6.いつか王妃になる田舎男爵の令嬢、トイレ研究所にこもる
騎士団の屈強な男たちのための宿舎は、騎士団の皆さんが自力で建てられた。
領主の屋敷の横に、それより大きなログハウスが出現したのだ。
トイレ研究所の研究員の宿舎、ということになってはいるが、研究員が筋肉ムキムキで木を切って建築していたから、村の人たちにはトイレ研究所は名ばかりのものだとバレている。
それでも騎士団が村の市場に行って買い物をすると、「研究がんばってね!」と声をかけてくれているというのだから、本当にこの村はいいところだと思う。
さて、わたし、ロジーナ・デュランブはというと……。
「レディ・ロジーナ、畑に行きたいのは分かりますが、今はテキストに集中してください」
これまた騎士団の皆さんと、村の男衆の尽力で建てられたトイレ研究所。
両開きの玄関を入れば螺旋階段があり、一面の白い壁。柱には蔦の装飾がされている。
絵で見たことのある、王都の博物館の一部のようだ。
デュランブ家の本邸より豪華に仕上がっている。
そしてそんな立派な建物の一室で、わたしは王都から来たミス・マレットに注意されていた。
今まで母を手伝って畑を耕したり、父に付き添って隣村まで馬を駆ったり、喧嘩している弟たちを弟と同じようなテンションで叱っていたりしたわたしが毎日、午前三時間、午後四時間、座ってじっとしているのは、正直苦行だ。
テキストを前に座ってるだけじゃなくて、ダンスも所作もあるのだけど、ダンスも社交界で必須の二拍子、三拍子、六拍子のものをとりあえず習っている。
大体王都にタウンハウスのない貧乏男爵家のわたしは社交界に出る予定もなかった。
そんな子どもに王妃として最低限のものを、と遣わされたミス・マレットには同情を禁じえない。
「本日はこの『アイオライト王国建国の歴史と種々の外交問題』を読み終わらなければいけません。さあ、がんばりましょう!」
額に汗するミス・マレットに、わたしは内心こう思うのだ。
はっきり言って、前世を思い出した得など、何にも!ない!
前世の記憶がこの生に直結して役に立っていることなど何があるというのか。
思い出したといっても何百年か前って感覚だし、今生きてる世界と繋がっていないから、この世界の成り立ちを他の人たちと同じように勉強するしかないのだ。
前世の置き土産のようなちらちらとした記憶で、取り入れられそうなのは取り入れるけど、水洗トイレだってわたしが提案してなくても絶対どっかで誰かが発明してたと思う。
大体、ロジーナ・デュランブとして生まれて十一年、この生活に馴染んでいる。
前世は、スマホは便利だったしネットなきゃ生きていけないと思ってたし深夜も明るくてコンビニが開いてて年中同じ野菜が食べられてお菓子もいっぱいあってチョコとかクッキー食べながらネット小説読むのが至上の極楽だったけれども!
快適で便利だったけれど、今のこの生活も、自分の身体で生きている、という感じが気持ちいいのだ。
だから……、
「ミス・マレット、少し休憩しませんか……」
***
アリバイ作りにと、トイレ研究所にはトイレに関するものたちが集められている。
何種類もの穴開き椅子の模型とか、高位貴族がバケツの代わりに使っている豪華な壷のコレクションとか、下水道のミニチュアとか。
わたしはそれらに囲まれて王妃教育を受けているのだ。
あああ、なんか思っていたのと違うわ。
「レディ・ロジーナ、確かにこの環境では集中するのは難しいかもしれません。私もその、このような場所でというのは、予想外でしたので戸惑っております。しかし、来年の春には王室に入ることを考えれば、自然と努力もできるでしょう」
ミス・マレットは田舎娘の教師として適任だと思う。優しくて、ものすごくはげまし上手。
でも、わたし、漫画と結末を違えるようにと足掻くなら、ウィリアム殿下との結婚をナシにしたかった。
だから、王室に入れるからがんばる、って気持ちにはなれないのよ。
っていうのをミス・マレットに説明するのもお門違いだし、いまさら王妃ルートは動かせない。
とにかく漫画のロジーナ王妃と違うことをしなければ……。
そうして行き着くのは結局トイレなのだった。
殿下からの手紙を読む限り、水洗トイレのおかげで流行り病が防げるようになれば、その功績は田舎の男爵家からでも妻を娶る理由になる。
ぼんやりした記憶を探っても、漫画のウィリアム王とロジーナ王妃が結婚した理由なんて出てこなかった。
ウィリアム王の回想に、「前はああではなかった」的なセリフがあった気もするけど、漫画だから基本的にヒロインのソフィー視点以外のことはわからない。
トイレもあの人たちはどうやってたんだろうな、何で少女漫画ってトイレのシーンないんだろう、あったとしてもイジメのシーンで出るくらいだったか、できればトイレ事情も細かく描いておいてください。
……お願いだから、漫画とは違う結婚理由になっていてほしい。
***
「モントローゼ公爵アーチボルト・カーライルが長子イアン・カーライル、現在、王室騎士団少尉、王家の命によりこちらへ参った!」
「次は僕ね! モントローゼ公爵アーチボルト・カーライルが長子!」
「あ、おねえちゃまだ!」
「おねえちゃま! おかえりなさい!」
「おかえりなさい! おねえちゃまは毎日あそこで何してるの?」
「トイレの勉強してるの?」
弟たちは家の周りが賑やかになってはしゃぎっぱなしだ。
イアン様がお越しになったときの真似をしてよく遊んでいる。
いつか自分たちが王妃の二親等の親族になるということを分かっているのだろうか。
いや、分かれというのは無理があるか。
しっかり者の母でさえ、山を越えた隣の村の桃の収穫のことを忘れてたりした。
それに、少なくとも食事のときはマノン婦人に加えてミス・マレットからも厳しく躾けられるようになったので、だいぶ上品な男の子たちになったと思う。
父に至っては、漁から帰ってきたかと思うと大量の魚を置いて、今度は東の小さな山脈に行ってしまったし。
あの大量の魚を干すのは料理人のマルタンだけでは手が足りないだろうな、わたしも手伝いたいな……、思いっきり内臓を引っ張って……、と指が勝手に魚をさばく動きをしていると、弟に心配される。
「おねえちゃま? だいじょうぶ?」
「だいじょうぶ? トイレのこと考えてるの?」
「トイレ! トイレすごいね! 水が流れるよ!」
水洗トイレは弟にも大好評だ。
マノン婦人がどう教えたのか、弟たちの中ではすでに「水洗トイレ=わたし」になっているようだ。