6 1羽の兎を追って
3月28日地曜日、時計の針は午後2時45分を指している。
紅葉とロビーは、屋敷の倉庫に預けていたギャリバー【ニーナ】に乗り、メサナ4区をめざしてプロア街道を走っていた。
時計技師の詰所は4区の中心部近くに、ダンデの自宅は、プロア街道をはさんだ4区北東のブリンク(縁沿い)にある。
久々のニーナのエンジンの感触を噛みしめながら、紅葉は今までの出来事を脳内のレコードプレーヤーに読みこんでいた。
大富豪キアーヌシュは3月27日銀曜日、首を吊って死んでいるところを見つかった。
ゴブレッティの秘密の設計図を盗難したはずのラン・ブッシュが、その日のうちに大富豪の塔に来襲し、設計図らしきものを探していた。
ゴブレッティの設計図、名前は【Noah】。
そして大女優の花火は、ノアの地下都市にまつわる奇妙な冊子を持っていた……
(ラン・ブッシュは大富豪に【Noah】の設計図を渡していた。でも花火がキアーヌシュを殺し、設計図を奪ってしまった。ランは大富豪が死んだから、取り返そうと塔に来たんじゃないかな……)
(でも花火は元気とはいえ老女だし、肥満体の大富豪を1人で吊り下げられるだろうか、協力者でもいるんじゃ……)
「どうかしました、紅葉さん。考え事してても安全運転は心がけて下さいよ」
「分かってるよ! そっちこそ絵本ばっかり見てて酔わない!?」
ロビー・マームはなぜか、先ほどからポルツ博士の『時計塔のれきし』をサイドカー内に持ちこみ、運転中も熱心に読みつづけている。
「ちょっと気になることがあるんですよねえ、なんだったかなあ。何かが変だ……」
ぶつぶつ呟きながら、大の大人がサイドカー上で熱心に絵本を広げているのを、通りすがりの土鼠族の少年が怪訝な顔で二度見していた。
ニーナ号は人混みが少ないプロア街道を軽快に走り、コントラフォーケ2区を縦断し、メサナ4区へと突入した。
(とにかく、今いる怪しい人物のなかでは、住所も経歴もハッキリしてる花火を、重点的に追った方がいいのかも……昨日、銀行員のエドウィンが彼女と “接触” してるし)
「ねえロビー。お友達のエドウィンくんは……犯罪の片棒を担いでると思う?」
「何ですかいきなり。アイツが? ははっ」
ロビーは絵本を読みながら、快活な声で笑った。
「さあて、人一倍の出世欲はありますがね。金持ちの懐に入るには手段を選ばない男ですが、さすがに直接的な犯罪行為はしないでしょう。ま、他人の深層心理なんて分かりませんが」
「そう…… “懐” ね」
さすがに紅葉も、彼が直接手を下しているところは想像できなかった。
「ま、我々みたいなのは金が好きなんですよ。カネカネカネ。金のために労は惜しみませんが、牢にいくような真似はしません」
ロビーから至言を承り、紅葉は唇を30度斜めに曲げた。
「あああ……んも、気持ちいいい」
「いかがですか、お客様。当店の尻尾つけ根マッサージは?」
「は、はひ、はひい、たいへんけっこうです」
右の店員が、ラメ入りの美容粉とかぐわしい薬効オイルを尻尾にぬるぬる塗りこみ、左の店員が、尻尾のつけ根から先っちょまでコスコスさすって、快感が脳天まで突き抜けた。
「気持ちいいでしょう? ショーンくん、あたしの大好きなオプションなの、オイルもお粉もたっぷりつけるとツヤツヤの毛並みを維持できるのよ。フフフ」
隣で花火も横たわり、おなじ施術を受けている。
お呼ばれしたサロンの一室は、オレンジ色のモザイクタイルが敷き詰められた暗室だった。電球はなく、代わりにおびただしい蝋燭の炎がゆらめき、極彩色の花が生けられ、小さな池に魚が泳ぎ、床は汗とオイルでヌルヌルぬめっている。
「むおう、そ、そうなんですねえ、だから若々しいん……くっ、は、花火さんここは長いんですか?」
「ええ、もちろん。タバサとはながーい付き合いでね。ここのサロンの会員番号、実はあたしが栄えある第1号なの」
「え、わあ、すごいおい……お、あ、あっ」
店員が、自分の両手で輪っかをつくり、ショーンの尻尾をぎゅっ、ぎゅっ、ぎゅっと圧をかけて揉んでいく。1回揉まれるごとに、変な声が喉から出てしまった。
(待った! こんなので感じてる場合じゃない! 僕はこのサロンで大富豪の死についての情報を見つけなきゃいけないんだ! そして花火にも近づいて情報を引き出す!)
「僕こ、このサロンが、うわ、すっごくいいって、キューカンバーさんから聞いたんです……大富豪秘書の……会員1号の花火さんならご存じです、うっ、か?」
「あらあら、どこの大富豪様かは存じませんけど、良いサロンなことは確かよ。うふふ、帝都から最新の美容法を取りいれてるの」
「そ、そうなんですか……きゃッ!」
尻尾の先っぽをキュキュっとひねられ、女の子みたいな悲鳴が出てしまった。
(まずい、聞き方が悪かった! しょうがない、キューカンバーのことはいったん諦めよう、ビネージュ警部のことは知ってるだろうか? 彼らのことを……もっと……もっと)
「あ、ああ、も、尻尾は大丈夫です!! あ、あっ、あ……っ」
店員の手は止まらなかった。細かな目をした銀のクシで尻尾の毛をとかされた。テクニックの違いなのか、自分でとかす時とまったく違う。クシを垂直に立てられるたびに体が火照り、背骨の奥がキュッキュッキュッと感じてしまった。
「は、はあ、ふう、ふーうっ」
「どうかしら、ショーン君、気持ちいいでしょう、極上の快楽が味わえるの」
ショーンが必死に深呼吸して平常心を取り戻そうとしていると、奥でチリンと小さな鐘の音が鳴った。
「お客様、お顔のマッサージに入りますわ、眼鏡をとってくださいまし」
「め、メガネっ!? いやいや、僕はアルバですから、アルバたるもの、んめ、眼鏡をとるわけには……!」
「あらあら、ムリしなくていいのよ。お仕事、おつかれでしょう……?」
花火がぬるりと立ち上がり、ショーンの首元まで来て、羊の耳をゆっくりと爪をたてて揉みほぐし始めた。
『んね……気持ちいいでしょう、……もーっと優しくしてあげるからね***』
少女のような声の老女が、ふーっと甘い吐息を吹きかけ、大きな羊角の下に眠る、敏感な耳の裏まで伝わった。
「嫌だ、いやだあ……あっ!」
ショーンは施術台の上であがいた。
その姿はタイルの上でもがく蜘蛛のようだった。もがけど、もがけど、タイルでつるつると滑って前へ上がれない。
触覚がおかしい。痛覚がない。あるのは、そう、快楽だけ……
(これは……おかしい……とけて…いきそう)
夢を見ているのか呼吸しているのかすらもう分からない。
ショーンは無限の快楽へといざなわれた。
寒気が突如、紅葉を襲った。
ハリネズミの針のように全身の皮膚に棘がつき刺さる。
「ねえロビー! ギャリバーの運転免許持ってる?」
「学生時代にとりましたけど、それから一度も運転してな……」
「じゃあ大丈夫だね! ニーナをよろしく」
紅葉はエンジンがかかったままのニーナ号を、ロビーに託し、運転席から跳び降りて走っていった。
「ちょっ、せめて止まってから降りてくださいよ、うおわわわわ!」
珍しく焦ったロビーの声を背中に聞きながら、紅葉はコントラフォーケ2区にある、『タバサのビューティーサロン』へ駆けていった。
「ショーン、ショーーンッ!」
複数の兎を追うのは難しい。
1羽の兎を見定めて追うのはさらに難しい。
「出て……出てよっ、ショーン、出てっ!」
返答のないトランシーバー【エルク】に怒鳴りながら、
トレモロ神殿が崩落する直前、エミリアのアパートで神殿から出た煙を見た時と同じ激情が、紅葉の心臓に灯っていた。