9
次の週からは毎回別れ際にキスするようになった。
先生はいつも私の部屋の前まで送ってくれて、常夜灯がともっているだけのその暗がりの中で、私の背中を扉に押しつけて優しいキスをする。
雨の日には、助手席から降りる私の頭上に傘をさしてくれて、そしてそのまま唇を重ねてきたこともあった。
車体に触れた背中に雨水が染みて冷たかったけれど、構わなかった。
最初の時以来、抱きしめるはおろか私の身体に触れること自体めったになくて、心許なさを感じていたのだけれど、ある日同じようにキスをしたあと、無意識に寂しげに見つめてしまった私の目を見て、先生は私の首筋に手を伸ばして、ふと、「また今度ね」と笑った。
かすかな不安は残るものの、現金にもその艶めいた声音にじんわりとした安堵が胸の内からこみ上げてきて、私は窓辺から車が曲がって出ていくのを見送った。
そして、夏休みの終わりごろ、初めて先生の家に行った。
仕事終わりだという先生と落ち合って、いつものようにご飯を食べて、車のエンジンをかけたときに、
「明日休み?」と、さりげなく、けれど真剣な顔で訊かれて、ふいに見せる大人の表情にどきりとする。
ひとつボタンをあけたピンストライプのワイシャツに肘のあたりまでまくった袖。
先生としての彼の姿をまじまじと見たのは久しぶりだったからかもしれない。
「昼から部活あるけど、どうして」
「そっか」
それだけ言って先生は車をしばらく走らせる。
何も言わないから私は変な期待をしてしまって、なんだか居心地の悪さに、私は窓の外の景色を前、左と交互に見ていた。
随分前に閉まったのにまだ残っている本屋の看板の色あせた赤。
チェーンの中華料理屋さんのわざとらしいくらいの電飾。
iPhoneと繋げたスピーカーからはジュディマリのアルバムが流れている。
交差点にさしかかる少し前に、
「仄香連れて帰ってもいい?なんて」
私はえ?と訊き返したけど、先生は何も言わない。おどけた口調だったけれど、本気で言っているのはすぐに分かった。
しばらく私が何も返さないでいると、先生は交差点を右に曲がった。ここから十分ほどで私のアパートにつく。
多分、さっきのところを直進していたら、先生の家のほうに行く。
急に、このまま暗い蒸した部屋で、ひとりで寝るのが嫌になった。けれど自分の選択次第で、どうにでもなるということに気づく。竜矢先生は、それを待っている。
それに、その瞬間に私は妄想してしまったのだ。
私の周りの誰も踏み入れたことの無い彼の部屋で、彼と私しかいない空間で、彼に唯一の存在として扱われているところを。
甘い疼痛にぎゅっと締まる胸に耐えられなかった。
「連れて帰ってよ、ねえ」
なにも考えずに私はそう言っていた。
先生は少し驚いたようで、けれどなにも顔には出さずに、「いいよ」とだけ笑って言って車をUターンさせた。
その大人の余裕に満ちた様子に、やっぱり先生はずるい人だ、と思う。