね、じゃあまた後で!」
マルセルは小さく右手と尻尾を振って、紅葉を送り出した。