湯気と獣
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
ふんふん、ふんふん。う〜ん、いい匂いだなあ。
カレーの匂いは、いつ嗅いでも腹の虫をつっついてくれるぜ。しかもこれ、使っているのは市販のルーだな。ちょっと子供向けの甘口なやーつ。へへっ、ちっさいころから味わっている五感に、びんびんくらあ。
つぶらやはよ、センサーというかフィルターというか、自分が持っている感覚で、自信のある奴はないか? わずかな煙や匂いから判断がつき、自分さえ昂らせるほどビンビンな奴をよ。
昔にも、煙によって様々な変化を起こさせる術がいくつかあったらしい。最近、またひとつ新しい話を聞いたんだ。
どうだい、耳に入れておかないか?
むかしむかしのこと。あるところに住む幼い子供には、二人の父親がいた。
子供はかつて、戦火の中に取り残されたみなしごであり、その泣き声をたまたま聞きつけた父親たちにより、助け出されたと聞かされて育ったらしい。
実の親の顔を覚えていない子供にとって、新しい父親がいっぺんに二人も生まれたことになる。山奥に住む二人は、夜になると光る金色の瞳を持ち、子供をよく外へ連れ出して散歩をしてくれたそうだ。
二人はよく面倒を見てくれたが、子供が拾われてちょうど6年が経った日。連夜、奇妙な儀式に関わらせ始めた。
日が暮れると、二人の父は彼に山登りの準備を促してくる。
これまでの生活で、すでに教え込まれていることだ。彼はさほど時間をかけずに支度を終えたが、そのときにはもう、二人の父が家の外に出て歩き出していた。
この周囲の夜道も、全員が歩き慣れている。数歩先はすでに真っ暗闇だというのに、三人は何かにぶつかるどころか、石ころひとつ転がすことなく、ずんずん先へ進んでいく。
やがて風通しが良い場所にたどり着いた。昼間であったなら、ここがほぼ全方位を崖に囲まれた小さな台地となっているのが、見えるだろう。
彼は父親たちに、鍋に水を入れ、おこした火にかけるよう指示を受けた。言われた通りに、彼は家から持ってきた薪と火打石で、すぐさま着火に取り掛かる。
煙が立ち上り始めると、父親たちはそっとその場を離れていった。ここまで来るときと同じ、物音ひとつ立てない忍び足だったけど、彼自身はそれに気がついている。
自分が火を焚き出したら、父親たちはその場からいなくなる。鍋の水がすっかりなくなってしまうまで、火の番をしっかりしていろ。出発前に打ち合わせていた手はず通りだった。
その晩は月がなく、かといって星もさほど見えない曇り気味の空だった。
すでに春を迎えていたが、この台地に吹きすさぶ風は冷たい。たっぷりと水をたたえた土鍋は、たちまちもうもうと白い湯気を吐き出す。風に乗って台地の下へと運ばれていくそれからは、かすかに甘酒の匂いが混ざっていたらしい。
湯気が崖の向こうへ伸びてから、しばらくして。彼の鋭敏な聴覚が捉えたのは、オオカミの吠え声だった。
彼はまったく恐れた様子を見せない。オオカミは何度も見たことがあったが、恐ろしい目に遭った試しはなかったからだ。父親たちも、その危うさを語ってくれなかったんだ。
「やけにうるさい奴がいるなあ」とぼんやり考えつつも、彼はその場を動こうとはしなかった。
鍋の中の水は、まだ半分近く残っている。父親のいいつけを守り、こいつが乾くまでここを動く気はない。水面の泡立ちと、それに伴う甘酒の香りの強さは増していく一方だった。
残りが3分の1ほどになったころ。またしても獣の声が聞こえてきた。
今度は先ほどのものより、だいぶ小さい。常人なら聞き逃してしまいそうな大気の震えを、彼の体は感じ取った。くわえて、それがただの「吠え」ではなく、ガラガラと喉を鳴らしたり、ぐつぐつと口をすすいだりする音が混じっていたらしいんだ。
やがてつく、声の主の大きなため息。それからしばらく沈黙が続くと、それよりも少し近い位置で、同じような行為をする者がいる。
最初に吠え声を出した奴と同じだ。声の質がそっくりだと、子供はすぐに気がついたらしい。
ガラガラ、グチュグチュ。ガラガラ、グチュグチュ……。
音は先の相手のそれよりも、ずっと長く響いてくる。その間もがんがん湯気は立ち続け、ついに鍋の底に、手のひら程度の溜まりを残すほどになったとき。
崖の下へ隠れていた湯気を押し上げ、戻してくるものがあった。それもまた湯気だったが、鍋が吐く白いものとは、似ても似つかない緑色。
闇の中にもかかわらず、はっきりと色を染めて迫ってくる様は、草木が空を走ってきたかのようだった。あっという間に白の軌跡をひっくり返した緑の湯気は、その勢いのままに彼の全身へと降りかかる。
そこにあるのは、風に冷えた身体を包み込むようなぬくもりだった。同時に、送り返されてきた湯気は、彼の鼻といわず口といわず入り込み、内側から肉さえもとろけそうな甘さを、いっぱいに広げてくるんだ。
思わずうっとりしてしまいかけるが、その時にはもう鍋の水は底をつき、火も消えかけている。そうして湯気が完全に消えてしまうや、身体の中の甘みもくっと抜け、まもなく父親たちがこの台地へ、迎えに上がってくるんだ。
そうして天気の良い晩なら、毎日続けられたこの行いは、わずか一年の間に子供を周りの大人と遜色ない、立派な体格へ育て上げたんだ。
彼自身も、最後に浴びる湯気の甘さ、心地よさにすっかり魅せられて、父親に付き従い続けたらしい。
すでにどれだけの日が過ぎたか数えていなかったものの、いくら日を重ねても父親たちの容色は衰えを知ることはなかった。水を煮出すと姿を消すのはあいかわらずで、きっと父親たちがあの湯気に細工をしているだろうことは、彼自身もうすうす察しているところだったとか。
けれど彼らの生活は、一発の銃声で終わりを告げた。
いつものように湯気を沸かし出し、崖の下へ送って久しくなったころ。そろそろ鍋の底が見えて、煙が帰ってこようかという頃合いで。耳をつんざく銃声が、彼の耳を打ったんだ。
ややあって、聞こえてきたのは獣の悲鳴。「く〜ん」と空しささえ覚える悲しい声を出したのは、間違いなく先まで喉を鳴らしていた奴のものだ。
彼はじっとしている言いつけを、初めて破った。
自然と、手足をしっかり地面へつける。その四肢で弾けるように飛び出した彼だったが、台地からの下り坂で、銃を背負った人間たち数名に囲まれてしまった。
だが少年は銃を知らない。自分を囲った連中を見やりつつ、怒気をはらませながら叫んだ。
「お前ら、いったい何をした?」
父親たちと話すときの言葉を必死にぶつけるも、自分を囲む男たちは首をかしげるばかり。だが道を開ける様子は見えず、それどころか輪を縮めてくる始末。
「どけ」と叫びつつ、前方の男へ躍りかかった。突き出した拳こそ相手の胸へ当たったが、昏倒させるまでには至らない。上にのしかかろうとしたところで、横っ面を思い切りぶん殴られた。
があんと、頭の奥まで響く衝撃。痛みに慣れていない彼は、横倒しにされたまま動くことができず。その間に手足をふんじばられて、男のひとりに担がれるハメになった。
もうろうとして揺さぶられる視界は、担いでいる主の足が坂を下っていることを示している。
ほどなく右手の木々の間から出てきたのは、新しい男たちだ。彼らに前足をつかまれ、なかば吊るされるようにして運ばれていたのは、真っ白な毛に覆われた大きなオオカミだったんだ。
舌を出し、目を見開いてだらんとした姿は、絶命を悟らせるに十分。ただその瞳の金色は、先まで一緒にいた父親のものにそっくりだったんだ。
彼は漁師たちの村で保護され、何年もの時間をかけて人の言葉を覚えていった。
父親を殺された者には、いつまでも憎悪の念が絶えなかったが、自分をいたわってくれる村人に関してはじょじょに心を開いていく。
そうしてようやく彼らの言葉を話せるようになると、自分のこれまでのいきさつを語ったらしい。
皆は驚きの顔を見せる。オオカミが人間の子供を育てたことも。件のような儀式を行っていたことも。
実は例のオオカミが撃たれる直前まで、漁師たちは煙にほど近い藪の中へ姿を隠していたらしい。ほぼ毎晩、聞こえてくる奇妙な鳴き声の主を探して、ここまできていたんだ。
そこで見たのは、崖の上から降ってくる煙を盛んに口を開けて取り込む、オオカミの姿だったとか。
めいっぱい吸い込んだ湯気を、のどをならし、口をすすぐような音を交えてそしゃく。そうして更なる坂の下へ向かい、ゆっくりと吐き出していく。その吐息は吸い込まれる前よりも、ホタルを思わせる淡い緑色に染まっていたとか。
その下方でも同じような声がし、しばらくすると更に色合いを増した湯気が帰ってくる。それをまたオオカミが吸い込んで、十分に色を濃くして、今度は崖上へ吐き出し……。
その得体の知れなさに、文字通りの口火を切ってしまったのが、猟師のうちの若い衆だった。
そして放たれた一発がオオカミに吸い込まれて殺すことになり、やむなく周囲を警戒するため、彼らは一斉に動き出した。後は子供が知る通りの顛末をたどったという。
子供自身はそれから数年ののち、山で暮らしていた記憶を頼りに、父親たちと過ごした寝床へ向かったが、どうしたことか。こぢんまりとした木の小屋があった場所は、大人が数十人集まって、ようやく幹を囲めるほどの大樹に姿を変えていた。
かつての台地は残っていたが、放っておいた鍋一式はそこになく、またそれを認めたときより、彼は四足歩行に違和感を覚え、次第に二足で立ち上がらざるを得なくなったという。
いっきに過ごしづらくなった山の中を戻った彼は、件の村に別れを告げ、各地を放浪したらしい。
それがもう一人の父親を探すためか、新しい自分の安らぎの場を求めたかは分からない。
だが自分が世話になる者へ、この話を聞かせて回る彼を目撃したという話は、実に150年の間、絶えることはなかったらしいんだ。




