1 逮捕はしません
【Specialty】スペシャリティー
[意味]
・専門、専攻、得意分野
・特製品、特別品、名物
・特徴、特性、特質
[補足]
ラテン語「specials (独特、特有の)」に由来する。スペシャリティーには「特有のもの」「専門化されたもの」「特別なもの」という3種類の意味がある。すなわち、自己特有の個性を生かし、専門家として得意分野を極めたあかつきには、特別な一級品へと昇華する。
3月20日銀曜日、トレモロ4日目の午後4時半。
薄暗い刑事課デスクの白い電気灯の元で、紅葉が真剣に書類をめくっている。
ショーンはこの間に何かしなければと、胸を探り……
「……そうだ、ちょっとゴフ・ロズ警部へ挨拶に行ってくる!」
ふいに用事を思いついて、廊下へと飛び出した。
(エミリアが別の案件を持ってくる前に、先に署長を言いくるめなきゃ!)
暗号電信を教えてもらうってだけなのに、これ以上ムダな労力かけられたら堪らない。ショーンは署長室のドアをノックし、相手の返事も待たずに中へ入った。
「すみません、署長……」
「ふざけるな、小娘! これ以上ゴブレッティの敷地を穢すことは許さん!」
「ですからね、社長! あの土地は町のものですわ、どうするかは役場で判断します!」
そこにはゴフ・ロズ警部を挟んで、意外な組み合わせ——町長の娘アンナと、木工所社長のアルバートが、互いに睨み合っていた。
「……お取り込み中のようで」
「お待ちくだされっ、ショーン様! このワンダーベルの薄汚い小娘が、大事な大事なゴブレッティの敷地を、訳のわからない卑しい者どもに住まわせようとしているのです! あげくに弊社に建設工事の依頼まで……おお、穢らわしい‼︎」
「聞いて下さいまし、ショーン様! 70人もの大家族をひとつの家に住まわせるには、あすこの土地が最適ですのよ。町議会のほうでも、長年あの空き地に、大型住宅の建設を検討していたのです。今こそ活用する時ですわ!」
「神聖なる土地を、空き地呼ばわりするなっ!」
「何よ、レイクウッド社には何の権利も権限もないじゃないの! 貴方たちは与えられた仕事をやればいいのです‼︎」
「…………」
年季が入った作業着姿のアルバートと、泥だらけのドレスを着たアンナ。両者一歩も引かずに罵り合い、ショーンは一気に干した梅のような顔面になった。猿の尻尾が5ミリ縮んだ気がする。
「ええと……」
先ほどアンナが居なかったのは、ずっとここでアルバート社長とケンカしていたせいだろうか……。ゴフ・ロズ警部をチラッと見たが、木像のように動かない。揉めてる2人はアルバ様の顔をじっと見ている。
この場はショーンの采配に託された。
「……双方、揉めているのは分かりました。状況を確認させて下さい。仮住まいじゃなく、本当にゴブレッティ邸の跡地に、ライラック夫人たちの家を建てるんですか? ……失礼ですがお金は?」
てっきり引っ越し先が決まりしだい、テントから正式な家へ移ると思っていた。あの土地に住むとなると、社長が怒る気持ちも正直わかる。
「ご心配いりませんわ。ライラック夫人は、サウザスのお屋敷を売って手放すそうです。建設費はそちらの資金を使いますの。土地は町からの借地という形になります」
「ふざけるな……サウザスの屋敷なんぞ、大したイゴにもならん。みすぼらしい家ができてしまう……!」
イゴはお金の単位である。1イゴは10000ドミーにあたる。
ゴブレッティ邸がどんな立派なものだったのかショーンは知らないが、次に建つ家の価値は相当落ちるだろう……しかし、なぜそんな貴重な邸宅を取り壊してしまったんだ?
悩みこむショーンを一瞥し、コイツに頼むのは不利だと悟ったアルバート社長は、ゴフ・ロズ警部に矛先を向けた。
「とにかくッ、権利もない他人の土地に、勝手に居着いたのはライラック夫人の方です! いくらゴブレッティ家の元メイドだろうが、不法侵入罪ですぞ、警部! あやつらを全員逮捕すべきです!」
「逮捕されるのは貴方ですよ、アルバート社長。もうトレモロ町は、ライラック夫人の居住に合意しているのです! これは公務執行妨害ですわ!」
アンナも一歩も引く気はなかった。
眉間に皺を寄せたゴフ・ロズ署長が、深い深い息を吐いて、両者に答えた。
「——ゴブレッティ邸跡地は、現在トレモロ町が所有しております。どうするかは町の判断です。トレモロ警察としては、空き地は治安悪化に繋がりますので、何がしかの建物がたち、有人で管理された方がよろしい。逮捕はしません」
木工所社長アルバート・レイクウッドは、セイウチのような顎髭と巨体を震わせ、怒りで壁をつんざかんばかりに奇声を上げた。
「トッレモロ警察の役立たずが! いつもそうだッ、お前たちは! 目の前で宝が失われていくのに、ボンヤリ見過ごす! 保身に走り、悪化してから慌てふためく! コッチがあらかじめ忠告しても、他人事のようにせせら笑うんだ! 町民の無事などどうでもいいのだろう? ええ?!!」
アルバート社長は叩き壊す勢いで署長デスクを叩いたが、ゴフ・ロズ警部は眉一つ動かさず、椅子に座ったまま冷静にギロリと凝視していた。
「クソッ、あんなのを住み着かせる方が治安に悪いぞおおおおおうう!!」
社長は遠吠えのような捨て台詞を吐き、ドスドスと音を立てて署長室を出ていった。
「……ふう。申し訳ありませんわ、ショーン様、ゴフ・ロズ警部。あの方はゴブレッティの話となると、ああして冷静さを欠きますのよ。痛ましい」
「いえ、大変でしたね……」
「水の神イホラにお祈りしましょう、皆さん。こういった時はそれが一番です」
ゴフ・ロズ警部が、威厳のある声で提案した。
「まあ、良い考えですわ! そうしましょう」
この場を勝利したアンナは、肩の荷を下ろした顔で【水の神 イホラ・サシュ】に祈りを捧げ、警部とショーンも追随した。
【水の神 イホラ・サシュ】は、水と清浄を司る、平等と許しと便通の神様である。半分目を閉じ、何も持たず両手を開いてじっとしている。川の神と考えられており、海や湖、雨の神ではない。イホラは七曜神のなかで唯一性別のない神だ。水は性別がなく、透明であり、全てに平等である。また心の醜さや体の老廃物を洗い流す、許しとお通じの神様でもある。
飲食店や酒場では、よく【水の神イホラ】の水曜日を休日に設定しているが、じつは酒神や食神はまた別におり、本来は怒りを鎮めるときや、人の過ちを許すときに祈る神だ。(もしくはトイレでいきむとき。)
警察署で神に祈るのは何となく畑違いのような気もするが、祈ったことで、アンナの赤くなった頬は通常になり、ショーンも何となく気分が晴れた。
「しかし、トレモロに生まれ住むものとして、あすこが住宅地になるのはいささか寂しいものですな。できれば、皆が利用できる施設になれば良いのですが……」
ショーンが何となくモヤモヤしていた想いを、ゴフ・ロズ警部がそれとなくアンナに振ってくれた。
「そうですわね、今までも色々と案は出ていたのですわ。でも公民館としては既に役場がありますし、立派なホテルやレストランを作っても、森しかない辺境地では観光客が見込めませんの。宿屋カルカジオですら閑古鳥が鳴いている……そもそもゴブレッティ一族の亡き後、トレモロは財政難なのです……」
無いレースは振れないと言わんばかりに、アンナは首を傾げてため息をついた。




