油断大敵だよ、弟よ
「おい、やめとけって。無理だって」
ぼくの隣をあるく弟が必死にぼくを止めようとする。弟がぼくの前に両手を広げて立ちふさがった。黒い毛から覗く5本の白く細い爪がぼくを威嚇するように見え、目の周りも黒い毛に覆われているせいで、パッと見目が開いているのかすらわからない。けれど、太陽の光で反射する眼球のおかげで目が開いていると分かる。目を細めてこちらを睨んでいる。
「どうしてさ、応募するぐらい良いじゃないか」
弟の肩に手をかけ、押しのけようとするが、弟は動かない。鼻をピクピク動かして、ぼくの目を見据えている。
「無理だ、兄さんには無理だ」
ぼくはどうして弟がここまで反対するのかわからなかった。
「そこ、退いて。邪魔だよ。ぼくは早く先に行きたいんだ」
ぼくらの横を通り過ぎるパンダたちがクスクスと笑っている。ああもう恥ずかしい。もう、諦めて帰ろうか。いや、せっかくここまで歩いてきたんだからやっぱり応募したい。
弟がぼくの腕を力強く掴んで、丸みの帯びた牙をむき出しにし、それ以上動けば噛み付くぞと言わんばかりの眼差しを向ける。
喉の奥が響くような唸り声を上げて、ぼくに再度同じことを言う。
「無理だよ、兄さんには」
そうして、ぼくを薙ぎ払うと、ぐるりとでんぐり返しをして、全身を使って暴れ始めた。この年になってもまだそんな怒り方をするなんて、まだまだ子供だな。
「いつまでもそこでそうやってな」
言葉を吐き捨て、暴れる弟を放置して足を進める。ぼくとすれ違った親子が、弟を見て「おにいちゃん、ぷんぷんなんだね」「そうね、そっとしておきましょう」と小声でこそこそと話している。ぼくは、体中の血液が沸騰するのを感じた。恥ずかしいやら怒りやら。体の熱を奪うように、爽やかな風がぼくの毛並みを撫でて、くすぐった。毛と毛の間を冷たい空気がすり抜けて、気持ちがいい。
両手で厚い茶色の封筒を抱え、郵便ポストまで走った。
赤いポストがようやく見えてきた。あともう少し。
あと数歩。
あと一歩。
ポストに投函しようとした時、ぼくの肩を誰かが掴み、後ろへ引いた。
「おい、兄さん、それは許さないぞ」
「どうして、どうしてお前はそこまでしてぼくを止める」
「それは、おれが……」
弟はぼくの肩をちぎれるほど強く掴み、ぼくの目をみつめたまま、真剣な声で言い放った。
「おれも、小説を応募したからだ!」
それから頬を赤らめて、蚊の鳴くような小さな声でぼそぼそと続きを話し始める。
「一人でも応募者を減らして、ぼくが受賞する確率を上げたいんだ。兄さんは文才あると思うから、おれを 置いて受賞するんじゃないかって怖いんだよ」
弟がぼくを止めようとする理由はそれだったのか。ぼくは弟を見つめ返して目を細めた。
「そうだったんだね……」
「だから、兄さん――」
弟がなにかいいかけたが、わかったとぼくは頷いた。弟の目に光が差し、キラキラと輝く。ぼくは、弟の手をそっと肩から外して、弟に微笑みかけた。
「おれの言うこと聞いてくれるんだね……」
ぼくは、笑みを浮かべたまま黙っていた。弟の目に涙が浮かび、目尻からポロポロと雫が流れる。ぼくはポケットからハンカチを出して、弟に差し出すと、弟はハンカチを受け取り、目に押し当てた。
今だ!
ぼくは、回れ右をして腕を伸ばし、ポストへ封筒を投函した。
ポストからがたんという音が聞こえ、弟はハンカチを目から離した。弟はぼくの腕の先を見て、目を見開いた。浮かぶ絶望。裏切られたという顔。
ぼくは、全速力でそこから逃げた。
それから数時間後、ゾンビのようなおっかない顔をした弟が家に帰ってきて、しばらくぼくと口を利こうとしなかった。