43.トイレの王妃様、息子を教育する
男爵家の娘を娶ったせいで、枢密院の議長に裏切られていた国王ウィリアム。
王家の威信が揺らぎ、わたし、ロジーナへの反感も相まって、反乱でも起きたらどうしようかと思っていたのだが。
「それでね、トイレの王妃様は、御自ら黒死病の蔓延るグラナトの地へ向かい、その才気でもって黒死病をお鎮めになったのよ」
「すごーい! トイレの王妃様は、えっと、心がおつよいのね!」
「そうよ。勇敢で、慈悲深くて、とても素敵なお方なのよ」
いつか見たことのある赤毛の女性が、停まっている馬車の横を通りすぎていった。
彼女と手を繋いでいるのは同じ赤毛の小さな女の子で、よちよち歩いている。
母娘でパンを買った帰りのようだった。
何年も経ってから語られるお話なんて、事実とはかけ離れてしまっている。
時系列もあっちこっちいって、あることないこと真実のように語られて、わたしはまだ、「トイレの王妃様はすごい」と言われつづけている。
わたしがあの時、グラナトに行ってよかった。
自分が黒死病にかかるかもしれない危険を冒したというので、貴族のなかでは「あの王妃は何をしでかすか分からない。もし王家に危害を加えたら、グラナトから石炭を輸出してもらえなくなるかもしれないし、疫病に詳しいから最悪何らかの病気を領地に持ちこまれるかも……」と、反乱を起こす気を挫いてしまったらしい。
それからはウィルの治世も順調だ。
産業が発達したり人口が増えたりで整備が追いつかず、国内の衛生状態は一進一退だけど、疫病による死者数は前国王の時代よりもだいぶ減った。
その日暮らしの貧困層もいる一方で、全体の富は増え、人々の生活には余裕もでてきた。
完璧ではないけれど、上々だと思う。
「お母様、あの子、腕がないよ」
わたしの横に座っていたユアンが、袖を引っぱってくる。
ユアン・ミカエル・アレクサンダー。
押しも押されぬ大国となったアイオライト王国の、第一王子。
ウィルに似た美しい金髪と面差しで、可愛くてしかたがない、わたしの子ども。
七歳になり、そろそろ帝王学を始めないと、ということで、街の見学を馬車の中からさせていたのだ。
そんな彼が目敏く見つけたのは、うす暗い路地にちらりとしか見えていない、子どもの乞食だった。
ユアンの言う通り、右腕がないらしく、シャツの袖を縛っている。
その子の後ろにも汚い格好をした数人の子どもたちの影があり、往来の人々を鋭い目つきで観察していることから、スリやかっぱらいをしようとしているのだと分かる。
「あの子は、生まれつき腕がなかったか、事故か何かで腕をなくしたのでしょう。この世界には、そういう人もいるのですよ」
「お母様の救貧院には入れないんですか?」
「そうね……。ユアンは、救貧院で何をやっているか知っていますか?」
「知ってます! この前ルイーズが教えてくれました。女の子はメイドになるための訓練とか、男の子は軍隊に入るための練習とかしてるって。えっと、あと、お針子とか、工場で働けるように訓練したりとか……」
「それは王都の救貧院の、職業訓練プログラムのことですね。元々の救貧院はね、病気や障害で働けない人や、年老いて働けなくて身寄りのない人や、親のいない子どもたちを収容していたの。でも、雨風をしのげる屋根と壁があって、食事を出すだけの支えしかしなかったら、そこにいる人たちは、そこから抜けだせなくなってしまうの。だから自分の力でお金を稼げるように、自分の力で生きていけるように、職業訓練プログラムを作ったのですよ」
「ふうん。じゃあ、あの男の子は? あの子は職業訓練プログラムをしないのですか?」
「そうね、お母様は受けてほしいと思っているわ。でもね、どうしても救貧院にいられないという人もいるのです」
「どうしてですか?」
納得しがたい、という表情でユアンが聞いてくる。
「救貧院では、決まった時間に起きて、決まった時間に食事をして、決まった時間に寝るの。一日のスケジュールがきっちりと決まっていて、皆と一緒に生活しなきゃいけないのです。それが出来ない人もいて、そういう人は、安宿や橋の下で寝て、日雇いの仕事を見つけたり、あの男の子みたいに罪を犯してその日のパンを得たりするの」
「あの子たちは、人のお金を盗んでいるというのですか?」
「そうかもしれません。そうじゃないかもしれないけれど、お母様から見て、あの子たちはそのようにして生きていると思います」
わたしの返答に、ユアンが歯を食いしばっている。
その視線の先には、あの片腕のない男の子が身なりのいい男性にぶつかって、走り去る後ろ姿があった。
おそらく今、男性の財布をすって逃げていったのだ。
ユアンの初めて見る現実だった。
「ねえ、ユアン。お父様もお母様も、最善のことをしてきたつもりです。それでも追いつけないことは多いの。だからユアンが、お父様とお母様にできなかったことを、やっていってくれないかしら。先ほどの子のような、罪を犯さないと生きていけないという人をできるだけ減らせるように、王族に生まれたあなたも頑張ってくれないかしら」
まだ幼いこの子に、自分たちが成し得ていないことを押しつけるような真似をしている自覚はある。
もちろん自分たちでも、これから改善していくつもりだけれど、ウィルとわたしの代だけではきっと足りない。
ウィルとわたしがそれぞれ力を入れている分野があるように、ユアンも何か真剣に取り組む課題を見つけられたらいい。
それに、王族として、民の納める税で生かされているということを、ユアンにも分かっていてほしいのだ。
ユアンは自分が乗っている馬車の内装の豪華さに目を凝らしている。
お忍び用だから外側は黒一色で、中に入って天井を見上げたら、そこにはアネモネの模様の装飾がある。
柄自体は控えめなほうだけど、ところどころ金と銀で縁取っていて、揃いの柄のクッションも座席に置いてある。
王城のユアンの部屋よりは地味で、でも先ほどのスリをした男の子が着ていた襤褸の服と比べると、違う世界の物としか思えないだろう。
ユアンが難しい顔をして頷いたから、わたしも祈るような気持ちで頷きかえした。




