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ひかりのまち  作者: 実海カイリ
葵と由紀子
5/19

5


かかってきた電話は、葵が誰よりも望んでいた人からだった。


「由紀さん?」

「葵くん。よかった、出てくれて。今、自分の部屋?電話して大丈夫だった?」


彼女から電話がかかってくることはあまりなかったから、驚いてしまった。顔を合わせずに会話することに慣れていなくて、やけに緊張して声が上ずる。


「うん、大丈夫。どうしたの、急に」



 葵は平気なフリをして笑って尋ねる。携帯から聞こえる彼女の声が、静かな部屋に、葵の胸に、包み込むような暖かさを持って反響する。


「あのね、訳あって歩いて帰ることになったんだけど、30分くらいね。それで」

「真っ暗な道をひとりで歩くのは怖いからって?」


「そう。だから家に着くまで相手して?」



こうやって彼女は、予期していない時に踏み込んでくるから好きになってしまう。



「いいよ。由紀さん、いつまで暗いところ怖いの」

「仕方ないじゃん怖いんだから。それにしても、よく分かったね」

「なにが?」

「歩いてる、って言っただけで、怖いんじゃないかって」

「そりゃ、分かるよ」



だって、ずっと昔から、由紀さんのことばかり見てきたから。

それは口には出さなかった。



「葵くん、もう高校2年生になったんだっけ」

「そうだよ」


「そっかあ。えー、早いなあ。どう?最近楽しい?」

「うーん、…まあまあかなあ」

「そっか。まあまあか」


 葵は、ぼんやりと窓の方を見つめながら由紀子の声を聞いていた。カーテンの隙間から黒々とした宵闇が覗いている。どこだろうが無機質で清潔な蛍光灯の灯り。



「由紀さんは?なにか変わったことあった?」

「うーん。あっ、あのね、明日髪染めに行くんだ」

「いいじゃん。何色にするの?」

「カレーのルーみたいな色」

「カレールー?」

「そう。あのね、溶かす前のルーの色って、茶色に絶妙にカーキがかかってて可愛いんだよ。この間料理してた時に気づいちゃったの」

「そうなんだ。でもそんなこと言われたら、次由紀さんに会った時に真っ先にカレーが頭に浮かんじゃうかも」


 次会えるのは、いつなのだろう。

 いつまで今のこの関係を、突然電話をかけることができるくらいの親しさに保てるのだろう。


 なぜだか分からないけれど、葵の中での由紀子のイメージは、脆く寂しいものにものすごく近かった。だから、わずかなきっかけでもすべてが覆ってしまいそうで、そういった恐怖を常に抱いている。



それからしばらく交わした会話は、他愛のないものだった。最近話題の映画が面白かったとか、高校の前にあったコンビニが潰れてしまってがっかりしている、とか。



由紀子と話している時の葵は、必死に楽しげに話している。


自分といる時がいちばん楽しいと、ふとした瞬間に思ってもらえないだろうかと妄想しながら。

自分といる時の葵は楽しそうだと気づいてほしいと思いながら。



「ちゃんと元気してるの?葵くんのことだから、いい大学行かなきゃってめちゃくちゃ勉強して疲れてるんじゃないかって」

「まだ二年生だし、そんな無理してはないよ」


「ならいいんだけど。無茶しないでね。私もそうだったけど、お母さんもお父さんも、薫もいっちゃんも、ぜったい葵くんの味方だし、葵くんが行きたい方向に文句なんか言わないから、ね。大丈夫だよ。もし困ったら、私もいつでも助けるから」



ふいに彼女がそんなことを言い出すから、無意識のうちに固まっていた心が、少しずつほぐれて溶けていくような気持ちになった。



「うん。ありがとう、由紀さん。大丈夫だよ」


嬉しくて、この特権を独り占めしていたくて、でもいつまでも世話を焼かれる子供なのが悔しくて、葵は何も苦しくなんかないふりをして強がってみせることしかできない。


由紀子はいつもこうして、他の誰も触れることのない葵の琴線に容易に触れて見せる。それはずっとずっと昔から変わらず。




「そろそろ家だ。葵くん、相手してくれてありがとね」 

「うん。由紀さん、元気でね」

「ありがとう。じゃあ、おやすみ」


葵は耳から携帯電話を離したものの、自分から電話を切ることが出来なくて、「通話終了」が表示されるまでずっと画面を見つめていた。


 さっきまで自分だけのものだった憧れの人の声が、あたたかで切ない余韻を残して夜に溶けていった。次はいつ会えるのかも、いつ話せるのかも分からない身にとってはそれは永遠の別れと同じようなものだった。



 夜自分の部屋に一人でいると、時々世界には誰も生きていないような気持ちになる。彼女の近くにいることができた日の夜は、大体そんな感じだった。



 鋭い孤独と苦しさが胸のあたりから襲ってきて、葵は座ったまま、忌まわしいものをすべて払うようにぎゅっと目を閉じた。



 また、こうして彼女は、葵に忘れることを許してくれない。


 もはや距離だって遠いのだから、彼女のことも、彼女との思い出もすべて封じ込めてしまって、そうしてすべて忘れてしまったらこんなに苦しいこともなくなるはずなのに。



叶いっこないと分かっていながらも心のどこかでは期待していて、すべて忘れてしまおうと必死に押しとどめていたのに、ふとした瞬間に期待が猛烈な熱情を持って蘇ってくる。


蘇ってしまうから、どんな誰と恋人でいるよりもあの人に片思いしている方が何倍も何倍も幸せだという執着心がこみ上げてきて、そして葵の気持ちに決して応えないくせにいつまでも恋をさせてしまう彼女を恨んで、そういう自分が情けなくてすべて嫌になる。




叶わないのだから、せめて忘れさせてほしいのに。


忘れでもしないと、きっとこれからも何度も何度も不用意に近づこうとしてしまう。きっと、重苦しいところばかり見せてしまう、迷惑な言い寄り方ばかりして、きっと徐々に嫌われてしまう。それが、葵にとっては一番恐ろしかった。


恋をしている姿はきっと何よりも虚しくて愚かだ。

ルーなのかルウなのかで大分迷って分からなくなりました。

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