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死神の手記

作者: 探沢歩々子

 あの一年のことを話そうと思えるようになるまで、随分と時間が必要だった。別に思い返すのも嫌だったからというわけではない。むしろ、あれほど穏やかな時間は今までなかったぐらいだ。それなのに、一体何を後生大事に抱えようとしていたのか、今となっては検証のしようがない。

 ただ、一つだけいえるのは、今の俺はあの一年間を思い出すことにそこまで強い抵抗を覚えないということだ。深夜のファミレスで、あいつの命が残り一年だと聞いた日からの一年間。これから続くものはそのなかでも、うだるような夏の日、俺とあいつが一年間で一番遠出をした日の、特に面白くもない記憶である。

 

 

「それなら、海に行きたいです」

 その日は、愛車が車検から帰ってきたばかりでなんだか無性に運転がしたい気分だった。だから、自宅へ来ていたあいつに、特に行き先も決めないままドライブへ行こうと提案した。正直、のってくるかこないかは半々の賭けだったが、あいつは予想よりずっと簡単にのってきたうえ、行き先まで指定してきたのである。そのいかにも夏らしい提案を断る理由もなく、あいつの希望を蔑ろにするとあとが面倒なこともわかっていたので、俺は二つ返事でそれを了承。それが、あいつを運転席の真後ろに座らせての、たった片道四十五分のドライブのはじまりとなった。

 シーズンのおかげで混雑した駐車場の、奇跡的に両隣が空いていた絶妙なポイントに車を止める。あいつは天候の神にでも愛されていたのか、目的地には絵にかいたような夏空と、その空すら霞みそうなほど雄大な海が広がっていた。目を焼くほどの青は、運転が目的だった俺ですら圧倒させられるほどだった。

「死神さん! 見て下さい。綺麗ですね」

 それほどだから、UVカットパーカーと大きめのサングラス、そして、お気に入りの白いハットを合わせたあいつは、車を降りると子供のように顔を輝かせていた。

 先に述べておくが、あいつは俺のことを「死神さん」だなんて呼んでいたわけではない。

 当時、あいつは俺を本名で呼んでいたし、俺だってあいつのことを「あいつ」と呼んではいなかった。ただ、プライバシー保護の観点から、便宜上ここではそう表現することにしたいだけだ。

 それというのも、あいつが雑誌を中心に活躍していた有名モデルだったからだ。このときは既に仕事を辞めていて一般人同然だったが、必要以上に注目をあびる存在であったのは間違いない。ましてや、あいつの名前を記したせいで、この記憶が業界に発信でもされたら笑えない。俺のためにも、あいつのためにも、このくだらない記録にお互いの名前を残す事はしたくないのである。

 とにかく、海についてからは、砂浜まで降りることなく、駐車場のガードレールの側から揺らめく水面を眺めていた。季節は絶好の海日和で、眼下に広がる海では色とりどりの人間がうじゃうじゃしていたが、俺もあいつも水着を持っていなかったし、人混みが面倒で動く気になれなかった。そうでなくても、医者から激しい運動を禁止されていたあいつは泳ぐことができない。

「でも、ここまで暑いのに、よくこんな所に来て泳ごうとか思いますよね」

「お前も海行きたいって言ってただろうが」

「それは死神さんが、出かけたいとか言い出したからじゃないですか」

 僕はクーラーのもとでのんびりでよかったのに、と口を尖らせるあいつに、どの口がと悪態をつく。ついさっきまであんなに目を輝かせてたのに可愛くないやつ。現役時代にお前を天使だなんだと讃えてた連中全員に、普段の姿を暴露してやりたいくらいだ。

 そうはいいつつ、本当にその機会が回ってきたとしたら、俺は黙るのだろう。潮の香りがする風で髪を揺らすのが似合うあいつは、実は精工に創りあげられた仮面であること。それは、雑誌やテレビには映らない秘密だ。

 駐車場にはひっきりなしに車が入ってくるが、全員すぐに海へ降りて行ってしまって、長居する人間はいない。そのなかで、車止めの後ろに回り、愛車に隠れる形で並ぶ俺達は明らかに異質だった。ぼんやりと聞こえてくる歓声は遠く、ガードレールの向こうとこちらで世界が分けられているような錯覚に陥りそうになる。多分正しいのは向こうの世界なのだろう。では、こちらは何なのだろうか。俺達はどこにいて、何をしているのだろうか。漠然とした黒いもやが胸を覆ったとき、隣に立っていたあいつがサングラスのつるに手をかけた。ゆっくりと、黒い板に隠されていた生身の瞳が太陽の下に晒される。

「まるで、逃避行ですね」

 人為的な工作を疑いたくなるほど整った瞳が海の色できらめき、薄い唇がゆるりと綻ぶ。今まで数多の女を虜にしてきた微笑みが、このとき、俺だけに向けられていた。

 不本意にもはねあがった心臓が激しい鼓動を刻んでいく。いつの間にか黒いもやは消えてなくなっていた。そんなことより、意識の全てがあいつに釘づけられていた。風に揺れる細い髪も、落ち着いた色をたたえた目も、こんなに、こんなにも近くにあったのか。時が止まったような青空の下で、俺はその存在感にただただ圧倒されることしかできなかった。

「……なんだよ逃避行って。どういう意味だよ」

 ようやく絞りだした言葉は、口の中で響くのが精一杯というような弱々しいものだったが、しっかり届いてしまっていたらしい。あいつはドラマのワンシーンのようだった笑みを、一気に嘲笑へと変えた。

「死神さん逃避行知らないんですか? バカなんですか?」

「そ、それぐらい知ってるわ!」

 口角を上げ嫌味に目を細める姿に、先ほどまでの面影は一切ない。つくづく器用なのに腹が立つが、ここで喚くとつけ上がられることがわかっているので、なるべく冷静なふりをするのに限った。俺があいつに口で勝てたことなど、今まで一度もないのだから。

 俺はすぐにでも追撃を狙おうとするあいつから目を外し、真下の海に向かって息をついた。

「そもそも、俺達が何から逃げてるっていうんだ?」

「さあ、なんでしょうね。でも、逃げてるのは間違いないと思いますよ」

 そう笑うとあいつは口を噤んだ。束の間の沈黙が遠くの歓声を鮮明にしていく。青空に映える横顔は、どこか儚げで、空との境界が曖昧になっていくようにみえた。

 無意識に指先を伸ばす。しかしそれは、あいつの頬に触れる寸前で止めざるを得なくなった。海を眺めていたあいつが、再び、こちらに目を向けたのである。

 そこには、静かながらも揺るぎない光が宿っていた。

「死神さん、もう帰りましょう」

 笑みを消し、淡々と述べたあいつはそのまま背を向けて車へ戻っていく。あまりに突然なことに茫然とした俺が我を取り戻すころには、懐の鍵が消えていて、車の後部座席の扉が開いた状態になっていた。

「いやいや、まだ来て五分しか経ってないぞ?」

「駄目です。帰ります」

 後部座席から声だけが響く。断ち切るようなシートベルトの音が、もう俺が何を言おうと、あいつの気持ちが揺らがないことを物語っているようだった。

 こうなっては、あいつの言う通りにする以外はないだろう。日差しにきらめく海をもう一度目に収めて車に戻る。いつの間にか、空いていたはずの隣のスペースに黒い車が止まっていた。それでも、滞在時間が極端に短かったせいか車内にはまだ冷房の名残があり、これに関しては、あいつの即決が正しかったというべきだろう。

 それでも俺は、エンジンをかけるのとほとんど同時に空調を最大まであげた。少し遅れてたちあがったカーナビが目的地の登録を促してきたが、道順は既に頭に入っている。用済みのカーナビから目を離し、サイドブレーキを下げようとしたそのとき、後ろの座席から白い腕が伸びてきたことに気がついた。

「なんだよ?」

 まだ何かあるのかと振り向くと、どこから出したのか目の前に薄っぺらいCDが差し出されていた。

「これ流してくれません?」

 白地に青や黄色の派手な色使いで構成されたジャケットの中央で笑っているのは、他でもないあいつ自身。確か一年くらい前、事務所の悪ノリとあいつの目立ちたがりな性格が災いして、世に出てしまったデビューシングルだったはずだ。本業モデルのくせに、歌にまで手を出して何をするつもりだと思ったのをよく覚えている。

「自分で自分の歌リクエストするってどうなんだよ」

 俺にCDを押し付けて座席に座り直したあいつは、機嫌の読めない顔で窓の外を眺めていた。

「いいじゃないですか。結構いい曲だし」

「セカンドシングルはなかったけどな」

「売り上げは目標越えだったんですよ!」

 バックミラー越しに、運転席に手をかけて身を乗り出すあいつの姿がみえて、思わず笑いそうになった。こんなに騒げるなら充分元気だろう。後ろから次々とあげられる大人の事情を聞き流しながらカーナビにCDを入れる。最近のポップスによくあるようなギターの前奏が響き始めると、あいつは自然と静かになっていった。

 俺も何も言わずに車を発進させた。足元にあるスピーカーから響く甘い声が、自然と車内を満たしていく。『誰よりも輝いていたい。君のために』歯の浮くような台詞もあいつが歌うとさまになるのだから、まあ適役だったのだろう。一応目標越えはしたようだし、一部の夢見がちな女が聞けば、簡単にキャーキャー喚きそうだ。

 海を出て市街地へと車を進めていくが、その間も聞いてて恥ずかしくなるような、言ってしまえば陳腐な恋愛の言葉が紡がれていった。編集で脚色されたあいつのキラキラとした声が両耳から容赦なく入り込んでくる。とうとう黙っているのも居心地が悪くなり、久しぶりに信号に捕まったのを契機に、俺はバックミラーに向かって声をかけた。

「でもさ、モデルが恋愛ソング歌うってどうなんだよ? お前そういうの厳しい感じだったろ?」

 モデルとしてのあいつは、持ち前の爽やかさと謙虚な姿勢で売り込む、所謂清純派だった。本性を知っている俺からすればそれだけで腹がよじれそうになるのだが、それはさておき、清純派を名乗る存在にとって自身の恋愛とはタブーに近い言葉のはずだ。まだ信号が赤であることを確認してミラーを覗き込むと、先ほどまでの元気は鳴りを潜め、シートの背もたれに身体を預けきっていたあいつが気だるげに口を開いたのがみえた。

「死神さんは寝ぼけてるんですか? 今時わかりやすい恋愛ソング歌うのなんて恋愛禁止のアイドルぐらいですよ」

 そして、両腕を力なく下ろし、僅かに上向いた視線で虚空を見つめていたあいつは息を零すように呟いた。

「それに、これ恋愛ソングじゃありませんし」

「え?」

 思わず振り返ると、瞬間、後ろからけたたましいクラクションが響いた。慌てて前を向くと信号が青になっている。俺はとにかくアクセルを踏んだ。どれだけせっかちなんだと、サイドミラー越しに背後の車を睨みつける。後ろを走る黒い車は一定の距離でぴったりついてきていて、なんだか不気味だった。

 胸に去来した嫌な雰囲気を振り払うように車の速度を僅かにあげる。

「恋愛ソングじゃないってどういうことだよ」

「そのままの意味です」

 なげやりな返答をしたあいつは、ぼんやりとした表情でシートに身体を埋めていた。

「いや、どう聞いてもそういう歌だろ?『君に相応しい僕になって迎えに行くよ』とか」

「死神さんにその台詞言われるのキツいので黙ってください」

 普段のあいつの声からは想像もつかないほどの低音に、ぴしゃりと背筋が伸びた。確かに俺が言っていい台詞ではないが、そこまで全否定しなくてもいいだろう。ミラーに映るあいつの姿を視界から外して運転に集中する。もうここにいる俺の味方はこの愛車だけだ。見てくれだけの清純派モデルなんて知ったことか。

「……君は僕、僕も僕。単純な話なんです」

 そんなことを考えていたからだろう。そのときあいつの言葉を、俺は聞き逃してしまった。

「ん? 今なんて?」

「もう静かにしてください、さっきからとても……眠くて」

 弱々しくなっていく声に慌ててミラーを覗くと、あいつは窓に頭を預けて外を見つめていた。先ほどからぼんやりしている様子ではあったし遠出の疲れが出たのかもしれない。特に呼吸や挙動に異変がないことを確認して、俺は再びフロントガラスへと視線を戻した。

 モデルとしてのハードな日常を何年間もこなしてきたあいつが、たった五分の外出でここまで弱ってしまっている。それだけあいつを巣食う病魔は強力だということなのだろうか。喉の奧が鈍く痛むのを感じて、ぐっと唾を飲み込んだ。

 いつの間にか隣の市との境を越え、見慣れた景色が視界に飛び込んでくる。俺とあいつが暮らすこの町は、淡い夕焼けに包まれはじめていた。サイドミラーに映る黒い車は相変わらず真後ろをつけていて、ここまで来ると一周回ってただのご近所さんかもしれない。まあ、もし家までつけてこられたりしたら追い返すつもり満々なのだが。

 そのときはどうやって突き返すかということを考えていると、ここまで何周もしていたせいで、すっかりバックミュージックと化していたあいつのファーストシングルが、ふと、脳に飛び込んできた。

『輝いていたい、誰よりも。逃げたくない、何があっても』

 どこまでも甘い声、でもそれは、今は心の内を曝け出すような、その命を燃やし尽くしてしまうほど熾烈な叫びのように聞こえた。

思わず後ろへ振り返る。あいつは既に眠りに落ちているのか、目を閉じて動かなくなっていた。薄く上下する胸を確認して、視線を戻そうとしたそのとき、色味の薄い唇が僅かに開いた。

「僕が僕であるうちに。連れて行ってくださいね、死神さん」

 このときの「死神さん」は今までと同じ意味ではない。あいつは実際に「死神さん」と口にした。

それがわかった途端、足元から震えが駆け上った。

 自分の歌に包まれて眠るあいつは、モデルとしてのあいつとも、俺の前でみせる嫌味なあいつとも違う、年相応のあどけない笑顔を浮かべていた。もしかしたら、俺が今まで本性だと思っていた姿もまた仮面の一部で、この子供のような笑顔こそがあいつの素なのかもしれない。もちろん、この寝顔こそがあいつの計算によって成り立つ仮面の一枚だということも考えられるので、すぐに決めつけることはできないだろうが。

 それだとしても、俺のすることは一つだろう。あいつに一つでも多くの幸せを抱えさせて。そして、旅立たせることだ。なぜなら、俺は死神なのだから。

 アクセルを強く踏み込んだ。夕焼けをきる風の音が変わったのがわかる。いつの間にか、ミラーに映る黒い車の姿が見えなくなっていた。



 ペンを置く。慣れない作業で凝った肩を解す。ここまで長い文章を書いたのは、いや、そもそも過去を文章で書き留めたのすら初めてだった。

 お世辞にも綺麗とはいえない字がのたくっているノートを掲げ、やはり、名前を書かなくて正解だったと確信する。こんなもの業界どころか、明日の自分に読まれただけでも悶絶できそうだ。

 閉じたノートを抱え、懐に煙草用のライターが入っているのを確認してから愛車に乗りこむ。

 バックミラー越しに見る後部座席は全くの空席で、無音の車内にエンジン音だけが響いた。

 とりあえず、海にでも行こうか。

 あそこなら火遊びもできるだろう。



 初めまして、探沢歩々子です。ここまで読んでくださりありがとうございました。

 この作品は、Twitterで連載させていただいている、一四〇字小説シリーズ『死神とモデル』(→♯死神とモデル)の特別編となっております。もし本編を読んでくださっている方がいらっしゃればおわかりかもしれませんが、本編八月号の内容を短編小説としてリメイクしました。なんていって実は、こちらが先にあったんです。私は一四〇字小説を書く際、中・短編の構想を練って、その一部を抜粋して作品を作ることがあります。これもそのなかの一つです。

 さて、四月から続いてきた『死神とモデル』シリーズもいよいよ佳境となってまいりました。タイムリミットが迫る中、死神さんは、モデル君は、何を考え、何を願うのでしょうか。彼らの行く末は作者にも未知数な部分があるので、少し緊張しています。しかし、二人がどんな最後を迎えることになろうとも、この夏の思い出が彼らのなかで生き続ければいい。そう願うばかりです。


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