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ひかりのまち  作者: 実海カイリ
葵と由紀子
4/19

4

 葵の家族は、父と母、それと神戸と福岡の大学に出てひとり暮らしをしている兄ふたりだった。


 けれど、そのうち葵と血がつながっているのは父だけだ。ふたりの兄は、かおるいつき、と似た名前ではあるけれど、葵とは別の母親のもとに生まれた。

 


 ずいぶんとややこしい事情だ。


父はまず大学で出会った今の母親と結婚して、けれど薫と樹が生まれてすぐに離婚し、母はふたりを連れて出ていった。

そして父は一目惚れした若い女性(名前さえ知らない)と再婚して葵が生まれたのだけれど、彼女は葵を産み落としてしばらくして消えた。


 それで、残された子供をひとりで抱えてどうしようもなくなった父は、こともあろうか昔の妻に助けを求めたのだった。


 このことについては父からも、母からもほとんど聞いたことはないし、当然なんとなくのタブーとして口に出したことはないけれど、長兄の薫は事情を察していて、葵がずいぶんと大きくなってそっと教えてくれた。

 

 まあでも、俺らふつうに似てるし兄弟だし普通だよな、なんて、薫はなにも気を遣わせないだけの優しさがあった。

 

だけどそれを聞いたとき葵は、だからか、と一人で納得してしまった。だから自分は、樹と上手くいかないし、それに薫の優しささえも自分と距離を置くための手段のように思えてしまうのだ、と。

 


 小早川の家には、ずいぶんと仲のいいご近所さんがいた。


向かいの仲家で、そこには葵の一つしたのさやかと、さやかと十も離れた姉の由紀子ゆきこがいた。きょうだいどうしが関わるのに、上の子か下の子かでやはり相性はあるらしい。


根からの妹気質のさやかは、樹と一緒に判断の危なっかしいところのない薫の後ろにいつもぴったりとくっついていて、由紀子はその世話を焼きつつも、ひとり輪の外の葵を特別可愛がってくれた。

 


 それがただ単に世話焼きのお姉さんだからではなく、そのころから兄たちとの関係に違和感を抱いていた葵に気を遣って、よく見ていてくれたのだと知ったのはもう少し大きくなってからだ。


 一緒におやつを食べる時はちゃんと葵を呼んで隣に座ってくれたり、何も壁なく接してくるさやかと葵が上手くやっていけるように助けてくれたり、けれど葵と兄二人の関係には必要以上に触れないようにしていたりと。



 そのありがたさに気づき、葵が心の底で異常に由紀子を慕い始めたのはその時からだった。


誰にもばれていないと思っていたけれど、この年頃になって恋だのが分かるようになってきたさやかには気づかれていたらしい。


 何も顔には出していないはずだけれど、葵はいつも、由紀子の存在を目で追っていた。

 


 けれど彼女は、誰よりも先に大学生になって大分の家を出ていき、ここに帰って来るのは年に一度あるかないかだ。


 葵ももう世話を焼かれる年頃じゃなくなったけれど、長期休みに全員が家にそろってどちらかの家で食事をするとき、由紀子にチューハイの缶を開けてあげるのが楽しみで仕方なかった。


彼女が都会に出ていって、そのままそこで社会人になったのは、どうやら、さやかとは仲が良くても両親と上手くいっていなかったらしい、と、これは最近さやかから聞いた。



「あのときはさや小っちゃかったから、よく分からなかったけど、さやが寝てから帰ってきてお父さんとお母さんに怒られたりしよったよ、お姉ちゃん。だからな、お姉ちゃん帰ってきても、たぶん居場所ないんだと思う」


「さやかがなんとかしろよ、妹だろ」


 葵はすっかり由紀子の味方だったから、つい何も考えずにそんなことを言ってしまう。




「妹でも無理なことは無理だし。私はお姉ちゃん大好きだけど、だからって家族みんなが上手くいくとは限らないもん、全く別の人間なんだからさ」


 珍しく理路整然と反論されて、葵は頷くことしかできなかった。それに、さやかの言ったことは自分でも身に染みて分かりすぎるほど分かっていたから。




 最後に由紀子と会ったのは、数週間前、今年のお盆休みだった。


夜は葵の家に仲家が全員集まって、大人と子供で分かれて飲み会をしたのだった。そのときは、薫は帰省していたけれど樹はいなかった。


その理由を由紀子が葵にきいてきたとき、さやかと薫は大人の宴会に混ざっていて、葵たちはふたりきりだった。



 由紀子はお気に入りのカシスオレンジの缶を開けていて、葵はサイダーの紙コップを持っていた。


「あんまり大きな声で言えないんだけどさ、」葵は薫が帰ってこないことを確認して、そっと声を潜めた。「薫と樹、今縁切る寸前で、大変らしい」

 


 由紀子も同じように声を落として、葵に顔を近づける、距離が近くなって、彼女の睫毛の一本一本まで見えることにどきどきする。


 「え、うそ。あんないい兄弟なのに、何があったの」


 葵は数日前に、薫が酔って半ば自棄になって葵に打ち明けたことを話した。

「なんか、樹の彼女を薫が取ったんだって」



「えっ!なに、それ」

「由紀さん、声大きい」

「ごめんごめんって。え、薫ってば大人しいと思ってたのに、そんなことしちゃうんだ」



「なんか、しかもそれが樹が遠距離までして三年半つきあってた彼女で、だから薫には二度と会いたくない、って言ってるとか」

「うわ、そっかあ。それはいっちゃん、怒るよね」


 酔いが回ってきたのか、いつもよりも話し方がのんびりしている。



 そうでなくても由紀子の反応は、ひとつひとつが子供みたいにまっすぐで素直だった。小さなことでも花のように笑ったり驚いたりしてくれるので、葵は話をしていて嬉しくなる。


「でも、そんな取りあいされるなんて、すごいね、その彼女ちゃんが」

「まあ、そうだね」


 兄ふたりの喧嘩に巻き込まれて苦労している葵は、当たり障りのないことしか返せない。


 そのとき由紀子は、ピンク色のカクテルの残りを一息に飲みほして、テーブルにつっぷした。葵がどうしたのという前に、



「私も愛されたいなあ」


 突然にそう呟かれた。だだをこねる子供みたいな口調で。


 葵に言っているというよりは、ただの独り言だった。でも、意識せずにはいられない。



「どうしたの、由紀さん。酔ってる?」

「ううん、酔ってないよ」



 酔っているほど酔ってないという大人の相場は決まっている。

 葵は由紀子がテーブルの上のものを倒さないように世話を焼いてやる。こんなことは、幼いころからずっと知り合ってきて初めてのことだった。


 そのくらい、葵の中で由紀子は完璧な、いつも自分を助けてくれる女神のようなひとだったのだ。


「葵くん、私みたいになっちゃだめだよ」


 とつぜんそんなことを言われ、訳の分からないと同時に心臓がひとつ、はねる。



 いきなりどうしたの、なんて冗談交じりに言ってみると、思いの外由紀子の目は葵をまっすぐ見つめていた。


 負けん気の強さがはっきりと顔にまで出ているさやかと、儚さが感じられる美人の由紀子は似ていない姉妹だけれど、瞳の意思の強さだけはそっくりだった。


「私、ずっと葵くんのこと、心配なんだよ。子供の時から、何が起こっても自分は傷つかない、って顔してるから」

「うそ、どういうこと、それ」


「いっつも葵くん、なにかいいことが起こりそうなときにも、あらかじめ最悪の事態を想定しておくでしょ。期待するようなことが何も起こらなくて、がっかりしたくないから自分の気持ちに予防線をはっとくの」


 そんなことしてない、と言いかけたけれど、由紀子の言葉にはそれを押しとどめるほどの迫力があった。



「それが葵くんの落ち着きにもつながってるんだと思うし、さやかみたいなそそっかしい子がそばにいる時には本当に助かるんだけど……でも、葵くんはもっと素直に欲しいものを追いかけて、なにかを失ってでも別の何かを得ようとする、愚直さみたいなのがあってもいいと思うよ。ずるい子にならなくていいんだよ。それで羽目を外しすぎないほどの頭の良さも、ちゃんとあるんだから」


「由紀さんは、それで何か後悔したことがあるの」


 思わず葵はそう訊いていた。


「そういうふうに言うのは、由紀さんが何か生きてきて感じたことがあるからでしょ。いくらいっつも俺と遊んでくれてた人でも、俺個人のことはそこまではっきりと分からないだろうから」


 今までにないくらい、葵は由紀子にはっきりと踏み込んだ質問をしてみた。


 正直言って、彼女の言葉は葵の胸に深く、深く沁みていたのだ。彼女が酔いがさめた後すべて忘れてしまっていても自分は覚えているだろう、と確信できるほどに。



 欲しいものを素直に追いかける。何かを失って別の物を得る愚直さ。

 

 だけどそれを言うなら、葵がなにかを失ってまで自分のものにしたいと空想してしまっているものはほかでもない由紀子だった。

 彼女はそれに気づいていないのか、それとも気づいたうえでかわされているのか。



「うん、後悔か。あるには、たくさんあったかな」

「そうなの。どんなこと?」

「葵くん、今日はえらく色んなこと訊いちゃうんだね」


 

 笑ってそう返されて、少しでも舞い上がってしまったことを後悔した。


 羽目を外さない頭の良さ、なんて大嘘だった。由紀子の前では距離をはかり間違えて、すこし隙があるように思えたらこうして言い寄って失敗してしまう。


 考えてみれば今までもずっとそうで、葵は由紀子の喜ぶことも悲しみの理由も案外知らなかった。近くにいるはずなのに、つめられない大人と子供との距離に歯がゆくなる。



 

 結局、珍しい話が聞けたのはあの夜だけで、結局彼女の核心には踏み込めないまま、彼女の後悔も何一つ知らないままだった。


 しかも一度やんわりと拒まれたことで、一層彼女とは当たり障りのない会話しかできなくなってしまっている。

 葵は彼女に対して、一層中途半端な気持ちをくすぶらせているだけだった。



 由紀子はずっと恋が出来ない、というさやかの言葉も、なんとなくわかるような気がした。由紀子は、ある程度のところまでしか人を近づけないのだ。


 それは愛想がないという意味ではなくて、むしろ屈託なく笑ってすぐに人を惹きつけるのに、決して自分という存在の奥深くを晒すことはない。



(ずるいのは自分じゃんか)と、葵は思う。


(俺にとっては神様と同じなのに、ぜったい近づけてくれない、ずるいのは由紀さんのほうじゃんか)と。


恋ってこんなに純粋な気持ちじゃねえよな。ほんとは。

本気になればなるほど、汚したいとか傷つけたいとか服従したいとかさせたいとか、そういう黒い欲望ばっか出てくるんじゃなかろうか本当は。

ってなことを延々考えてます。

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