77.「トイレの王妃様」、現実に戻る
ウィルが突飛な行動をするのは、枢密院の協議や貴族会議の議決を待つ時間がないときとか、議論している時間が惜しいとき。
例えば水洗トイレの開発も下水道の再整備も、当時の王モーレイ八世がほとんど気づかぬ間に準備を終えてしまっていたという。
そんなウィルが、マリカの王宮で弱音を吐いたとき、わたしは動揺した。
せっかく見せてくれたウィルの一面を、あの時は正面から受け止めることができなかった。
あれからわたしは考えた。掃除をしながら。
この世界の元になった漫画の通り、わたしが放逐されれば、ソフィアに代わってメアリが王太子ユアンと幸せに平和に暮らしていけるのではないか。
戦争も起こらず、ウィルが最高の王様として居続けられる未来、ユアンが将来を期待される王太子である未来があるのではないか。
現実を直視できていないかもしれないわたしは、そう願ったのだ。
「ロジーナ、その心掛けは立派だけれど……」
「立派でもないのです。わたしは世界が変わるのが怖い。変わらなければ良いと思っています。変わらないで済むのなら、わたしは実家に引っこんで大人しくします。何でしたら名前も変えて、平民になって、どこか田舎の小屋にでも住みます」
ウィルには嘘はバレてしまう。
だから本当に思っていることと嘘とを、同時に言おう。
「ウィルのことはお慕いしております。けれどもう王妃はこりごりなのです」
ガチャン、とウィルが乱暴にカップを置いた。
「ロジーナ、君がどうしようと」
立ち上がって、わたしを睨んでくる。
「世界は変わる。受けいれろ。疫病のいくつかは君のおかげで止められたが、戦争はそうはいかない」
「でも、回避することも」
「出来ない。アイオライト一国の判断ではどうにもならない。王妃として外交をやってきた君なら分かるだろう」
どうしてウィルは、寝間着なのにこんなに威厳があるのだろう。
わたしはメイドに紛れるくらいなのに、やっぱりウィルは王たる者なのだ。
新しいコーヒーを、濃い目に淹れるようにメイドに指示した。
「シュピーレン国がこちらを攻めてくるというのは、本当なのですか……?」
「恐らく。来年という予想をしているが、早まるかもしれない」
「わたしがどうしようと、変わらないのですか」
「君がどうしようと、僕がどうしようと、シュピーレンの総統“閣下”はウェスティリアとアイオライトの土地と富を求めているよ。こちらの二国を落とせば、自動的に新大陸も手に入る。まあ、落とされる気はないが」
窪みが深くなったウィルの目。
やつれているけど、透き通るような青い瞳は綺麗だ。
わたしは、ウィルの妻。
わたしは、王妃。
兵士として前線に立つことはできない。
同じく前線に立たないウィルの隣で、兵士を、国民を、戦いの場に行かせなければならない。
濃いコーヒーがウィルの前に出された。
「この世界に、正解はないのでしょうか」
「正解は僕たちが作るものだ」
わたしが考えていた正解は、幻想だったのかもしれない。
「……ウィル、失敗ではありませんでした。あの時に王権のことを教えてくださって、よかった。受け止める時間ができたのだと、思います」
「そう言ってくれると嬉しい。僕は君の人生を決めてしまった男だから」
城からルイーズの侍女がわたしたちを呼びに来た。
そろそろ朝食の時間で、ドレスを着替えなければならない。
いつも通り、ルイーズが今日のドレスを用意してくれているだろう。
戦争のあとも王家が王家として在るように、ウィルを助けられるように、ロジーナは王妃を続けなければ。
***
毎日ではないけれど、折を見てはユアンの建ててくれた別棟を訪れている。
箒をもって、少しだけ掃き掃除をする。
かたい木の椅子に座って、薄くて不味いコーヒーを飲む。
アイオライトの労働者層の生活を思い知るために、前線に出るだろう兵士たちが味わうだろう苦痛を想像するために。
そんなことをしていたら、王都では噂が立っていた。
トイレの王妃様はご体調がよろしくなくて、時々城の離れの空気の良いところで静養されているらしい。
その時にも豪華な食事はとらず、質素倹約に庶民と同じものを食べているらしい、と。
それは激増している貧困層の支持に繋がり、国民議会でも税金収入からの王家への資金供給をとやかく言う声は出なかった。




