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なんとか桜も持ちこたえ、ちらほらと新緑が覗いている四月上旬。葵の高校の入学式だった。
前日から朝方まで雨が降っていて、アスファルトは黒々と濡れている。ところどころに残る水たまりには、濡れて半透明になった花びらが縁に溜まり、白んだ空が映っていた。
ずっと昔から、雨上がりにたちこめる独特のにおいが好きだった。雨のにおいだと思っていたそれは、どうやら濡れたアスファルトのにおいらしい。
幼なじみのさやかが、葵の一つ下の後輩としてこの学校に入ってくる。二年生のホームルームは特にすることも無くて、一足先に教室を出た葵は、校門の近くで彼女を待っていた。
やがて一年生のホームルームも終わったようで、初々しく制服に包まれた新入生がぞろぞろと下駄箱から出てきた。
体格なんかはそう変わらないはずなのに、新入生だとひと目でわかるのはどうしてだろう。自分は場違いだとでもいうように自信なさそうに泳いでいる視線だろうか。
母親に連れられている人も、友達同士でわいわいと歩いている人も、リュックの紐をぎゅっと握りしめてひとりで歩いている人もいる。
5,6人の女子のグループが葵の前を通った、と思ったら、その中から抜けてこちらに近づいてくる影があった。
着崩していないおろしたての制服。シミもしわもなにひとつない紺色のセーラー服を着たさやかが駆け寄ってきた。
早速友達を作ったのか、同じように少し大きな制服に身を包んだ女子を連れていた。
「葵、待っててくれたの?」
「母さんたちが、ふたりで校門の前で写真撮ってこいって。きいてる?」
「きいてるきいてる。さや、お母さんからカメラ渡されたもん」
さやかはそこまで話してから、少し後ろで気まずそうに立っている友達に「こいつ、葵。さやの幼馴染」という風に説明した。
葵はさやかの隣の彼女を見た。まっすぐな黒髪。斜めに流した前髪をヘアピンで止めている。
彼女は葵に見られていることに気づくと、おずおずと笑って会釈をした。はっきり言って、かなり美人だ。
女優のようにはっきりとした顔立ちではなく、どちらかというと、儚い雰囲気の美少女。特別格好が派手なわけではないのに、そのせいでずいぶんとあか抜けて見えた。
「あっ、葵、ちょうどよかった。さやと仄香の写真も撮ってよ」
「ああ、いいよ」
校門の前には、同じように晴れの日の写真を撮りたい新入生や保護者が並んでいた。
もうかなりの人数が並んでいて、ちょっとしたお祭りのような人だかりだったけれど、葵たちはその後ろに並んだ。
「あ!晴奈じゃん。久しぶり!」
並んだ途端、さやかはちょうど校門から出てきた女子生徒の集団の中に、友達を見つけたようで、手を振りながら話に行ってしまった。葵たちは取り残される。
「あいつ、人に並ばせるなよな」
葵がそう文句を言うと、
「でもさやかちゃん、友達多そうですごい」
「あいつは人見知りしないことしか取り柄がないから」
彼女は葵の言葉に控えめに笑った。
「えっと、ごめん。なんて、名前だっけ」
何も話さないのも気まずくて、先輩っぽく振る舞いたくなって葵は彼女にそう話しかけた。
「仄香です。比嘉仄香」
「比嘉さんね」
「あっ、仄香でいいです。ヒガって、なんだか響きが可愛くないから。先輩は、葵さん?でしたっけ」
「そう、小早川葵」
「かわいい、名前」
彼女はそう言って小さく笑った。話してみると、思いの外話しやすくて、控えめだけどよく笑う。
「さやかと、中学一緒だったの」
「ううん、私、学区外入試で来たんで」
「え、もしかしてめちゃめちゃ遠いってこと?」
「はい。だから中学校が一緒だった友達とかひとりもいなくて。でもさやかちゃんは、バレエのコンクールとかで見たことあって、しゃべるのは今日初めてなんですけど」
「そう、バレエやってたんだ」
「はい。なのでここでもダンス部に入って、そっちで続けようかなって」
列が終わって、葵たちの順番になる直前に、「ごめん」とさやかが帰ってきた。
〇〇高校入学式、と書かれた看板の前に、まず、さやかと仄香が立った。葵は少し下がって、看板の頭からふたりのつま先まで入るように、さやかの持っていたデジタルカメラで写真を撮った。
きちんと撮れていることを確認して、今度は葵がさやかの隣に立った。カメラを渡された仄香は、やけに真剣な顔でファインダーを覗きながらシャッターを押していた。
仄香が撮れた写真を確認するためにさやかにカメラを渡す。さやかはどこか楽しそうに、葵と仄香も撮ってあげるよ、と言った。
なんでだよ、と言いそうになったが、意味もなくきつい物言いになりそうで止めた。その代わりに、葵はじゃあ撮ろうか、と言って仄香を手招きした。
彼女はまた遠慮がちに笑って、看板を挟む形で葵の隣に立った。
さやかのハイチーズ、の声とともに、葵は笑った。
その写真はそれから一週間もしないうちに、さやかの母が現像して持ってきてくれた。葵のとなりで仄香は、両手の指をからだの前で重ねて、少しまぶしそうに目を細めている。葵は、さやかと映っているものよりも少し緊張した笑顔で立っていた。
葵が自分の部屋の勉強机に座って写真を眺めていると、机の上に置いてあった携帯電話が震えた。誰かから電話だった。
画面に表示されている名前を見て、葵はふと、息が止まった。
2枚の写真を置いて、彼はゆっくりと、電話を取った。
「もしもし、葵くん?」
ひさしぶりの彼女の声は、何も変わっていない。身勝手なくらいのんびりとして、落ち着いていた。
「…由紀さん?」
おそるおそる、その人の名前を口にした。
口に出すのが申し訳ないくらいに愛しい、その名前を。