『トートバッグ狂い』・・・終わりに
『トートバッグ狂い』
・・・終わりに
㈠
トートバッグについて考察してきたが、何もトートバッグでなくても良いのだ。しかし、ボディバッグの次に書くものとしては、トートバッグしか見当たらなかった。それしか見当たらないということは、確かに、今は、トートバッグに依存しているということだろう。
恐らくだが、トートバッグよりも、ボディバッグの方が、今後も買う確率は高いと思われる。しかし、難ずることはない、何かについて書くということは、改めて、自分、というものを知ることだからだ。
㈡
所謂、トートバッグ狂いというものは、ボディバッグから派生した、異分類されるべき、多少の狂いだったのだろう。自分に強烈なトートバッグ狂いの先見性はない。しかし、一時的に狂った、このトートバッグ狂いも、その一時性に自身の人生の偏りを鑑みると、捨てたものではないと思った。
つまり、何かに飽きた時などは、いつでも戻ってこれる場所として、このトートバッグ狂いは存在するのだと言えるだろうし、何かの、安心の拠り所にもなり得る。
㈢
もうトートバッグについて述べることを、終えてしまうのかと思うと、自分のトートバッグに対する意味に、懐疑者として対峙しそうになるが、虚無主義者として対峙することは無いように思う。いずれにしても、真剣に狂えていることだけは確かだし、いつでも真剣に狂えることさえも確かである。
どこか遠くから、耳鳴りの様に光が差してきて、自分を何処かへ導けば、いつでも自分は、何かに狂えることだけは、狂いに関するエッセイを書いていて、いつも確信する現象なのだ。