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弱き者の選択

作者: N(えぬ)

 一人のロックスターがいた。

 煌めく光の中で彼はギターを引き裂かんばかりに激しく弾く。観客は声を上げ、腕を振り上げ、飛び跳ねて熱狂する。

 彼は自身の作曲でこの数年、ヒットを連発していた。その腕が買われてほかのアーティストにも多くの曲を提供していた。曲はロックだけでは無い、スロウバラードもあれば演歌でさえも作った。とにかく彼の曲は、外れが極端に少なく、何でもヒットした。それはもう、神がかりといえた。


 彼は作曲をある部屋に籠もって行う。その部屋は通称「作曲部屋」「作曲室」と呼ばれた。

 その部屋には彼と、彼から許された一部の人間しか入れなかった。

 部屋の中には楽器などの機材がいくつかと机と椅子、ベッドがひとつ、冷蔵庫がひとつあった。それだけ見れば、普通の部屋だったが、窓は無く、出入りするためのドアが機密性を保つためのハッチのようになっていて、閉じると中の音が一切聞こえない仕様になっていた。

 部屋の中で楽器を演奏したりするのだろうが、外からは、微かにさえ何の音も聞こえないのだった。そして、そのドアは誰であっても許可無く開けることはできず、まずインターホンで中の彼に許可を得てドアのロックを解除してもらわなければならなかった。

 そんな彼の作曲法はしだいに有名になり、その部屋には特定の身近な人物以外、誰も入れないところから、内部を見せて欲しいというメディアの取材申し込みもあったが、全て断られていた。


「部屋の中でクスリをやってるんじゃ無いか」


 そんな噂もよく聞かれた。彼はそう言う話を聞くと笑い飛ばした。最近では、それを笑い話のように自分からネタとしてインタビューで話題にしたりした。しかし、疑念は消えなかった。


 彼は数年前まで、売れないロック歌手だった。それが突然に売れる曲を作れるようになったことがなんと言っても不思議に思われた。だからこそのやっかみや妬みもあったろう。


 彼は誰かの策略でとうとう警察に事情を聞かれる事態になってしまった。それは「クスリ」についてである。警察のする全てはまず任意にだったが、このことはどこからかメディアに漏れて騒ぎになった。「やっぱり」というような断定的な憶測を書く記者もいた。

 このような事態になって彼を取り巻く関係者は気が気では無かった。彼の代理人は各種メディアに「問題は何も無い」と繰り返した。いくらそうしても、「本当のところはどうなんだ」と聞いてくるものも多かった。そんな風に念押しされてもやはり代理人は「問題は何も無い」と、そう繰り返すだけだった。


 そしてロック歌手は、

「検査だろうが何だろうが、してもらってかまわないよ」と平然と応じた。薄笑いした。

 警察は検査をしたが彼の体内にクスリの痕跡は無かった。

 ついで、噂の「作曲部屋」も警察に入室が許された。部屋の中はつぶさに探られたが、そこでも何も出てこなかった。そして、この際だからと「一度だけ」という制限付きでメディアにも作曲部屋の中が公開された。

 彼はこの一連の事についてことさらに抗議はしなかった。ここでもやはり彼は笑っていた。



 数年前のあの日。彼は小さなアパートの部屋にいた。売れないロック歌手として、もう廃業しようかと思っていた。しかし今更、普通のサラリーマンになる気もしない。モヤモヤした絶望感が頭に流れ込んで来て彼を苦しめた。こんなに苦しいのなら命を絶とうかとさえ思った。

「才能が欲しい。いい曲を作れる才能が」

 彼は暗い部屋の中でぼんやりとベッドに腰掛けていた。その時に声が聞こえてきた。

 悪魔は人が弱みを見せるとすかさず近寄って来て、その苦しみを救ってやると甘言を投げかけて来る。

「もしもし、あなた。自分の才能のなさに絶望しておられるようですな」

 彼がその声を聞いてうなだれていた顔を上げると目の前に黒い靄のような塊が浮いていた。声はそこから出ているようだった。

「あなたに才能を上げましょうか」

「才能を?」

「ええ。ヒット曲を作り出す才能を」

「お前、誰なんだ」

「私は悪魔。これはつまり、悪魔のささやきってやつです。あなたに才能をあげる代わりに、あなたの魂は私がいただく。そういう契約をするのです。どうですか」

「本当にヒット曲が作れるのか。売れる曲が?」

「はい。それは保証します。間違いなく売れます」

 彼は少し考えていたが、どうせ絶望していた自分がどうなろうと同じでは無いかと思った。それよりも、一時でも大スターになれる可能性に賭けたかった。

「わかった。魂はくれてやるから、俺に才能を……」

「それでは契約成立ですね。いいですか、これからあなたの頭の中に売れる曲が浮かんできますよ。曲を作りたくなったら部屋の中で一人で私を呼んでくだされば、何曲でも」

 すぐに最初のヒット曲が彼の手によって生まれた。その後も続々と。

 彼の栄華の始まりだった。


 彼は今日も作曲部屋に入って閉じこもった。そして悪魔を呼んだ。すると黒い靄のようなものが現れ、彼の頭に曲が生まれる。

 彼は陶酔した。自分の頭の中に生まれる曲に自分で聴き惚れた。そしてそれを発表すれば、やがて世間の聴衆がまたその曲に耳を傾けて熱狂し涙し吠えることを感じ取れた。

 彼には、スターになってからもうずっと道徳的観点から許されない行為への誘惑が引きも切らなかった。

「クスリ」

「オンナ」

「あり得ないほど年若い少女」

 それらの誘惑は、要求しなくても誰かが向こうから持ってやってくる。

 だが彼はそういうモノを必要としなかった。

 作曲部屋で曲を生み出すときに感じる「アノ快感」は、人がこの世で体験できるどんなエクスタシーをも上回る興奮と感覚をも彼に提供してくれていたからだ。

 だが彼に不安が無いわけでは無かった。

 いつ自分の魂がすべて悪魔に奪われてしまうのか、それは分からなかった。

「いつだ?」

 問いかけても悪魔はクスクス笑うだけで答えなかった。

 恐らく悪魔はこのロックスターの幸せの絶頂期に奈落の底へ落とすつもりなのだろう。それを楽しみに待っているのだ。

 ロックスターはそれでもいいと思うようになっていた。

 彼はこの年月を過ごす間に、幾人もの、自分に並び称されるようなスターが哀れに消え落ちていくのを目の当たりにしていた。

「曲を生み出すことで得られる、形あるものはほとんど害悪でしか無い。聴衆と私の間に起こる熱狂だけが美しい」

 彼は世の中のほかのことに興味が薄れ始めて、彼の心のよりどころは、彼自身が生み出す音楽だけに集約されていった。

 だがだからといって、彼はほかの人間にその快楽的なものを共有することへ誘うことが無かったし、むしろそのことについて問われてもあまり答えなかった。

 求道者や先駆者が口にするような真理的なことばを発することも無かった。

 彼はことばを発しない代わりに曲を奏で、それによって人々を感嘆させ満足させた。


 充実して自分に酔いしれ、人を酔わせる楽曲を作り続けていた彼の、あの部屋にある日一人の男が出現した。

 例の見知った悪魔では無い。見たことの無い男だった。

「どこから来たんだ、おまえ」

 見たことも無い男の出現に狼狽して彼は慌ててドアのほうを見たが、ドアは閉じていた。

 出現した見知らぬ男が穏やかな諫めるような目つきでロックスターに言った。

「私はお前が取り憑かれている悪魔を退けてやる。お前は救われたのだ」

 男がそう言うとそばに浮いていた黒い靄は四散して消えてしまった。そしてその見知らぬ男もすぐに消えてしまった。

 それっきりロックスターの彼の作曲の才能も消えた。

 部屋には彼がいるだけで、ほかに誰も見当たらない。

 彼はいつものように新しい曲を思い浮かべようとしたが、それはもう出来なかった。何をどうしても、泣こうが喚こうが、壁に頭を押しつけようが、ギターを叩き折ろうが、何をしても音符の一つも思い浮かばなかった。

 彼は目から鼻から口から、涙を流して言った。

「いい曲をっ、おしえてっ、くれよっ!……たのむよ……」

 彼は跪いて、誰もいない虚空に向かって、よだれを流すように話しかけているのだった。



 それから彼は困ったことになった。作曲が出来なくなってしまったからだ。受けていた仕事は全てキャンセルするしか無かった。おかげで逆に違約金をガッポリ取られてしまった。日ごろから浪費を重ねていた彼は、結局何もかも失うことになって、むかしの貧乏で見所の無い彼に戻ってしまった。


「ああ、なんてことだ。せっかく悪魔とうまくやっていたのに。あのとき現れたあの男。あれは、つまり神だったって事か?まったく、俺が何を願っても何一つ叶えてくれたことが無いのに、よけいなことはしに来るんだな……どうすりゃいいんだ俺は」


 彼は、これまでに作った曲の偉功で細々となんとか食いつなぐことは出来た。

 人々は彼の才能が枯渇したのだと考えた。それは業界の人間はよく見る現象だったからさほど気にもしなかった。

 彼のブームは去ったのだ。


 10年ほどが過ぎたときだった。彼はもうすっかり人々に忘れられたアーティストになっていた。

 大御所と言えば聞こえはいいが、「今のスター」との接点はまるで無かった。

 またも彼に絶望感が押し迫ってきていた。白亜の豪邸に住んでいたのが、抜け出せない贅沢な生活と周囲の人間の「ハイエナのたかり」が彼を痛めつけて、いつしか今はまたアパート暮らしだ。

 彼は寂しい湿っぽい部屋に戻ってきた。


「懐かしいなぁ。あのころ……」


 彼がそんな思いを胸にして生きている間に月日が流れた。

 むかし彼がヒットさせた曲がリバイバルブームになってまたヒットし始めた。正確に彼の曲がそのままリバイバルしたわけでは無かった。彼の作った元の曲に少し手を加えて違うものへと進化させた曲が話題を集めたのだった。

 彼はまた注目を集めるようになった。今度は新しい曲を作らなくても、勝手にむかしの曲が稼いで彼を豊かにしてくれた。中には最初に出したときよりもヒットする曲さえあった。また彼の時代が来たのだ。彼は苦笑もしたが躍り上がって喜んだ。


 彼は、もう50才という年になっていた。顔には皺も増え、頬は目尻はたるんで下がった。髪の毛も白くなった。服だって、むかしのモノはもう着られるようなものはとうに無かった。


 彼は思い立ち、かつて交際していた一人の女性を探し出し、訪ねた。

 彼女は小さなマンションに住んでいた。

 彼は彼女にかつて、贅沢をしなければ2,30年は暮らしていけるくらいの金を渡して別れ、遠ざけた。 それ以来再び会うことはないだろうと思っていたが、今またこうして会うことになった。

 彼女にはもう中学生になる娘が一人いた。彼女はその娘と二人、助け合いながら生活していた。

 ロックスターはかつての交際女性のマンションを一人訪ねてエレベーターに乗った。

 エレベーターに乗るとき、食材を一杯に詰め込んだ袋を下げた中学生の少女が乗り合わせた。

 エレベーターの降りる階のボタンは同じ階であったから、そのことで少女は一瞬彼に嫌な顔をした様だった。

 少女は買い物の荷物を持ち、学校のカバンも肩から提げていて、とても大変そうに見えた。

「買い物の袋。持とうか?降りるのは同じ階だから」「お断り。触らないで……」

「ああ、そう」

 空気は気まずくなったが、エレベーターを降りる階は同じと分かっている。

 エレベーターの扉が開いて、少女が先にフロアに出たが、少し立ち止まってあとから降りた彼を先に行かせようとした。少女は自分の後ろから突いてこられるのを嫌ったのだろう。

 ロックスターは自分の目的とする部屋番号を確認して、そちらに向かって廊下を歩き出した。方向が同じだったことにイヤな感じを受けながら少女も少し間を開けて歩き出した。

 彼は目的の部屋番号の前で止まった。

 数メートル後方に少女が荷物を持って立っていた。

 呆れたような顔。

「うちに用があるの?それともあたしになんかしようっていう気?」

 ロックスターは自分がそんな風に、不審人物に見えるのだろうかという気がして、ショックを受けたが、元は日本を代表するようなロックアーティストだったことを考えれば、雰囲気として一般人に見えないかも知れないことは、理解できた。

 彼との距離を開けたまま立ち止まり、訝しげな目つきで彼を見据えて質問してくる彼女に、彼は微かに微笑み少し足元に目を落としてから顔を上げた。


「僕は、君に興味があってついてきた男とかそういうものじゃないんだ。君のお母さんに用があるんだが……」

「ママに?」

「洋子さん。今いるかな?」

 少女は彼の質問に答えるべきかどうか逡巡したが、

「たぶんいない。あと2時間くらいしたら、帰ってくるかも知れないけど。……仕事してるから。残業することもあるし」

 ロックスターは少女の無駄の無い話しぶりに、大人の人間を感じて、とても嬉しいような誇らしいような気持ちで彼女の声を聞いた。

「そうだよね。まだこんな時間だ。仕事をしていれば……そこら辺の計算が、アタマから抜け落ちていたな」

 彼は自分の、この唐突な訪問が基本的に浅はかだったことを反省して、そして困った顔をした。

「良さそうな時間になったら、もう一度来てみるよ。ええと、俺の名前は『滝沢』だよ。滝沢が訪ねて来たって、おかあさんに言ってくれれば分かると思う」

「おじさん。ママのなんなの?」

 少女の滝沢へのことばつきはつっけんどんだった。それで滝沢は元々口に出しづらかったことが余計に言いにくくなった。けれど言わなければならなかった。

「ああ。君のママの……というのは、今はもう重要では無いかも知れない……それより」

「なに言ってるのか分からない。それよりなに?」

「僕は君の父親なんだ」

 少女の顔は、開いた口が塞がらないというのを体現しているような顔だった。

「ママに言い寄ってくる男は、今までもたくさんいたけど……それは新しい、ママの口説き方なの?

ママが落ちないから、先にあたしに取り入ろうって言うこと?……ほんと、新しいワ」

「……君はママから聞いていないだろ?父親が誰か。……僕はママと別れるときにそういう要求をしたことは無いけれど、彼女はなにか考えがあって、すべてを伏せたままで君を生み、一人で育てていくと決めたらしかった。僕からは何も意見することは出来ないからね。すべては君のママの一存だった。……僕に出来ることは、金銭的な支援だけだった」



 滝沢は、少女と出会ってからすぐに別れて、3時間ほどしてまた少女らの暮らす部屋を訪ねた。

 洋子に誰か特定の交際男性はいないようだった。滝沢と別れてからずっと二人でやってきた。

 シングルマザーで、しかも父親が誰かを口外しないまま生きていくのは、いろいろ不都合もあったろうが、洋子をそうさせたのは「滝沢との娘」という誇りのようなものだったようだ。世間で滝沢が強くある限り、自分もまた娘と供に強く生きられるというような、支えにしていた。それだけ彼を愛していたのだろう。


 前触れも無く訪ねて来た滝沢に洋子は懐かしい顔をして出迎えた。

 洋子は夕食を作ると言い、幾つかの料理を作った。それは娘麻里の好物ばかりだった。だがそれ以前にそれは滝沢の好物だった。『そんなこと、考えたことも無かった』それが麻里の感想であり衝撃的事実だった。

『父娘で好物』

 それは洋子にとっては、嬉しいこと、予測できる一致であったが、麻里がそれに気づいたことは、食欲減退に繋がった。

「同じものが好きじゃイヤ?親子なんだから気にしなくていいじゃ無い」

 洋子は娘の様子に、事も無げに微笑みながらそういった。娘は心中穏やかでは無かった。そういうことは母親洋子にも分かっていただろうが、それを感情的に問題視して語り合うようなつもりは無いようだった。

 白い、二人家族にピッタリな大きさのテーブルを3人で囲んでいた。一人は「いつか来るこの時が来た」と思いながら。一人は、平穏を乱すものに憤りを感じながらも、一向印象を悪い感じを受けない男に、それでもやはり抵抗を感じながら。一人は、かつて、ただただ栄光と成功とに酔いしれて、自分の生み出すものに歓喜しながら自分勝手を追求し、やがて落ちぶれて周りに誰もいなくなったことを思い出しながら。


 滝沢の娘麻里は、滝沢が作った一昔前の音楽には興味が無かった。だからナマの滝沢を今日初めて見て、なんとなく見覚えがあると思ったが、なんかちょっと小洒落た格好のおじさんくらいにしか思っていなかった。

 麻里は、自分の母親に言い寄ってくる男をいつも警戒していた。母親洋子は40才を少し過ぎていたが、まだ男を惹きつける輝きを持っていた。そして近づいてくる男はだいたいが麻里とも仲良くなろうと試みてきたが、そのうちに洋子では無く麻里に「興味」を示す男もいた。

 複雑な家庭環境に育った麻里。狡猾で淫らなことに対して経験と知恵を持つ男の接近に対して、麻里は唾棄すべき嫌悪を持っていた。

 洋子と麻里が滝沢に関係のあることは、公には固く伏せられていたが「知っている者」は知っていた。だから麻里に芸能界デビューを持ちかけてくる話もしばしばあった。けれどそれらは洋子がすべて潰していた。洋子は決して、父が滝沢であることを洋子に説明しなかった。


 滝沢は、それから定期的に洋子と麻里の所へ足を運んだ。

「いまさら、仲睦まじい理想的親子になりたいとか、そういう姿を世間に見せたいなんて図々しいことは思っていない。……ただどうも、私は年を取ったらしい。心のどこかに、家族というもので繋がっている人が欲しくなったんだ。いやこれは、やはり図々しいと言うことかな。……それに、成功と挫折を経験して、もう疲れてしまったのかも知れない。麻里ちゃんを見ていると、『ああ、この子がこれからの世代を生きていく若い人なんだ』ってそんな気がする。自分の娘だとか、そんな口幅ったいものじゃ無くてね」

「でも。私とあなたは、別れてしまえば、もう何の繋がりも無いけれど、麻里とあなたは、何がどうなろうと親娘なのよ」

「あぁ、そうか。そういうこともあるんだね。私はバカだな。世の中のことを知らなさ過ぎる。バカだな。親と子……か」

「私の才能が枯渇して、曲が書けなくなって。それから金がなくなって。周りの人が離れていって。たまに顔を合わせてもよそよそしく、疎ましいような顔になって、私の周りには誰もいないんだよ……それで、二人がこれからも、酷くイヤで無ければ、こうして会いに来てもいいかな?」

 それから、滝沢は洋子に、自分が成功と引き換えに悪魔に魂を売り、ヒット曲を書き続けていたことを語った。そして、その悪魔との契約が、突然現れた男によって打ち砕かれ、悪魔の消滅と供に滝沢の作曲能力も消えたことを洋子に笑われるのを覚悟でポツポツと話した。

 その話を聞いていた洋子は滝沢に背を向けて絶句した。泣いているようだった。

「そんなことがあったの……」

「信じられないだろうけどね」

「いいえ。信じるわ。信じる……だって」

 洋子は話を続けた。

 洋子は滝沢が売れないミュージシャンのころからのファンだった。そして、いつか滝沢に売れて欲しいと願っていた。そのころ洋子の前に現れたのが例の悪魔だった。悪魔は滝沢に作曲の才能を与える代わりに洋子に、『おまえさんの幸せをこちらにいただく』と言った。滝沢は成功し、やがて洋子は滝沢に愛されて身ごもった。そのときに起きたのが悪魔の排除と滝沢の才能の消滅だった。その時消された悪魔は滝沢と洋子に似たような話をふっかけていたのだった。そして悪魔が消されて、滝沢と洋子の幸福は履行されず不幸だけが行われた。滝沢の成功は地に落ち、洋子は愛されていながら急に別れを告げられ、身ごもった体で滝沢の元を離れることになったのだ。

「さすが悪魔。二人に儲け話をふっかけて二重取りするつもりだったんだな。そのあと、ぼくときみに起きた不幸は、悪魔の仕業ではなく、神から下された報い、ということか」

「神様は、罰だけはすぐに行うのね」

 二人は、実に久しぶりに、しかも今まで感じたことの無い悲哀の混じった理由で笑い合った。

「僕はもう成功はいらないよ。食べていければそれでいいと思ってる。君は、そんな弱い僕ではキライかい?」

「ううん。それでいいと思うわ。きっと人生は、がむしゃらに何かに挑む時期があって、そしてそれから休んで思い返すようになるのよ……私たちは、お互いに愚かな選択をして時間ときを無駄にしたけれど」


成功が幸せへの道と思った者。

幸せのために愛を賭けた者。

二人の愛の中に包まれた者。

15年前に始まるはずだった3人の生活は今始まる。



追伸

居間のソファーで「むかし君に歌いたかった」と滝沢がギター片手に麻里に歌って聞かせた曲が、ロングセラーを続けているらしい。 

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