幽霊は空を飛べない
-1-
「ねぇ。重力って何だと思う?」
「えっ?」
「不思議だよね。重力って」
「えっ、えーと。何が?」
突然の問いかけに、ボクは戸惑いながら彼女に問い返した。
「だって、わたしたちをずっと地上に縛り付けているのに、とってもとっても弱いんだよ。知ってた?電磁気力と比べると、10の40乗……もとい。数字は忘れて。それぐらい弱いんだって。
不思議だと思わない?」
「……」
「それにさ、ガリレオさんの実験、あったじゃない?ピサの斜塔から落としたってヤツ。形が同じなら、落下速度は質量の影響を受けないって、アレ。
ま、ガリレオさんがホントにそんな実験をしたかっていうと、どうも良くある偉人伝説らしいけどね。
だけど、現代科学で調べても、やっぱり質量に関係なく、形が同じなら同時に落ちるらしいよ」
「う、うん」
「落下している時には自分の重さを感じないっていうのもそう。アインシュタインさんはそこから一般相対性理論を構築したらしいけど」
「等価原理」
「ん?」
「等価原理のことだよね、それ。慣性質量と重力質量は同一だとかなんとか。よく判らないけど」
「君、知ってるの?」
彼女が驚いて問う。
「言葉だけ。
電車が止まるときに感じる慣性や遠心力が本当の重力と変わらないって説明も読んだけど、さっぱりだよ。
違うし。とても同じと思えないし」
「だよねー」
「重力について書かれた本もいくつか読んだけどさ、重力の正体は時空の歪みって書いてあるけど、時空が歪んだらどうして加速度が生じるのか、肝心のそこが書いてない。
不親切だよな」
「わたしもそう思う!そこ、知りたいのに書いてないよね!
時空が歪んでますってさ、図にもしてくれてるけど、ま、2次元の図だから仕方ないのかも知れないけど、図に上下があるじゃん。下に何か引力源があるんかいっ!て思っちゃうよね!」
「うん」
「そりゃ、えらい科学者さんは時空が歪んでる、イコール、加速度が発生するで納得するのかも知れないけど、こっちは微分も積分も意味が判らないんだよ!って文句を言いたくなっちゃうよね」
「……」
風はない。ほとんど。蒸し暑くて、嫌になる。
「ねぇ」
彼女が口を開く。
「なに?」
「痛いよ。そこから飛んだら」
-2-
ボクがいるのはボクの通う中学の校舎の屋上。手すりの外だ。
そして彼女がいるのは、手すりの内側だった。
放課後で、ボクが座るのと反対側、校庭からは部活動をしている明るい声が幾つも響いてくる。ボクがいる裏庭側に人はいない。
ここなら誰にも知られずに死ぬことができる。
そのはずだったのに。
「知ってる」
ボクはそう答えた。
「まあ、そうだよね。等価原理って言葉を知ってるんだもんね」
「うん」
「何があったの?」
「話したくない」
「だったら、わたしの話、聞いてくれる?」
「えっ?」
「時間、あるでしょ」
「え、うん」
それは確かに、時間は、ある。
「ねえ。話す前に、名前、教えて貰っていい?」
「いっと」
「ゴメン。もう一回、言ってくれる?」
「漢数字の一に、人って書いて、一人」
「一人くんか。いい名前だね。2年生?」
「うん」
「わたしはかなこ。加えるに奈良県の奈。子供の子で、加奈子。友だちはみんなカナって呼ぶけどね」
「カナさん?」
彼女はボクよりも年上に見えた。3年生だろうか、ボクの学校の制服を着ている。
だけど……。
「いいね。その呼び方」
カナさんが笑う。
「重力が判らない一番の原因、いや、責任かな。責任ってさ、ニュートンさんにあるんだと、わたしは思うのよ」
「どういう意味?」
「万有引力って言い方が問題なんだと思うの」
「……どこが問題なの?」
「重力って、引力じゃないんじゃないか。
わたしはそう思うのよね」
「地球の遠心力との合力……、って意味で言ってるんじゃないよね?」
「それが判るとは、サスガだね」
「褒められることじゃ……」
「いやいや。たいしたもんだよ。
うん。違うよ。重力がわたしたちを引っ張ってる、って考えが間違っているんじゃないかと思うのよ。わたしたちは引っ張られてるんじゃなくて、ただ慣性力で加速してるだけだと思うんだよね。
わたしたちはここに留まってて、留まってることで、加速している」
「……言葉が矛盾しているんじゃない?」
「そうなのよねー」
あっさりとカナさんは認めた。
「でもね、引っ張られてない、つまりね、外から力がかかってないって考えると、重力の不思議が解消されちゃうのよ」
「どんな風に?」
「まず、重力がとても弱い理由。
重力って、ホントは時空を歪めているだけで、わたしたちが加速されるのは重力の作用によるものじゃなくて、歪んだ時空で、わたしたち自身が自分で動いているから。
時空を歪める力は相当強いけど、それを調べる方法ってないんじゃないかなぁ。
だから、重力ってホントはとても強い力だけど、わたしたちを引っ張ってるみかけの力と電磁気力を比較するから、重力はとても弱いってなっちゃう」
よく判らないまま、ボクは頷いた。
「次に重力による落下に質量が関係ないってヤツね。
重力加速度による速度ってさ、重力加速度に時間を掛けるだけじゃない?質量が関係していない。
外から力がかかってないとしたら当然だよね。F=maのFが0なんだから、mは関係ない」
F=ma。ニュートンの運動方程式だ。
「だから、空気抵抗がなければすべての物体は同時に落ちる。質量に関係なく」
「……うん」
「落下している時に自分の重さを感じないのも、外から力がかかっていないから当然ってなっちゃう。電車に乗っているときと同じで。慣性で走っているときに力を感じないのとおんなじ」
「でもさ、電車に乗っているときは等速運動だから力は本当にかかってないよ。落下は加速度運動で、同じじゃないよ」
「そうなんだよねー。だから自分でも確信が持てなくてさ」
「今、ボクは止まってる。重力が慣性なんだとしたら、もし、ボクがここから飛んだら--」
自分で言って、言葉が喉に詰まった。
「空中で止まれる、ってことになるんじゃないかな」
「そこは、ほら、時空が歪んでるから」
「時空が歪んでたら、どうして加速度運動になるの?」
ふむ。とカナさんが首を傾げる。
「重力ってよく2次元で説明されるじゃない?あの、穴の開いた、下に何か引力源があるんじゃないかって思えるような図で」
「うん」
「そうじゃなくてさ、まず、四角い一枚の紙に丸が描いてあるって想像してみて。完全な正円がね」
「うん」
「紙が時空だとするでしょう?その紙を歪めるのが重力。で、紙が重力によって引き延ばされたとしたらどうなると思う?紙だから破れちゃうって思うのなら、ゴムって考えた方がいいかな。ゴムがびよーんて伸びたら。
正円が正円じゃなくて、楕円になるでしょ」
「うん」
「でも、わたしたちは楕円にはなれない。電磁気力でがっちり固定されてるから。正円は正円のまま。だとしたら、楕円にならないためにはどうすればいいのかな。歪んだ時空で、そこに留まるってできるのかな。
多分、重心もずれちゃうだろうし」
「……正円のままでいるために、動く……?」
「量子レベルでね。ん?量子レベルで重力が働いているか、まだ確認されていないんだっけ?」
「……それが、重力加速度?」
「だと、わたしは思うのよねー。
わたしたちはここに留まろうとするけど、留まろうとすればするほど外からの力もなしに、慣性の力で動いちゃう。
ね?
なんだか納得できない?」
ボクの足の下から蝉の声が賑やかに響いてくる。いつからだろう?ボクが手すりを乗り越え、ここに座った時には聞こえていなかった。
いや、それともボクが、気がつかなかっただけだろうか。
「--判らない」
正直にボクは答えた。実際、今でも良く判らない。カナさんが、自分の話すことを信じていたかどうかも。
カナさんはただ、面白がっていただけ。
そんな気がする。
でも、あの時のカナさんはボクを止めようとしていた。
必死で。
止めようとしてくれていた。
それだけは、判る。
判らないと言ったボクに気分を害した様子もなくカナさんはため息をついた。
「ま、ホントのところはわたしも判らないんだけどねー。
だってさっきも言ったけど、わたし、微分も積分もよく判らないんだもん。なんでそんなもんが要るんだよって思っちゃう。
四則演算だけで生きていけるじゃんって。
だから自信がなくてさ」
「でも、なんだか……」
「納得した?」
「少し」
「良かった」
カナさんが笑う。とてもきれいな笑顔で。
「それでね。人間の社会って、不思議なぐらい重力に似てるなー、と思うのよね」
「どういうこと?」
「質量の元ってさ、ヒッグス粒子だって言われてるじゃない?」
「うん」
「こう、素粒子が光速で進もうとしても、ヒッグス粒子が邪魔して進めなくて、それが質量だって。
ヒッグス粒子を自分以外の他の人たちって考えてみて。
他の人たちがいるから、わたしたちが何かをしようとしてもすぐに他の人に当たって進めなくなっちゃう。人の存在そのものが人間の社会で質量になってる。
質量があれば時空が歪む。
人間の社会も同じ。
人間の社会も歪んでる。人の存在によって。歪んでて、歪むことで重力を作る。
同調圧力って重力をね」
「……」
「重力も同調圧力もとても弱い力だけど、常に働き続ける。働き続けて、わたしたちを縛り付ける。
ううん。わたしたちは自分たちで進んで、縛り付けられる。
地上に。この社会に--、ね」
「だからなの?」
「ん?」
「だから死んだの?カナさんは」
-3-
手すりの向こうのカナさんの姿は、わずかに透けていた。屋上に続く階段の扉が、カナさんの身体を通して見えていた。
カナさんはしばらく沈黙してから、あはははは、と笑った。
「違うよ。
もしかして君、わたしがここから飛んだ、とでも思った?君より前に」
「違うの?」
「どうかな」
カナさんが手すりを乗り越える。屋上の縁にカナさんが立つ。まっすぐ。胸を張って。
「確かめてみたいことがあったのよね。わたし」
「なに?」
「幽霊は空を飛べるかどうか。わたしは、飛べないと思うのよね。重力の仕組みを考えると」
そう言いながら、カナさんは空中へと足を踏み出し、
あっと下を覗き込もうとして、危うくバランスを崩してボクは手すりにしがみついた。心臓が走るように鳴る。
ごくりと息を呑み、手すりにしっかりとしがみついたまま下を覗き込む。
誰もいない。
「カナさん?」
答えはない。
どれぐらいそうしていただろう。突然響いたノックの音に、ボクはビクリッと振り返った。屋上へと続く扉だ。
ボクは恐る恐る立ち上がった。下を見る勇気はすでになく、手すりを震える手で握り締めて乗り越え、屋上に続く扉を開けた。
「よかった。こっち側に戻ってきてくれて」
半分透き通ったカナさんが、さっきと同じきれいな笑顔でボクを見上げて笑っていた。
-4-
何があったか、ボクはカナさんに話した。いじめられて。殴られて。死ねって笑いながら言われた。
カナさんは黙って聞いてくれて、ボクは最後に、ためらいながらカナさんに「どうしてカナさんは死んだの?」と尋ねた。
「交通事故」
なぜか胸が痛んだ。
「どうして、ここにいるの?」
「わたしにも判らない。
だって、死ぬのは初めてだしね。
でも、もしかしたら君に会うためだったのかな」
「えっ?」
「これまでもわたし、君以外の人にも声をかけたの。でも、誰も気づいてくれなかった。パパもママも。妹も。
わたしはここにいるよ。どこにも行っていないよって言っても」
「……」
「さっきの重力の話だけどね、あれ、わたしが死んだ日に思いついたの。つまんない授業を聞いてて、窓の外の青い空を見てるときに、ふと。
おお。これならいろんな不思議が解消できるってね。
ホント、嬉しくなったわ。
わたしの妹はね、いつもわたしのとんでも説をころころ笑いながら聞いてくれたの。あの日も、これはきっと喜んでくれるから、是非、あの子に話さなくてはって勇んで帰ってる途中で」
「そうなんだ」
「だからね、せっかく思いついたアイディアを誰にも話せない無念さでここに残っちゃったのかも」
「そんなこと、ある?」
カナさんが笑う。
「どうでもいいことを話せる。聞いてくれる人がいる。それってとっても幸せなことだとわたしは思うわ」
そうかも知れない。と、ボクも思った。
ボクにはいなかった。そんな友達が。ひとりも。
「でも、そうだとしたら、その、カナさん、どうなっちゃうの?ボクに話して、カナさん……、成仏しちゃうの?」
「さあ。だって成仏したこともないもの。わたし」
「何か心残りはないの?」
そう訊いたボクに、
「そうね」
カナさんはしばらく考えて、
「地球を見てみたかったかな。宇宙から。わたしたちを縛る重力を忘れてさ」
と答えた。
-5-
あれからカナさんがどうなったか、ボクには判らない。
「また、会いに来てもいい?」
と訊いたボクに、
「いいわよ。会えるかどうか判らないけどね」
カナさんは笑ってそう答えて、それが最後になった。
何度も屋上に行ってはみたもののボクはカナさんに会うことはできなかった。
いじめられることはなくなった。
カナさんに会った翌日のことだ。いつもの連中がボクに絡んできて、「なんだよ、まだ生きてたのかよ。早く死んじまえよ」と、薄ら笑いを浮かべながら言った。
何と言えばいいだろう。
ボクの中で何かが変わった。
怒り。悔しさ。哀しみ。どれとも違う、ボクの知らない感情が、変な言い方だけど、ボクの中の何かを殺し、生まれ変わらせた。もしかするとボクは、あの時、ホントは飛んでいたのかもしれない。
重力に逆らって。カナさんと一緒に。
「死ね。なんて言うな」
気がつくとボクは相手の胸ぐらを掴んでいた。
「ボクだけじゃなく、誰に対しても」
以来、いじめられることはなくなった。もちろんその後、ひどい目に遭ったけど。ただ、ボクは殴り返すことはしなかった。何をされても最後まで。
それは数少ない、ボクの自慢のひとつだ。
ずっとカナさんのことを考えていた。
重力理論を思いついたときにカナさんが見ていたという青い空を、カナさんと同じように授業中に見ていて、ボクはふと、思いついた。
「そうだ。カナさんに宇宙を見せてあげよう」
と。
-6-
オレが宇宙飛行士を目指しているのはそれが理由だ。
JAXAの宇宙飛行士選抜試験は、もう10年以上行われていない。けれどそれは諦める理由にはならない。
試験には面接もある。志望理由も聞かれる。
精神面では健康であることが求められる。
でも、もし面接まで辿り着き、志望理由を聞かれたら、オレは躊躇うことなくこう答えるだろう。
「幽霊になったカナさんに、宇宙を見せてあげたいから」
と。
しかし、それはまだ影も形もない随分先のことだ。少なくとも中学生のボクにとってはそうだった。
あまりカナさんを待たせるのも悪いし、とりあえずは、と思いついたのが、カナさんの遺灰を宇宙に送る、宇宙葬だった。
ネットで調べると一番安いプランを使えば、数十万円で遺灰を宇宙に送れることが判った。これならボクにもなんとかできる。すぐに大気圏に突入して流れ星になってしまうけど、そこは目をつむることにした。
最大の問題は、カナさんの遺灰をどうやって手に入れるか、だった。
-7-
「ホント、驚いたわ」
オレの隣で彼女が言う。オレの妻。妻になったばかりの彼女が。
「いきなりうちに訪ねて来て、お姉ちゃんの遺灰を分けて下さいって。そんなこと、中学生が言う?」
オレも笑った。
「お義父さんもよく話を聞いてくれたよな。うちに入れてくれて。コーヒーまで出してくれて。
今でもそう思うよ」
「リアリティがあったもの。一人くんの話。ああ、お姉ちゃんらしいって」
「君は泣いて怒ってたけどね」
「そりゃあ、いきなりお姉ちゃんの幽霊だなんて、信じろって言うのがムリでしょう?」
「まぁね」
「ちょうど新婚旅行に重なるなんて。すごい偶然ね」
「ただね。重力を忘れてってカナさんは言ったけど、宇宙は宇宙で間違いないんだけどね、これぐらいの高度だと、まだ地球の……」
「一人くん」
「なに?」
「難しいことはいいの」
オレたちがいるのはアメリカだ。
見渡す限りの平原で、どこにも山がない。これほど平坦な土地を見るのは初めてだ。
青い空に雲はない。
周囲にはオレたちの他にもたくさんの人がいる。オレたちと同じく、家族や友人の遺灰が宇宙に打ち上げられるのを見届けるために集まった人たちだ。
聞こえるのはほとんどが英語で、たまにドイツ語とフランス語が混じった。
人々の顔は明るい。
たくさんの笑顔が溢れ、何かのパーティーをしているかのようにも見える。しかし、強い日差しを涼しく感じるような、静かな悼みが人々の間にある。
ロケットはおよそ5キロ先。
地平線の向こうに隠れてここからは見えない。
打ち上げのカウントダウンが始まる。
テントの支柱に無造作に括りつけられたスピーカーから、女性の割れた声が響く。
「どきどきする」
「うん」
宇宙に送れるのは1グラムの遺灰だけ。
これでカナさんが喜んでくれるかどうかは判らない。
判らないけれど。
「感謝してるよ。ありがと」
ボクはハッと後ろを振り返った。
10年ぶりに聞く声。しかし、聞き間違えようのない声だ。
誰もいない。
誰も。
今の声を彼女も聞いただろうかと、オレは横を見た。
カナさんの話をいつもころころ笑って聞いていたという彼女は、ロケットが打ち上げられるはずの地平線を見ていた。
まばたきもせず、こぼれる涙を拭うことなく。
オレは黙って彼女の手を取った。
彼女が強く握り返してくる。
打ち上げの音は聞こえなかった。歓声が上がる。地平線からロケットの噴煙が白い糸となってまっすぐ青空を駆け上がっていき、青空の向こう、宇宙へと、吸い込まれるように消えていった。