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ひかりのまち  作者: 実海カイリ
葵と仄香
8/19

8




部活の後に忘れ物を思い出して、葵は仲間とは別れひとり教室に戻った。


昼に降っていた通り雨のせいか、運動したあとの腕や背中にはじっとりと汗が滲んでシャツが張りついた。



用も済んで、帰ろうと下駄箱に続いている渡り廊下を歩いた。



3階からは遮るものも無く空がよく見える。


トマトジュースの上にソーダをゆっくり流し込んだみたいだ、と、子供の頃から思っていた。滲んだ朱色とそれが薄まった薄黄色と、徐々に深くなっていく青。糸筋のように細い雲が伸びる。



と、渡り廊下の側溝を隅から隅まで覗き込んでいる女子生徒がひとり。赤色の無地のリュックサック。


紺色のスカートから、すらりと伸びる白い脚。




「……仄香?」

「あ、葵先輩」



久しぶりに彼女にそう呼ばれた。

仄香はかがみこんだままぱっと顔を上げた。


それではっとするくらいには、目が大きくて整った顔だ。



「なにしてるの。すごい変な人がいると思ったら、仄香だった」


彼女は立ち上がってスカートを少しはたいた。


「あはは。実は、家の鍵を無くしちゃって。今日の昼休み、友達と移動してる途中にここではしゃいだから、もしかしてこの辺で落としたのかなって」

「えっ、それは大変だ。俺も探すよ」



仄香は小さく、えっ、すみませんと言っただけで、表情には出していないけれど相当困っているようだ。


葵は彼女と一緒に渡り廊下の隅々まで見て回った。



「にしても、もうずいぶん遅いけど、こんな時間まで探し回ってたの」


「ううん、さっきまで教室で勉強してて、帰ろうと思って荷物片づけてたら、鍵がないことに気づいて」


「そっか。テスト週間でもないのに教室で勉強してるんだ、すごいね」



「んー、私国立に行きたいんで。親にあんまり負担かけたくないし。あと、なるべく、家には帰らないようにしてるんです」



葵はどきりとした。もしかしたら、この子は自分と同じものを抱えているのではないかと思ったから。



「どうして。家族と上手くいかないとか、あるの」

「あー、そうじゃなくて。私、ひとり暮らしなんで」



仄香は予想外の答えをさらりと返す。



「え、そうなの」

「はい。実家、すごく遠いんで。この高校受かった時に下宿始めました。さすがに家でひとりだとあんまり勉強に集中できなくて」



「そうなんだ。自分で家事しながら勉強もしてるの、大変そう」


「うーん、私はそれを気楽だと思うタイプみたいで。だれにも干渉されないし」



葵は自分と重ね合わせてみた。


まさか下宿ではないけれど、たいていは夕方まで部活だから、あまり気にする事はないけれど、それ以外の時も学校に残ったり塾に行ったりすることが確かに多かった。



家にいたからって特に何を言われるということもないし、家にいるのはたいてい母親だから特段仲も悪いというわけではないのだけれど、なにか気詰まりしてしまう。


家族の間に居心地の良さを感じたことがないし、大体自分の部屋にいるから、ひとりでそういう場所にいると余計なことばかり考えてしまうからかもしれない。


次はいつここで会えるのかも分からないあの人のこととか。



結局渡り廊下には何も落ちていなくて、1年生の教室や下駄箱まで見て回った。



鍵は、渡り廊下や教室に見切りをつけて、校舎を歩き回っているときに見つかった。


理科棟の廊下に置かれた机の上に、だれかが拾ってくれたのか置かれてあった。



「よかった、見つかって。無かったら帰れなかったでしょ」

「はい。冗談じゃなく路頭に迷うところだった」



仄香はすっかり安心した様子で笑って、今度はしっかりと鍵をリュックのポケットにしまった。

水色の花のキーホルダーと鈴がついている。



駐輪場までそのまま並んでふたりで歩いた。


ずいぶんと夏めいてきて、まだ暗くはなっていなかった。


上空には徐々に深い青の宵闇が近づき、じめじめとした空気はずいぶんと澄んできた。


彼女は葵に深々とお辞儀をした。




「本当にありがとうございました。……あ、ねえ、先輩」


「なに」


「蛍、見に行こ」

「蛍?」


「はい、蛍」



唐突な展開に葵は戸惑う。


よく分からないままいると、仄香は、「自転車取ってくるのでここで待っててください」と言い残して、家の方に走っていった。


まもなく、白色の自転車を押して戻ってくる。



「ね、いいでしょ。行きましょ??」



葵が曖昧に頷くと、仄香は笑って、サドルに腰掛けて漕ぎ始めた。


葵は慌ててついていく。




「いないって。蛍なんか。もう6月だもん。」

「いるよ、ぜったいいる」




夕陽に向かって仄香は自転車を漕いだ。風を孕んで、彼女の髪とスカートが揺れる。


ぬるい風が、柔らかい布のように頬を撫でる。




「日が沈んだら涼しくなった。よかった」



彼女はいつからか砕けた言葉を混ぜて話しかけてきていた。


考えてみれば、さやかを交えずにこの子ときちんと関わるのは初めてのような気がする。




ああなんだろう、この感じは。




自転車を15分ほど漕いで、山の裾にある神社に着いた。


入口の脇に自転車を停めて、ところどころに深緑の苔が張り付いた鳥居をくぐった。


鳥居を抜けると本堂まで森が続いていて、かなり高い木々が覆いかぶさってくるようだった。



葉の重なりの間にわずかに青が覗く。


ここまでは微かに残る夕陽も入っては来れない。




「さすがに、暗いね」

「本当。やだ、ちょっとこわいな。葵先輩驚かさないでくださいね」


「……わっ!!」

「もう!すぐそういうことするじゃん」



ふざけて葵は、リュックサックの後ろ姿の肩を叩いてもう一度驚かせた。


その肩は思ったよりも何倍も華奢で薄かった。




案外虫も眠っているのか静かで、当然人通りもないひっそりとした神社は密室のようだった。


お互いの輪郭もぼんやりとしていて、なんだか急に緊張する。


考えてみれば、まだ彼女の名前以外大したことは知らないのだ、



木々の中に、人工の水路なのか自然のものなのか、小さな川が一筋流れていた。



「……小さいとき、おばあちゃん家の裏山で迷ったことがあって。その時に、こんな感じの川を辿ってなんとか地上に出たことがあったな」


「葵先輩って、そんな山とか駆け回る子だったんですか」

「なんだよ、それ。普通に虫取りとかして遊んでたよ」



その時草むらがガサガサと動いて、仄香は驚いて身をこわばらせた。


ひとり焦っているその動作に、葵は思わず笑った。




静けさに押されて、その後はふたりは自然と黙って、川べりを見つめたまま歩いていた。


これまでのところ、蛍らしきものは何一つ見つかっていない。




どこまでこの暗闇か続いているのかと思った矢先、



「あ、ねえ」



急に仄香はしゃがみこんで、葵を見上げて手招きした。



「え?なに」

「いいから、来てって」


瞬間に仄香は葵の手を握って引き寄せた。ほっそりとした指の熱。


戸惑いながら葵は彼女の横にしゃがんだ。握ったことの無い、柔らかい女の子の手。




だけどそれも忘れてしまうものを見た。目隠しするように覆いかぶさっている草葉の陰に、かすかに、ちらちらと揺れる光が。


僅かに緑色を帯びて、青白く揺らめいている。



「…いた」


「ね、いたでしょう?」




気がつくと彼女の横顔はすぐそばにあった。


静かなせいで、息遣いまで聞こえてしまう距離だった。


仄香はそのまま葵の方を向いて、笑った。

青白い光に微かに照らされた頬。蛍の光で瞳は濡れたようにゆらめいている。


葵は蛍に目をやるふりをして視線をそらした。






踏み込みたい。

単純そうで決してそうではないこの子に。


そう思ったのは初めてのことだった。


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