1 地上へ
【Up】上へ
[意味]
・上へ、上のほうへあがる
・上に、上のほうにいく
・北へ、高地へ、上流へ、風上へ
・高まる、出世する、高くなる
・現れる、近づく
・完成する、向上する、徹底する
[補足]
印欧祖語「upo(上へ)」に由来する。現代英語ではupとdownは対の認識をされているが、じつはdownは古英語「dūn (丘)」に由来している。高い丘から下へ降りることからdownの意味が生まれた。では古き時代のupの対義語はなんだったのか。それは印欧祖語「ndher(下へ)」、つまりunderの語源である。upとdownは、上昇下降、増加減少といった動的な変化がイメージされるのに対し、upとunderは、物の上下位置、建物の上層下層といった空間の対比でよく使われている。
「ハァ、ハァ、ハァ、お待ちくださいッ……タバサ社長!」
「あらあら時の神は待ってくれないわ。急ぎなさい、ナツコ!」
ショーン御一行の地下冒険を見送ったあと、タバサ・ジュテはハイヒールでビル中を巡り、溜まった仕事を片付けていた。来季のショーの服選定、今秋販売の試作品のチェック、帝都企業との商談にむけた作戦会議、上客のお孫さんの誕生プレゼント、などなど……
「あらやだ、今夜のパーティードレスの準備を忘れてたわ。州鉄道の時間に間にあうよう手配して」
「はい……ッ、どんなお服に致しましょう」
「そうね。黒染のシルク、フリルは多めよ。新星デザイナー・ギャンバスのチュールドレスを持ってきて。帽子は派手にしたいわ、オルガ・ポッティのトーク帽を合わせましょう。ヴァイオリンの形のピンヒールがあったわよね、あれにオニキスと黒真珠をつけてちょうだい。香水はヴォダンジュールの第7檀、まえ使った時より酸化してるでしょうから、新品のをおろしてきて」
タバサは自社の膨大な衣装庫から、最適なファッションを選定し、脳内で組みあげ発注した。
「舞台女優と歌姫がこぞってくるもの、見劣りしないものにしないとね」
「はいっ……舞台建築家、エメリック・ガッセル氏の没後3周年の記念パーティーですもんねッ!」
秘書ナツコはそれぞれの部署でアイテムを入手すべく、上階へ駆けずり周りにいった。
「まったく、貴方がたはすぐ『時計塔』に入りたがりますね。勝手な行動はできかねると言ったでしょう」
ノア警察、崖牛族のバルバロク・レーガン警部補は、戦神のごとく腕を組んで立っていた。
「警部補の権限でそこを何とか。僕らは重要な “関係者” ですからね、独自に気づく点も多いんですよ」
いつも飄々と厄介ごとを回避しているロビー・マームが、めずらしく警察相手に粘っている。
(ロビーがそこまで言うなんて……なにか自力で気づいたのか?)
「こうして喋ってる間にも、内部に犯人が潜んでいるかもしれませんよ。どうか賢明なご判断を」
「では、ここで情報をお伝えください。こちらで部下と調べますので」
いまにも肉弾戦を始めそうな筋骨隆々の2人が、冷静に口頭で戦っている。
「それは難しいですねェ。直接、塔のなかへ出向かないことには」
「ホウ……なぜです、警察が信用できないとでも?」
バルバロク警部補の額には、すでに茶色い亀裂が走っていた。ロビーの手にある絵本からは、少女リルの白くかがやく笑顔が、妙に地下空間で発光している。
「ここにいるアルバ様の……呪文の力じゃないと、解決できないかもしれないからですよ」
「えっ——僕?」
帝国魔術師たるアルバ様は、不意に呼ばれてマヌケな声をあげた。
「ギャハハいつまでも見てんじゃねーよ、汚ねぇーな!」
次から次へ起こる衝撃にぼんやりしていたノアは、コウモリジュースの店員に胸元を蹴り飛ばされた。(背蝙蝠族の貧弱な足技は、あまり痛くはなかったが)
(オレの……記憶が……1日しか持たない……?)
それより自分の情報について衝撃を受けていた。今までどうやって社会生活を送ってきたのだろう。いちおう故郷から1人で出てきて、部屋を借りて暮らしているのに。
「手ェ出すのはやめとけよ、見つかったら罰金刑だぞ」
「ヒャッハ、こうして殴ったことも忘れちまうから、平気だってェ……」
思い出そうとしても、思い出せなかった。故郷の海の匂いと、温泉の匂い、バケツの水に浸す音、時計がギイギイと鳴る音、わずかに断片的な記憶があるだけ……
「へえーー★そーーーう!」
一瞬の撃音が、ノア都市の石畳に響きわたった。
コウモリジュースの店員たちが、2人まとめて屋台ごと東へ吹っ飛ばされていき、直前まで店があった場所には——背中に広がる黄黒の斑紋に、ビロードのようなうねる尻尾、雷豹族の女がひとり立っていた。
「アタシのこと覚えてるぅー? ☆★キャハハッ」
閃光のような鋭い瞳に、雷鳴のように轟く声。
「……お……覚えてる……」
鮮血に染まる服を着た、どうみても危険人物である彼女と再会し——
ノアは安堵でほほえんだ。
「あのう……ヴェルヌ・ビネージュ警部はおいでですか」
「いえ、本日は外に出ております。塔での責任は、私が」
斬れ味と凄みのある『私が』を聞かされ、アルバ様は身震いした。
地下水道から時計塔へ上ったショーン一行は、いかつい刑事たちに囲まれ、捕虜のように縮こまっていた。
ビネージュ警部が引き連れていたメンツ……ギャリバー泥棒のガウル刑事らと違って、このバルバロク班は統率がとれて緊張感がある。
「それで、怪しい箇所とはどちらでしょうか。犯人が隠れている部分とは?」
「うーん。僕も直接みないことには……とりあえず一番上の層に行きましょうか」
ロビーはコキコキと肩を鳴らし、あまり頼りにならない声で先導した。
「まっちぇくれ、ワイは行きたくないっちゃ、無関係だっぺな!」
「ちょっとぉ〜、フェアニスも階段なんか登りたくな~い」
「おふたりは下で待っててください。紅葉はどうする?」
「私もショーンと一緒に行くよ。もちろん」
紅葉は両手に革手袋をはめ、戦闘準備を整えた。
トントン、トントン、と前と後ろを警察にかこまれ、厳戒態勢で『時計塔』の螺旋階段をのぼる。ロビーは列の先頭に、紅葉は最後尾に位置どり、ショーンは警部補に背中にぴったり張りつかれる形で歩いていた。
(……ロビーが確信に迫れたのは、時計技師のダンデ氏から何かを知ったからだよな。呪文のチカラ……やっぱり【Fsの組織】が関係してるのか?……塔から仮面の男が出てきたらどうしよう)
そう苦悩しながら塔の1層目をのぼっていると、歴代の『守り人』が飾られた額縁たちが見えてきた。
一番下に飾られてる写真は、ゲアハルト都市長とそっくりな人物——おそらく前都市長ゴットハルト・シュナイダー氏だろう。
(後で、この下にキアーヌシュの写真も掛けられるんだろうか)
階段を登りながら、何となくじっくり観察してみた。写真はほどなく肖像画へ移りかわるも、ショーンが知る顔はない……
いや、
「タクソス……エクセルシア?」
20人ほどいるなかで唯一、見覚えのある『守り人』の名は、同業者であるアルバだった。




