4 白旗と溶き卵
皇暦4570年3月28日火曜日。0時45分。
大富豪が亡くなった直後のノア都市の夜は、いつもより人々の往来は控えめだった。
都市長が昼に、夜行性の通勤通学を控えるよう大々的にお触れを出したせいで、みんな自宅でゆったりと休日を享受しており、いつもは喧噪はげしい夜のビル街も、ぽつぽつとまばらな人影が見えるのみであった。
ゆえに、コントラフォーケ2区、とある金融ビルの横を通りがかった重犬族の老婆が、ふと、上空から女の絶叫が轟くのを垂れた耳でキャッチしたものの、
「フ……ア、ニ、……! ……しねええ……ええっえええッ!」
老婆はまた鳥族たちのバカ騒ぎかと鼻を鳴らした。
「ったく、昔はこうじゃなかったのに。なんもかんもカネのせいさ」
そう呟きながら、トコトコとステッキを突いて去っていき、ほかに悲鳴に気づいた者はいなかった。
「フェア、ニ、ス………ッ! 死ねええええっえええッ!!」
殺意の塊が、紅葉の喉から飛び出し、肉体と命を断つべく、銀のダガーナイフを振り下ろしていた。
紅葉の大腿骨と太ももは、宿敵フェアニスリーリーリッチの両手と胴体をがっちりと捕捉している。
彼女が呑気にトランシーバーで会話している間、密かにロープを素手でぶち切り、自力解放に成功していたのだ。
油断した彼女の腰から、ナイフを奪うことにも成功し、
フェアニスの腰に乗り上げ、
前日の復讐と、今日の報復と、
10年分の恨みつらみを全てぶつけんばかりの勢いで、
生意気な蒼鷲族の首元に、刃を突き立てようとしたその瞬間————!
「ん、待ってええっ、降参! こうさん、こうさん、こうっさーーーんっ‼︎」
「…………は?」
首の薄皮すんでのところで、ナイフのエッジが止まった。
「はいはい負け負け、フェアニスちゃんの負ーけっ!」
フェアニスが嘴唇をパクパクさせている。
この状況はいったいなんだろう。負けを認めている? 許しを請うている……? 昨晩、自分をボコボコにしてきた、あのフェアニスリーリーリッチが?
「んねっ、もういーでしょ、ゆーるーしーて! ムダな流血はやめましょう、知ってること全部話すからー」
彼女は体と声色をクネクネさせて、全身で媚びてきている。
プライドは無いのだろうか。
「……【Fsの組織】を裏切るってこと? そんなの信じるとでも……ッ」
「だからー、組織のことはよく知らないってば! フェアニスはそっちの関係じゃないっつーの」
そっちの関係者じゃない?
もう1つ、別の組織があるとすれば……コリン駅長絡みだろうか?
コリン駅長は、ユビキタスみたいに魔術関係者じゃなさそうだし、たしか珍しい植物の愛好家のネットワークがあるって、トレモロ地区のカブジ駅長から教わった気がする。
「じゃ、もしかしてコリン駅長の、珍しい植物の、」
「ハァ? 何それ、それもちがーう! もう埒あかないって、あんたのボスん所に連れてってちょうだい。サウザス事件を解決したっていうアルバ様なんでしょ~、えーと、ジェフだっけ?」
「ショーンだよ。ショーン・ターナー」
紅葉はいったん毒気が抜かれて脱力したものの、フェアニスリーリーリッチの首筋からナイフの刃先を離すことはけして無かった。
「どうしよう……どうしよう!」
ショーンはコチコチと時計の針が動くなか、ロビー・マームの病室内で、混乱して動揺していた。
(今すぐ病院から出て、紅葉とフェアニスを探しに行かなきゃだめだ!)
(でも、ロビーの容態が気になる。まだ意識が戻ってないし、後遺症が出ないよう治癒しなきゃならない)
(イヤ、そうしているうちに紅葉が重大な大怪我を負ったらどうする?)
(こうしてモタモタしてるうちに亡くなったら…………!)
「僕……いかなきゃ…………ごめん、ロビー!」
自分の決断が、人の一生を変えてしまう。
拳をにぎり、泣きながらノア第一病院を出てきたとたん——腰に下げたトランシーバー【ムース】が鳴った。
『ショーン、あのね、フェアニスリーリーリッチを確保したよ!』
「えっ」
いざ走らんと、宙を跳ねたサッチェル鞄が、反動で勢いよく戻って、ショーンの腰に思いきりブチ当たった。
「確保って……また逃げたりしないのか? あいつ、銀のクロスボウ持ってただろ」
『大丈夫、ちゃんと全身ぐるぐる巻きに縛ってるから!』
『ンー、ンー、んーー!』
『いま病院にいるんだよね? ごめん、ちょっと時間かかったけど、約束どおりフェアニスのこと捕まえたから! 今からそっち行くからねー』
紅葉は、前々日の夜に決めた目標をやり遂げた。
ショーンは……
「ロビーの治癒をしなきゃ!」
急いで、仲間を治しに病院へ戻った。
サウザスにいた頃は、治癒の仕事にうんざりしていて【帝国調査隊】になったはずなのに。なぜか転職してからのほうが、治癒師としての腕も経験も、数段あがっているのは皮肉なものだ。
それから10分後、ラヴァ州ノア地区の東隣の地区、コンベイ。
「んごー、んゴーッ!」
「起きてください、せんせー‼︎ 電信でぇーっす」
「ンゴゴゴッ——⁉︎」
円猫族の部下ナターシャに起こされ、コンベイ街に住む唯一のアルバ、治癒師トーマス・ペイルマンはベッドからずり落ちそうになった。
『ったく、こんな時間に誰だ、バカモノ!』
『夜分遅くすみません、ショーン・ターナーです。毒矢クラーレの治癒はどのように行えばいいですか。おそらくアルカロイド系の植物毒なのですが』
『んあんっ!?』
パジャマ姿のペイルマンは大きな腹を搔きながら、ベッドサイドまで部下ナターシャが運んできた、電信鍵盤のキーを叩き、若き無作法者へ返事を送った。
『クラーレな……毒の成分が判明していない状態か。毒液自体は手元にあるんだろうな』
『はい。シャーレ容器に入ってます』
『フン、よろしい。成分が未判明状態での毒治癒呪文は、あるにはある』
ペイルマンは手元の電灯をつけ、本棚から【星の魔術大綱より3歩発展、死者蘇生まで1歩手前! 〜高等治癒呪文集〜】を引っぱりだし、該当のページをペラペラめくった。
『仕組みはこうだ。まずマナに毒液の成分を記憶させる。そのマナを患者の体内に入り込ませる。マナは体内を泳ぎ、記憶と一致した毒を見つけ出して吸着し、自分たちと同じマナに同化させる……』
『毒を覚えさせたマナが、自動的にその毒を探してくれるってことですか?』
『そうだ。同化後のマナは、数日間、通常のマナとして体内を循環し、そして消滅する』
『なるほど——その方法なら、成分が不明でも解毒できますね』
『ああ。ただ毒がすでに体内で変化済みか、吸収が激しいと間に合わん。急げ』
ショーンは、頼もしい先輩魔術師が解説してくれる複雑な治癒呪文を、計算し、調整し、唱えることに成功した。
【同化とは緩やかな戦争である。 《ビートゥン・エッグ(溶き卵)》】
解毒呪文 《ビートゥン・エッグ》。【星の魔術大綱】に掲載されていない、プロフェッショナル用の高等治癒呪文だ。
文言を唱えた瞬間、ショーンの左手から、はじけるような卵黄色のマナの光がしゅんしゅんと瞬いていた。
慎重に手のひらを下に向け、シャーレ容器の口を覆うようにそっと被せると……マナの光は、黒い毒液に吸着し、白身と黄身が混じりあったような溶き卵色へと変化していった。
「……よしっ」
そのまま意識を失って横たわるロビー・マームの元へ、そろりそろりと近づき、彼の左肩の傷口へ、溶き卵色のマナの光をそっと被せた。光はすぅーっと、まるで割れた卵から黄身だけするりと皿へ落ちてくように、綺麗に落下していき、ロビーの体内へ入っていった。
「これで……成功か?」
ショーンの手のひらから離れたマナは、ロビーの大きな肉体内部を探索しているのか、体のあちこちから溶き卵色の光をぽっ、ぽっと点滅させている。
『よろしい。後遺症が出るかどうかは、毒の進行度と本人の免疫力に掛けるしかないが、ひとまず一晩様子をみろ』
『ありがとうございました、ペイルマンさん。おかげで助かりました』
『そうか、二度と掛けてくるなよ、小僧!』
『はい、また何かあったら相談します』
ふてぶてしい青年魔術師は、軽く礼をいって電信をすぐに切った。
「ふん……あの歳で《ビートゥン・エッグ》を成功させただと?」
トーマス・ペイルマンは電信が切れたあとも、しばし【〜高等治癒呪文集〜】のページを見つめ——学生時代の怒りがこみ上げる前にバタンッと本を閉じ、サイドテーブルにバンッと置いて、ベッドに戻った。
「やはり学校一の治癒呪文の使い手、 “怪童” スティーブンの息子か……フン、いまいましい!」




